政治家は嘘をつく。野田首相は「近いうちに解散」との約束を破ったが、内閣支持率は上昇中だ。政治に倫理を持ち込むのが悪い癖といわれた日本人だが、「正直なんて糞食らえ」と開き直ったか、あるいは「嘘も方便」と達観したのか。
俺もまた、頻繁に嘘をつく。言い訳になるが、理由の一つは健忘症だ。30代前半の頃、ある女性と渋谷のドイツ料理店で食事する約束をした……らしい。当日、すっかり忘れて別の店に向かおうとした俺の顔を、彼女のバッグが直撃する。ウンコ座りのチーマーが吹っ飛んだ眼鏡を拾い、にやけた表情で渡してくれた。
もう一つの理由は、夢と妄想の現実との混濁だ。上記とほぼ同時期、20年以上も前のことだが、俺は同窓生に<うちの高校が共学になる>と伝えた。メディアの隅っこにぶら下がっていた俺の言葉を彼は信じたが、数カ月後、怒りの電話が掛かってきた。一片の真実もない虚構をいかに事実に育てたのか、俺自身も覚えていない。
酔生夢死状態で日々を過ごす俺にピッタリなのが辻原登の小説だ。先日、「マノンの肉体」(講談社文庫)を読了する。辻原ワールド3冊目で、傑作と評される作品群は未読のまま。待ち構えている衝撃と驚嘆を想像するだけでワクワクする。
別稿で辻原との出会いを<魔物との邂逅>と評したが、虚実の皮膜で空中楼閣を築き上げる手管に、本作でも瞠目させられた。解説の藤沢周氏の言葉を借りれば、辻原の作品は<自己をめぐる探偵小説>であり、<どのような想像力の地下茎が(辻原の)言語宇宙に張り巡らされているのか茫然としてしまう>……。
収録された3作のうち、ラストの「戸外の紫」は俺の理解を超えたシュールで不条理な逃避行だ。映像的な小説で、故神代辰巳が撮れば、スクリーンから官能が零れ落ちる作品になるだろう。今稿では「片瀬江ノ島」、表題作「マノンの肉体」について感想を記したい。ともに時空を超えた虚実の糸に織り成され、読み進めるうち、自分の立ち位置が怪しくなってくる。日本にもマジックリアリズムの使い手がいることを辻原は証明した。
私(主人公)と橘夫人との出会いが起点になる「片瀬江ノ島」では、ラフカディオ・ハーンが江ノ島を行脚した1890年、「浮草」(小津安二郎)が公開された1954年、そして本作発表時の1994年の三つの時間がシンクロする。橘夫人が語る亡夫は謎に満ちており、まるで諜報員か山師だ。リアルなのは「浮草」のストーリーだけで、橘一家の物語と意識的に重ねられている。
タイムスリップした私は理髪店の窓越し、鏡に映る坊主頭の少年を見る。私は<なぜ(私が)坊主頭の少年に変じたのか>と訝っているが、これはポーズだ。1945年生まれの辻原は59年当時、14歳の少年である。ミヒャエル・エンデの「鏡の中の鏡―迷宮―」を想起させる鮮やかな仕掛けといえるだろう。
人間の多面性を掘り下げる辻原は、「マノンの肉体」の冒頭、私(主人公)の二面性を突き付けてくる。冷徹に社員のクビを切る総務部長にして、文学愛好家という矛盾は、会社を辞した後、病になって私を襲う。
<膠原病は、敵の抗原が外ではなく体内にあるのだ。(中略)抗原も自己、抗体も自己。自分の敵は自分という次第。このからだは、自分を守るどころか、自分で自分を破壊しようとしている>……。
当ブログの数少ない読者は、膠原病が妹の命を奪ったことをご存じのはずだ。苦しみを見せなかった妹の気丈さに思いを馳せつつ、上記の一文に本作を解く鍵が秘められていることに気付く。
読書を禁じられた私は、美術を学ぶ娘に「マノン・レスコー」の朗読を頼む。「ファム・ファタール」が最初に登場する同作に、多くの表現者がインスパイアされた。まず浮かぶのは「情婦マノン」(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー)、「ベルリン」(ルー・リード)だ。
私は次第に惑い始める。男を狂わせる美女という設定なのに、作者プレヴォーはマノンの容姿について、髪や目の色さえ記していない。主人公のデ・グリューはマノンの数々の裏切りと不行跡、そして腐乱死体を見届けてアメリカから帰国し、ルノンクール侯爵に思い出を語る。この構成を踏まえた私は、<マノンに肉体がないのではない。死体があるのだ>という結論に至る。
家庭が崩壊する中、私は故郷和歌山で起きた事件に惹きつけられる。二人の男の死は心中だったのか、それとも毒殺だったのか、作者は調書や証言を組み立て〝事実の貌〟を繕っていく。孤独と死の予感に衝き動かされた私は、廃墟と化した現場を訪れる。本作をリアルタイム(1994年)で読んでいたら、俺は4年後、背筋が寒くなるほどの恐怖を覚えたに違いない。ラストで仄めかされた<鼻をつくこぼれた蜜(毒)のにおい、何かうごめく気配>が、虚から実に転じる。世間を震撼させたカレー事件が起きたのは和歌山だった。
本作読了後、ある作家が無性に読みたくなった。辻原と同年生まれで、方法論は真逆の車谷長吉である。今月中旬には帰省するので、亀岡で「忌中」を読むことにしよう。
俺もまた、頻繁に嘘をつく。言い訳になるが、理由の一つは健忘症だ。30代前半の頃、ある女性と渋谷のドイツ料理店で食事する約束をした……らしい。当日、すっかり忘れて別の店に向かおうとした俺の顔を、彼女のバッグが直撃する。ウンコ座りのチーマーが吹っ飛んだ眼鏡を拾い、にやけた表情で渡してくれた。
もう一つの理由は、夢と妄想の現実との混濁だ。上記とほぼ同時期、20年以上も前のことだが、俺は同窓生に<うちの高校が共学になる>と伝えた。メディアの隅っこにぶら下がっていた俺の言葉を彼は信じたが、数カ月後、怒りの電話が掛かってきた。一片の真実もない虚構をいかに事実に育てたのか、俺自身も覚えていない。
酔生夢死状態で日々を過ごす俺にピッタリなのが辻原登の小説だ。先日、「マノンの肉体」(講談社文庫)を読了する。辻原ワールド3冊目で、傑作と評される作品群は未読のまま。待ち構えている衝撃と驚嘆を想像するだけでワクワクする。
別稿で辻原との出会いを<魔物との邂逅>と評したが、虚実の皮膜で空中楼閣を築き上げる手管に、本作でも瞠目させられた。解説の藤沢周氏の言葉を借りれば、辻原の作品は<自己をめぐる探偵小説>であり、<どのような想像力の地下茎が(辻原の)言語宇宙に張り巡らされているのか茫然としてしまう>……。
収録された3作のうち、ラストの「戸外の紫」は俺の理解を超えたシュールで不条理な逃避行だ。映像的な小説で、故神代辰巳が撮れば、スクリーンから官能が零れ落ちる作品になるだろう。今稿では「片瀬江ノ島」、表題作「マノンの肉体」について感想を記したい。ともに時空を超えた虚実の糸に織り成され、読み進めるうち、自分の立ち位置が怪しくなってくる。日本にもマジックリアリズムの使い手がいることを辻原は証明した。
私(主人公)と橘夫人との出会いが起点になる「片瀬江ノ島」では、ラフカディオ・ハーンが江ノ島を行脚した1890年、「浮草」(小津安二郎)が公開された1954年、そして本作発表時の1994年の三つの時間がシンクロする。橘夫人が語る亡夫は謎に満ちており、まるで諜報員か山師だ。リアルなのは「浮草」のストーリーだけで、橘一家の物語と意識的に重ねられている。
タイムスリップした私は理髪店の窓越し、鏡に映る坊主頭の少年を見る。私は<なぜ(私が)坊主頭の少年に変じたのか>と訝っているが、これはポーズだ。1945年生まれの辻原は59年当時、14歳の少年である。ミヒャエル・エンデの「鏡の中の鏡―迷宮―」を想起させる鮮やかな仕掛けといえるだろう。
人間の多面性を掘り下げる辻原は、「マノンの肉体」の冒頭、私(主人公)の二面性を突き付けてくる。冷徹に社員のクビを切る総務部長にして、文学愛好家という矛盾は、会社を辞した後、病になって私を襲う。
<膠原病は、敵の抗原が外ではなく体内にあるのだ。(中略)抗原も自己、抗体も自己。自分の敵は自分という次第。このからだは、自分を守るどころか、自分で自分を破壊しようとしている>……。
当ブログの数少ない読者は、膠原病が妹の命を奪ったことをご存じのはずだ。苦しみを見せなかった妹の気丈さに思いを馳せつつ、上記の一文に本作を解く鍵が秘められていることに気付く。
読書を禁じられた私は、美術を学ぶ娘に「マノン・レスコー」の朗読を頼む。「ファム・ファタール」が最初に登場する同作に、多くの表現者がインスパイアされた。まず浮かぶのは「情婦マノン」(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー)、「ベルリン」(ルー・リード)だ。
私は次第に惑い始める。男を狂わせる美女という設定なのに、作者プレヴォーはマノンの容姿について、髪や目の色さえ記していない。主人公のデ・グリューはマノンの数々の裏切りと不行跡、そして腐乱死体を見届けてアメリカから帰国し、ルノンクール侯爵に思い出を語る。この構成を踏まえた私は、<マノンに肉体がないのではない。死体があるのだ>という結論に至る。
家庭が崩壊する中、私は故郷和歌山で起きた事件に惹きつけられる。二人の男の死は心中だったのか、それとも毒殺だったのか、作者は調書や証言を組み立て〝事実の貌〟を繕っていく。孤独と死の予感に衝き動かされた私は、廃墟と化した現場を訪れる。本作をリアルタイム(1994年)で読んでいたら、俺は4年後、背筋が寒くなるほどの恐怖を覚えたに違いない。ラストで仄めかされた<鼻をつくこぼれた蜜(毒)のにおい、何かうごめく気配>が、虚から実に転じる。世間を震撼させたカレー事件が起きたのは和歌山だった。
本作読了後、ある作家が無性に読みたくなった。辻原と同年生まれで、方法論は真逆の車谷長吉である。今月中旬には帰省するので、亀岡で「忌中」を読むことにしよう。
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