酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「懺悔」~夢の中で見た夢

2009-01-17 02:17:58 | 映画、ドラマ
 ブログの材料をいつも探している。家庭人なら、日常の出来事でネタに困らないだろう。愛人でもいれば、ドロドロの恋愛日記を露悪的に公開する手もある。句心あれば自作を披露して悦に入るはずだが、無芸大食の六無斉にはいずれも当てはまらない。

 となれば、必死で見つけるしかない。ネットで訃報をチェックするのも悲しい習性だ。映画観賞も俺には“義務”だが、時に困った事態に直面する。最たる例が先週土曜に見た「懺悔」(84年、グルジア/テンギス・アブラゼ)だ。

 不眠気味で5日間の仕事を終えた週末、岩波ホールに足を運んだ。後頭部が鈍く痺れ、爆睡できそうな状態で本編に突入する。スクリーンは小さく、字幕の印字が薄いせいかはっきり読めない。2時間30分の眠気との闘いがスタートした。

 宿題(ブログ)があるから、股をつねったり、頭を叩いたりしながら画面を凝視する。冒頭はケーキ屋のシーンで、女主人ケテヴァンが豪華なデコレーションケーキを窓越し客に渡していた。居間の中年男がヴァルラム市長の死を伝える新聞を手に嘆いている。ケーキは祝いのはずだが……。俺はいきなり混乱する。

 レンブラントの絵のように薄明のシーンが続き、“落ちた”と思った瞬間、女性の叫び声で踏みとどまる。ヴァルラムの息子アベルの妻グリコが、庭に遺体を発見したのだ。ヴァルラムの遺体は3度掘り返され、ケテヴァンが逮捕される。

 法廷でケテヴァンが“犯行”に至った経緯を述べる。ヴァルラムのモデルはスタ-リンだが、ゴルバチョフが書記長に就任する前年の制作で、恐怖政治を戯画化して告発せざるを得なかった。ヴァルラムは道化のように歌い踊り、部下は甲冑を纏った騎士のいでたちである。

 <人並みにヴァルラムを葬れば、罪を許すことになる。私は自分と、すべての無実の犠牲者の名において遺体を掘り起こし続ける>(要旨)という肝の台詞は聞き逃さなかったが、回想、幻想、イメージが織り込まれ、夢の中で夢を見ているような感覚に陥っていた。音楽も印象的だが、ベートーベンしか聞き分けられない。クラシック通なら、監督の意図をより深く理解できるだろう。

 ヴァルラムとアベルは同じ役者が演じている。アベルが悪魔(ヴァルラム)と気付かず懺悔するシーンは「カラマーゾフの兄弟」を彷彿とさせるが、下敷きになっているのは創世記の「カインとアベル」だろう。カイン(ヴァルラム)の罪は息子を苦しめ、孫のトルニケを破滅に追い込む。アベルがケテヴァンの思いを引き継ぐシーンに息をのみ、冒頭のケーキ屋に戻る。

 すべて白昼夢だったのか、清々しい表情を浮かべるケテヴァンに老婆が道を尋ねる。
ケテヴァン「ヴァルラム通りは教会に通じていないわ」
老婆「教会に通じない道が、何の役に立つの」
 魂の救済と再生を希求するラストシーンは、ペレストロイカの魁ともいえるだろう。

 かつて俺は、出身高校が共学になった夢を見た。夢がいつしか事実と化し、同窓生に話して恥をかいたことがある。「懺悔」はまさに<夢の中の夢>で、1週間後の今、別作品に脚色されているかもしれない。<真実>に触れたい方は、“映画学徒”が集う岩波ホールへどうぞ。


コメント (2)
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