酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「二重人格」~青年ドストエフスキーの懊悩

2023-02-27 21:01:15 | 読書
 パンサラッサがサウジカップを制した。雌伏の時期を経てトップ調教師に上り詰めた矢作芳人師とスタッフ、乗り馬に恵まれないものの地道に騎乗を続ける吉田豊騎手が、JRAでダート経験1回(11着)の同馬を世界最高峰のダートレース制覇に導いた。日本の競馬から消えてしまった夢と奇跡を目の当たりい出来て胸が熱くなった。

 朝日杯準決勝の豊島将之九段戦で絶体絶命から這い上がった藤井聡太竜王(5冠)は勢いそのまま決勝で渡辺明名人を破った。中1日で臨んだ王将戦第5局では羽生善治九段との二転三転の激闘を制し、3勝2敗と防衛に王手をかけた。AIの評価値が藤井30%を示した時、屋敷伸之九段は「人間的には藤井さんの方が指しやすいように見える」と解説していた。対局番組の楽しみの一つは、 AIと人間の感性との微妙な距離だ。

 前々稿で記したように、3~4月にかけ白内障の手術をする。映画の字幕は読み取れるが、活字には難儀している。フョードル・ドストエフスキーの「二重人格」(小沼文彦訳/岩波文庫)は何度も放り出しそうになった。とにかく字が小さく、30分も読むと目がかすんでくるからだ。

 俺は当ブログで初読、再読を含め「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」の4長編を紹介してきた。その他、「貧しき人びと」、「地下室の手記」、「賭博者」を学生時代に読んでいて、「二重人格」はドストエフスキーの8作目になる。俺は<ドストエフスキーはR50の至高のエンターテインメント>と評してきた。だが、「分身」と訳されることが多い「二重人格」は<読みづらい>、<難解>といったマイナスイメージそのものの作品だった。

 本作は1846年に発表された。舞台は帝政ロシアの首都ペテルブルクで、主人公のゴリャートキン氏は九等文官の下級官吏だ。ちなみに当時、一等官から八等官までが上級、九等以下から十四等官までが下級に分類されていた.ゴリャートキン氏は上級官吏へあと一歩の位置にあった。

 1840年代といえば江戸時代で、都市という概念は日本にはなかったと思う。だが「二重人格」には極寒のペテルブルクの街並みと風俗が、時にゴリャートキン氏の心象風景と映すかのように描かれている。先駆的な<都市小説>といえるだろう。さらに、主人公が勤める官庁の人間関係がつぶさに描かれており、<サラリーマン小説>を連想させる部分もある。

 ドストエフスキーは「貧しい人々」で華々しいデビューを飾り、自信をもって「二重人格」を世に問うたが、暗くて回りくどく、反復が多いと酷評された。ドストエフスキーはゴーゴリをリスペクトしていたが、「狂人日記」の影響が濃過ぎることも、酷評の理由の一つかもしれない。

 「二重人格」は作者が25歳の時の作品だが、主人公のゴリャートキン氏は少し年上で世の中の垢にまみれた感がある。大都市に暮らす孤独な独身者の悲哀をまとっているが、下級官吏とはいえ、住み込みの従僕を雇う余裕はある。当時のロシア社会における習慣に沿った設定なのだろう。それが一般的なのかはともかく、ゴリャートキン氏自身の結婚や女性について、あるいはドイツ人についての捉え方も吐露されている。

 これは青年期の男性では当然のことだが、ゴリャートキン氏もまた、自分が何者で、何を信じて世を渡っていくべきか自問自答する。冒頭から世間とうまく距離を取れていないことは明らかで、主治医の病院で一騒動を起こし、職場では上司や同僚に突っかかるなど、他者と折り合いが悪い。

 自分は非社交的だが、権謀術数を用いたりせず、人を傷つけたりもしない。高潔さを保っているが、敵は容赦しない……。ゴリャートキン氏は被害妄想的にこう考え、職場の上司とその甥を敵と見做している。そこにゴリャートキン氏を追い込む男が現れた。容姿どころか地位まで同じ九等文官の新ゴリャートキン氏である。

 フロイトなどの精神分析が流布する前だが、新ゴリャートキン氏はドッペルゲンガー(自己像幻視)だ。第三者とは関わらないと定義されているが、新ゴリャートキン氏は上司に媚びを売り、悪意を持って高潔を自任する旧ゴリャートキン氏を嘲笑い、更なる孤立に追いやる。旧ゴリャートキン氏はプライドを破壊され、精神病院に収容される。

 若き日のドストエフスキーの懊悩が滲んでいたが、対話を重視する<多声性>を身につけたドストエフスキーは、ユーモアと毒がある語り口で、神と悪魔、罪と罰、純粋さと欲望、秩序と反抗、愛と嫉妬、正義感と沈黙、救いと堕落といった深淵なテーマを対比し、カタルシスとカタストロフィーを表現する作家になった。
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