都議選で惜敗した漢人明子さんの選挙報告会(緑の党事務所)に参加する。毎日新聞のコラムに「異彩を放った小金井市」の見出しで取り上げられたように、市民派の底力は示せたが、都民ファースト台風に屈した。菅直人元首相が個人として告示3日前に支持を表明したのは、市民運動家としての〝初心に帰る〟意味もあったはずだ。
かつて菅氏が率いた民進党が混乱している。俺が次期代表に期待するのは、社会民主主義者に〝生まれ変わった〟(はずの)前原誠司氏である。党大会(3月)で<格差と貧困の是正こそ最大の課題>と訴えた井手英策慶大教授の来賓挨拶は、ネットにアップされるや感動の渦を巻き起こした。その井手教授は前原氏のブレーンである。仮に前原氏と長妻昭氏が手を携え<公正と平等>の旗を掲げれば、支持率上昇のチャンスはある。
中村文則の「私の消滅」(16年、文藝春秋)を読了した。2カ月ほど前に読み始めたが、気詰まりになって20㌻ほどで放り出し、再チャレンジする。<このページをめくれば、あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない>の書き出しに、容易ならざる気配が漂っている。
<神は存在するのか? 悪とは? 罪とは? 裁きとは?>……。根源的なテーマを追求する小説を短いインターバルで発表する中村を、当ブログで頻繁に取り上げてきた。前作「あなたが消えた夜に」を<作者自身が最も投影された作品>と評したが、「私の消滅」では濃密な<中村ワールド>の闇が凝縮され、叫びや喘ぎが行間から洩れている。
僕は冒頭、小塚亮太の手記を読み始める。書き出しは上記の通りだ。完成したジクソーパズルを床に叩きつけ、ピースとしての手記、資料、ファイル、対話、モノローグで再構築するのが中村の手法といえる。本作でも主観が交錯して僕と小塚が重なりながら距離を置き、時空を遡行しつつ順行して進行する。
中村は<子供の頃、少年犯罪が報道されるたび、他人事に思えなかった>と語っていた。主人公たちは記憶に刻まれた罪の意識に囚われたまま成人する。小塚も葛藤から解放されるべく精神科医になり、患者として訪れたゆかりに心を揺さぶられる。小塚には殺意を抱き、結果として傷つけることになった妹がいた。ゆかりへの愛は、妹への代償行為ともいえる。
凄惨な記憶に苛まれていたゆかりは小塚同様、〝あらかじめ失い、疎外された者〟いや〝あらかじめ奪われた者〟だった。作意的に二人を結びつけたのは精神科医の吉見だが、負の二乗は愛の形にそぐわない。ゆかりは小塚の元を去り、カフェ経営者の和久井と恋愛関係になる。中村の作品には支配的な悪魔的父性、宥和的な守護者的父性が対で登場するが、吉見は前者、和久井は後者といえる。
宮崎勤についての分析、記憶創成と削除の療法に関する記述は、唐突に思えたがその実、物語の回転軸になっていた。中村はアメリカでミステリ-作家にカテゴライズされているが、本作も見方を意識の深淵に迫る謎解きだ、錯綜したストーリーに痕跡が示され、切り口によって景色は変わってくるが、俺は<哀しくて切ない純愛物語>と受け取った。
<私とは、僕とは、人間とは、意識とは>……。読み進むうち、縦向きの迷路に閉じ込められたような感覚を抱く。本作に現れる特殊な装置とは無縁でも、私や僕は、どこまで自立しているのかわからなくなる。本作に覚えた焦燥は、管理社会への不安と怯えに連なっているはずだ。
中村は血を吐き出すように小説を書いている。「大丈夫?」と声を掛けたくなるが、心配は要らない。<復讐の成就>と<私の消滅>という結末、いや<書くという行為>こそ中村にとってのカタルシスであり、安定剤なのだろう。8月に新作「R帝国」を発表し、「悪と仮面のルール」(10年)の映画化が決定した。初代〝日本のドストエフスキー〟高橋和巳は39歳でこの世を去ったが、〝2代目〟は深い闇を突き進み、9月に不惑を迎える。
中村の趣味は野球観戦で、夕刻からはプロ野球に日々、見入っているという。贔屓チームの成績で明暗に差異が生じるなんて、常に暗い小説を読む限りあり得ない。<暗くて孤独>というパブリックイメージ形成には、中村本人も寄与している。実像は真逆で、仲間とビール片手に球場でワイワイ騒いでいたら、それはそれでミステリーだ。
かつて菅氏が率いた民進党が混乱している。俺が次期代表に期待するのは、社会民主主義者に〝生まれ変わった〟(はずの)前原誠司氏である。党大会(3月)で<格差と貧困の是正こそ最大の課題>と訴えた井手英策慶大教授の来賓挨拶は、ネットにアップされるや感動の渦を巻き起こした。その井手教授は前原氏のブレーンである。仮に前原氏と長妻昭氏が手を携え<公正と平等>の旗を掲げれば、支持率上昇のチャンスはある。
中村文則の「私の消滅」(16年、文藝春秋)を読了した。2カ月ほど前に読み始めたが、気詰まりになって20㌻ほどで放り出し、再チャレンジする。<このページをめくれば、あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない>の書き出しに、容易ならざる気配が漂っている。
<神は存在するのか? 悪とは? 罪とは? 裁きとは?>……。根源的なテーマを追求する小説を短いインターバルで発表する中村を、当ブログで頻繁に取り上げてきた。前作「あなたが消えた夜に」を<作者自身が最も投影された作品>と評したが、「私の消滅」では濃密な<中村ワールド>の闇が凝縮され、叫びや喘ぎが行間から洩れている。
僕は冒頭、小塚亮太の手記を読み始める。書き出しは上記の通りだ。完成したジクソーパズルを床に叩きつけ、ピースとしての手記、資料、ファイル、対話、モノローグで再構築するのが中村の手法といえる。本作でも主観が交錯して僕と小塚が重なりながら距離を置き、時空を遡行しつつ順行して進行する。
中村は<子供の頃、少年犯罪が報道されるたび、他人事に思えなかった>と語っていた。主人公たちは記憶に刻まれた罪の意識に囚われたまま成人する。小塚も葛藤から解放されるべく精神科医になり、患者として訪れたゆかりに心を揺さぶられる。小塚には殺意を抱き、結果として傷つけることになった妹がいた。ゆかりへの愛は、妹への代償行為ともいえる。
凄惨な記憶に苛まれていたゆかりは小塚同様、〝あらかじめ失い、疎外された者〟いや〝あらかじめ奪われた者〟だった。作意的に二人を結びつけたのは精神科医の吉見だが、負の二乗は愛の形にそぐわない。ゆかりは小塚の元を去り、カフェ経営者の和久井と恋愛関係になる。中村の作品には支配的な悪魔的父性、宥和的な守護者的父性が対で登場するが、吉見は前者、和久井は後者といえる。
宮崎勤についての分析、記憶創成と削除の療法に関する記述は、唐突に思えたがその実、物語の回転軸になっていた。中村はアメリカでミステリ-作家にカテゴライズされているが、本作も見方を意識の深淵に迫る謎解きだ、錯綜したストーリーに痕跡が示され、切り口によって景色は変わってくるが、俺は<哀しくて切ない純愛物語>と受け取った。
<私とは、僕とは、人間とは、意識とは>……。読み進むうち、縦向きの迷路に閉じ込められたような感覚を抱く。本作に現れる特殊な装置とは無縁でも、私や僕は、どこまで自立しているのかわからなくなる。本作に覚えた焦燥は、管理社会への不安と怯えに連なっているはずだ。
中村は血を吐き出すように小説を書いている。「大丈夫?」と声を掛けたくなるが、心配は要らない。<復讐の成就>と<私の消滅>という結末、いや<書くという行為>こそ中村にとってのカタルシスであり、安定剤なのだろう。8月に新作「R帝国」を発表し、「悪と仮面のルール」(10年)の映画化が決定した。初代〝日本のドストエフスキー〟高橋和巳は39歳でこの世を去ったが、〝2代目〟は深い闇を突き進み、9月に不惑を迎える。
中村の趣味は野球観戦で、夕刻からはプロ野球に日々、見入っているという。贔屓チームの成績で明暗に差異が生じるなんて、常に暗い小説を読む限りあり得ない。<暗くて孤独>というパブリックイメージ形成には、中村本人も寄与している。実像は真逆で、仲間とビール片手に球場でワイワイ騒いでいたら、それはそれでミステリーだ。