中野通りで先日、ウオーキング花見と洒落てみたが、以前の濃密さは感じなかった。梶井基次郎や坂口安吾の小説、井上陽水やイエロー・モンキーの曲に、桜は狂気の象徴として描かれていたが、東日本大震災後、空気は変わる。狂気は既に社会に蔓延し、正気を駆逐する勢いだ。
なんて偉そうに書いてみたが、狂いつつあるのは、社会ではなく俺の方かもしれない。淡々と伝えられるニュースに違和感を覚える〝孤独な狂者〟の拠りどころは、2月に発刊された辺見庸の「国家、人間 あるいは狂気についてのノート」である。
メーンに据えられた鵜飼哲との対談を読み解くためのテキストとして、既出の評論、詩文集「生首」と「眼の海」からの抜粋に書き下ろしを加え、再構成する形を採っている。テーマは多岐にわたるが、咀嚼できていない辺見の言葉を書き散らすのは無意味だ。当稿では自分の経験や感覚に照らす形で、狂気について記すことにする。
まずは、俺が<社会の狂気>と捉える事例を、以下に挙げてみる。
5月に映画「俺俺」が公開されるが、原作者の星野智幸は情況に最もビビッドな表現者だ。昨年の総選挙直後、星野は右傾化に警鐘を鳴らした。<これからは〝密告〟と〝狩り〟がはびこるだろう。自分の苦痛を行き渡らせたい衝動だ>というツィートは案の定〝狩り〟の対象になったが、もう一つの危惧も現実になる。小野市で成立した「生活保護通報条例」に賛成した議員たち(16人中15人)の正気を疑った。ネットでは既に主流になっている密告と相互監視が、いずれ社会の基調になる可能性が高い。
「放射能は大丈夫」を繰り返した山下俊一氏の言動に狂いを見るのは少数派だ。山下氏は福島原発事故直後、民主党が承認する形で県放射能アドバイザーに就任し、その夏には「朝日がん大賞」を受賞している。山下氏は政権と朝日新聞から<正気>のお墨付きを得た。ならば、映画「希望の国」の主人公のように放射能に怯える者は<狂人>ということになる。
仕事先の夕刊紙の株面に、俺は時々狂いを見る。「原発輸出は実績のある日本にとってビジネスチャンス」と説く記事に、「実績って、福島?」とツッコミたくなる。「リストラを進める企業の株を買え」と<1%>に与する経済評論家は主張している。いずれ地獄を見るのにアベノミクスに沸く<99%>は、果たして正気を保っているのだろうか。
辺見は鵜飼との対談で、早大で講師を務めた時の体験を語っている。最初の授業の日、「構内での反社会的活動を禁ずる」と書かれた看板に迎えられ、<僕に言っているのか>と感じたという。辺見が最大の敬意を払う表現者は、三菱重工爆破と昭和天皇暗殺未遂で起訴された死刑囚の俳人、大道寺将司だ。辺見は自らの<反社会性>を十分に自覚している。
「なぜガザ住民は封鎖・大量殺害されるのか」と題された緊急報告会(明大)に足を運んだ時、俺は大学の不気味さに気付いた(08年3月の稿)。カルトの施設名のような「リバティータワー」の壁に、「宗教団体、悪徳商法、政治セクトは親しみやすい仮面で近づいてきます。不審に思ったら学生課に一報を」と記されていた。
早大の看板、明大のビラを当然と受け止める人こそ、<正気>なのだろう。辺見と俺が共有した違和感が<狂いの証し>なら、むしろ光栄だ。辺見は学生相手に熱心に語りかけたが、言葉はまるで響かなかった。「水の透視画法」で<コーティングされた狂気が、あたかも正気ぶって、とうにここにやってきている>(要旨)と記しているが、大学という〝仮想の温室〟で辺見が見たのは〝コーティングされた狂気〟だったに相違ない。
第3章「口中の闇あるいは罪と恥辱について」で、石井部隊を俎上に載せていた。<しごく正気の殺戮>の過程で、医師やスタッフは<ルーティンをこなすときの沈着、平静、恬然とした空気>を失わず、誰も自らの狂気を自覚していない。俺はその場面に、教室でのいじめや大企業の追い出し部屋の光景を重ねてしまう。
辺見は本作で、正気と狂気のあわいに立つ自身の現状を明かしている。今年1月に発表した小説「青い花」を<狂者の譫言>と評し、<狂気がどんなものなのかわからなくなった現在を、狂者の錯乱した暗視界の奥から視かえす>と結んでいた。辺見の情念と憤怒のベクトルは自らの内を抉った後、血が付着した切っ先を外に向ける。だからこそ、比類なき説得力を誇っているのだ。
狂気は沈黙の中で胚胎し、含み笑いや目配せの形で滲み出る……。俺は狂気にこんなイメージを抱いている。従順な小羊の群れが囲い込まれ、いずれ柵に火が放たれる。人々を正気に戻すのは、KYと疎んじられる空気を読めない、いや、空気を読まない者たちだ。壁を壊す突破者は登場するだろうか。
なんて偉そうに書いてみたが、狂いつつあるのは、社会ではなく俺の方かもしれない。淡々と伝えられるニュースに違和感を覚える〝孤独な狂者〟の拠りどころは、2月に発刊された辺見庸の「国家、人間 あるいは狂気についてのノート」である。
メーンに据えられた鵜飼哲との対談を読み解くためのテキストとして、既出の評論、詩文集「生首」と「眼の海」からの抜粋に書き下ろしを加え、再構成する形を採っている。テーマは多岐にわたるが、咀嚼できていない辺見の言葉を書き散らすのは無意味だ。当稿では自分の経験や感覚に照らす形で、狂気について記すことにする。
まずは、俺が<社会の狂気>と捉える事例を、以下に挙げてみる。
5月に映画「俺俺」が公開されるが、原作者の星野智幸は情況に最もビビッドな表現者だ。昨年の総選挙直後、星野は右傾化に警鐘を鳴らした。<これからは〝密告〟と〝狩り〟がはびこるだろう。自分の苦痛を行き渡らせたい衝動だ>というツィートは案の定〝狩り〟の対象になったが、もう一つの危惧も現実になる。小野市で成立した「生活保護通報条例」に賛成した議員たち(16人中15人)の正気を疑った。ネットでは既に主流になっている密告と相互監視が、いずれ社会の基調になる可能性が高い。
「放射能は大丈夫」を繰り返した山下俊一氏の言動に狂いを見るのは少数派だ。山下氏は福島原発事故直後、民主党が承認する形で県放射能アドバイザーに就任し、その夏には「朝日がん大賞」を受賞している。山下氏は政権と朝日新聞から<正気>のお墨付きを得た。ならば、映画「希望の国」の主人公のように放射能に怯える者は<狂人>ということになる。
仕事先の夕刊紙の株面に、俺は時々狂いを見る。「原発輸出は実績のある日本にとってビジネスチャンス」と説く記事に、「実績って、福島?」とツッコミたくなる。「リストラを進める企業の株を買え」と<1%>に与する経済評論家は主張している。いずれ地獄を見るのにアベノミクスに沸く<99%>は、果たして正気を保っているのだろうか。
辺見は鵜飼との対談で、早大で講師を務めた時の体験を語っている。最初の授業の日、「構内での反社会的活動を禁ずる」と書かれた看板に迎えられ、<僕に言っているのか>と感じたという。辺見が最大の敬意を払う表現者は、三菱重工爆破と昭和天皇暗殺未遂で起訴された死刑囚の俳人、大道寺将司だ。辺見は自らの<反社会性>を十分に自覚している。
「なぜガザ住民は封鎖・大量殺害されるのか」と題された緊急報告会(明大)に足を運んだ時、俺は大学の不気味さに気付いた(08年3月の稿)。カルトの施設名のような「リバティータワー」の壁に、「宗教団体、悪徳商法、政治セクトは親しみやすい仮面で近づいてきます。不審に思ったら学生課に一報を」と記されていた。
早大の看板、明大のビラを当然と受け止める人こそ、<正気>なのだろう。辺見と俺が共有した違和感が<狂いの証し>なら、むしろ光栄だ。辺見は学生相手に熱心に語りかけたが、言葉はまるで響かなかった。「水の透視画法」で<コーティングされた狂気が、あたかも正気ぶって、とうにここにやってきている>(要旨)と記しているが、大学という〝仮想の温室〟で辺見が見たのは〝コーティングされた狂気〟だったに相違ない。
第3章「口中の闇あるいは罪と恥辱について」で、石井部隊を俎上に載せていた。<しごく正気の殺戮>の過程で、医師やスタッフは<ルーティンをこなすときの沈着、平静、恬然とした空気>を失わず、誰も自らの狂気を自覚していない。俺はその場面に、教室でのいじめや大企業の追い出し部屋の光景を重ねてしまう。
辺見は本作で、正気と狂気のあわいに立つ自身の現状を明かしている。今年1月に発表した小説「青い花」を<狂者の譫言>と評し、<狂気がどんなものなのかわからなくなった現在を、狂者の錯乱した暗視界の奥から視かえす>と結んでいた。辺見の情念と憤怒のベクトルは自らの内を抉った後、血が付着した切っ先を外に向ける。だからこそ、比類なき説得力を誇っているのだ。
狂気は沈黙の中で胚胎し、含み笑いや目配せの形で滲み出る……。俺は狂気にこんなイメージを抱いている。従順な小羊の群れが囲い込まれ、いずれ柵に火が放たれる。人々を正気に戻すのは、KYと疎んじられる空気を読めない、いや、空気を読まない者たちだ。壁を壊す突破者は登場するだろうか。
おっしゃる通りの空気がどんどん濃くなっていますね。
森達也氏のオウムの本を読んで同様のことを
感じました。社会に狂気が蔓延しています。
おっしゃる通り、オウム事件の頃から、変化は起きていたのかもしれない。小泉政権時の狂騒、、当時の堀江氏の発言に違和感を覚えましたが、安倍政権以降、あの頃の空気に近くなってきたようですね。
九条ナイフ事件のあたりからでしょうね(爆笑)。
あれから4年、事態は変わっていないと思います。