酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ガルヴェイアスの犬」~100もの主観が織り成す寓話

2023-06-14 21:57:09 | 読書
 日本は様々な矛盾を抱えているが、<国際標準>を志向して少しずつ解決していくだろう……。10代の頃、そんな風に考えていたが、間違っていた。あれから半世紀、この国は先進国の常識から大きく逸脱している。LGBT、選挙制度、そして2年前に廃案になった旧法案を殆ど修正せず提出された入管法改正案も国際人権法とかけ離れている。難民申請は2回まで、3回目は特別な事情がない限り送還措置で、背けば刑事罰というという内容だ。

 日本の入管制度は、難民申請者の人権や生活を支援するのではなく、収容から放免されても監督するという非人道的な原則に基づいて運用されている。紛争に加え、気候変動によって難民になるケースが今後増えることが想定される。66歳の俺だが、世界を知って<国際標準>を理解したい。その一助として、ポルトガルの小説「ガルヴェイアスの犬」(ジョゼ・ルイス・ペイショット著/新潮クレスト・ブックス)を読んだ。

 ポルトガルの作家といえば、「白の闇」と「複製された男」を当ブログで紹介したジョゼ・サラマーゴで、76歳でポルトガル語圏初のノーベル賞作家になった。サラマーゴ賞を受賞したペイショットは後継者で、「ガルヴェイアスの犬」はSF的でイマジネーションに溢れた偉才の精神を継承している。

 タイトルのガルヴェイアスは作者の出身地でもある小さな村だ。冒頭で爆音とともに巨大な物体が落ちてきた。「名もなき物」と呼ばれるが、大きさ、色、形は明かされない。落下後、豪雨が1週間降り続き、硫黄の臭いが村を覆うようになって、焼いたパンにも染みついていた。寓話が俯瞰の目で進行すると思いきや、視点は地面に下りてくる。天変地異の影響か、村の風景はプリズムを通したように歪み始め、村民たちの関係性に齟齬が生じた。

 100人ほどの村民たちの主観で進行するが、読了した時、反省した。大雑把でいいから登場人物を整理しておけば、血縁、地縁、記憶の糸をほどき、作品の肝に気づけたかもしれないと……。本音のモノローグだから、各自の倒錯も明らかになる。年下の女性への執着を隠せない老人、ロリコンで10代の女の子を孕ませた男、窃視者……。人間の秘められた欲望と対照的なのが、本能剥き出しの犬たちだ。「名もなき物」は臭い以外、村民から忘れ去られるが、棲みつく無数の犬たちと交霊している。

 「ガルヴェイアスの犬」は<一九八四年一月>と<一九八四年九月>の2章立てになっている。本作の背景を探るにあたり、ポルトガル現代史を調べてみた。隣国スペインについては政治からサッカーまである程度の知識はあるが、ポルトガルについては何も知らなかった。スペインで独裁が終焉する2年前(1974年)にポルトガルで民主化が実現した。その年にペイショットが生まれている。86年にEU加盟が実現するが、地味な国という印象は拭えない。

 「ガルヴェイアスの犬」の登場人物で記憶に残るのは、郵便配達夫のジョアキン・ジャネイロだ。写真撮影も買って出る情報通で、村人たちの結び目役を果たしている。独裁最後の数年間、ポルトガルはアフリカに軍を派遣していたが、ジョアキンも応召し、ギニアで知り合った女性と家庭を持っている。

 ジョアキンのギニア訪問とともに国境を越えるのは、後半で事件にまき込まれるイザベラが語る思い出だ。ブラジルで娼婦として働いた彼女は、ファティマ母さんの遺体を故郷のガルヴェイアスに送り届け、娼館兼パン屋の経営者として定住する。ファティマ母さんが故郷について語る時、イザベラは<幸福な悲しみ>に酔いしれているように感じ、ガルヴェイアスに思いを馳せた。<幸福な悲しみ>こそが本作の主音ではなかったか。

 ラストで生を享けた赤ちゃんは硫黄の臭いがしなかった。村はようやく解き放たれたのか。<ガルヴェイアスは死ぬわけにはいかない>と記され、<動きを止めたまま、宇宙はガルヴェイアスを見ていた>と締めくくられる。翻訳を担当した木下眞穂は訳了前、ペイショットにガルヴェイアスを案内してもらった。作者は村人たちと和やかに交歓していたらしい。本作が黙示的ながら懐かしさを醸す理由がわかった気がした。
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