まずは将棋の速報から。挑戦者の羽生3冠が森内名人に4連勝し、名人に復位した。30年近くも切磋琢磨してきた両者だが、今シリーズは技より気合のぶつかり合いといった印象だった。羽生の斬り込みに腰の重い森内が応える展開になり、スリリングで清々しい闘いを満喫できた。
GW明けから小説を2冊、異なったペースで読んでいる。重厚で長冊の「コレラの時代の愛」(ガルシア・マルケス)は寝る前、睡眠導入剤としてページを繰る。同時進行で「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」に続き、「すべて真夜中の恋人たち」(川上未映子、講談社)を読了した。
「へヴン」を紹介した稿を<邪念と煩悩の塊である俺にとり、「ヘヴン」は最高の濾紙だった。純水が心身の隅々に行き渡る瑞々しさに浸っている>と結んだ。「すべて――」は「ヘヴン」の次作で、主人公の冬子は俺と同業の校閲者である。今回は俺独自の〝校閲論〟も併せて記す。
俺は夕刊紙、冬子は書籍で、同じ校閲といっても作業のリズムは大きく異なる。だが、集中力が求められる点は変わらない。その部分の決定的な差が、冬子=一流、俺=三流になって表れている。優れた校閲者は謙虚で、失敗の痛みを理解している。赤字を見つけてもそっと指摘し、見落とした人のプライドを守るのだ。失敗の連続だった俺は寛容な先輩たちに感謝しているが、能力不足ゆえ、受けた恩を全く返せていない。
「適性もないのに、よく30年も続けたな」……。こう言われたら返す言葉はないが、俺はどの業種に就いていても最低ランクに位置したはずだ。唯一、人並み(偏差値50)にこなせるのが新聞の校閲だ。スピード勝負で100点を求められないし、作業上、チームスピリットが求められるからである。
「すべて――」で冬子は、いくらチェックしても赤字は残るという校閲者の宿命に直面する。本屋で自身が担当した書籍を手にした瞬間、ミスに気付き愕然とする場面が印象的だ。ちなみに俺は、上記の「コレラの愛の時代」で誤植らしきものを見つけた。文中に<「国家」の詩の作者>とあったが、正しくは「国歌」ではないかと……。
小説の主人公は、必ずしも作者の実像を反映しているとは限らない。本作の冬子は自己主張せず控えめだ。性体験は高校時代の一度きりだが、行為の直後、「ぼくは君をみてると、ほんとうにいらいらするんだよ」と詰られ、ジ・エンドだ。職場でも〝無視という名のいじめ〟に遭い、おのずと孤立してフリーになった。
川上は小説で芥川賞、詩で中原中也賞を受賞し、俳優(映画「パンドラの匣」主演)、歌手として活躍する。奔放に生きてきたはずの川上が、真逆に見える冬子を主人公に据えた意図はどこにあるのだろう。冬子に仕事を差配する同い年の聖(出版社社員)を作者の投影と見ることも可能だが、川上は「冬子こそ私の実像」と解説するかもしれない。
聖と冬子は光と影のコントラストで、好対照ゆえ親しくなり、相互に依存している。一歩踏み出した冬子は、聖の装いに身を纏う。本音を語ろうとしない冬子に、聖は「あなたをみてると、いらいらするのよ」と言い放つ。それでも友情は壊れず、聖は身をもって強い生き方を冬子に示す。
30代半ばの冬子は、世間に蔓延する〝恋愛マニュアル〟とは無縁の慎ましさだ。彼女のモノローグに触れるうち、俺はなぜか疼きを覚えた。孤独とは、他者の意味とは、愛することとは……。誰もが、もちろん俺も、一度は悩み、そのうち直視を諦めて回路を閉じた命題に再会し、心を揺さぶられた。
他者との距離を縮めようと、カルチャーセンターに通うことを思い立った冬子は、胸襟を開く手段として酒を用いる。酩酊状態で講座受付に赴くも、ソファで寝込み、バッグをすられる。窮状に陥った冬子の前に現れたのが50代後半の三束だった。
時代遅れでアナログな恋愛、いや、未完のラブストーリーが展開する。プラネタリウムを訪れたことは前稿で触れたが、高校の物理教師という三束なら、壮大なページェントをロマンチックに解き明かすだろう。光と色の仕組みを説明する言葉に、人生への洞察を覚えた冬子は、次第に三束に惹かれていく。
孤独ゆえに、微かな光に希望を見いだし、恋の予感が絶望と孤独を深める……。時代遅れでアナログな冬子の真情に、10代の頃の俺が重なった。ようやく壁を破り、自分と他者に向き合った冬子にもたらされたのは、悲痛な現実である。煌めく星のような美しい言葉で織り成された本作もまた、俺にとって「ヘヴン」同様、至高の濾紙だった。
五十路になって涙腺が脆くなったと記しているが、心も乾季から雨季に移っている。寂寥と憂愁という言葉を、ようやく感覚で捉えられるようになった。心を洗ってくれる小説や映画のおかげである。
GW明けから小説を2冊、異なったペースで読んでいる。重厚で長冊の「コレラの時代の愛」(ガルシア・マルケス)は寝る前、睡眠導入剤としてページを繰る。同時進行で「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」に続き、「すべて真夜中の恋人たち」(川上未映子、講談社)を読了した。
「へヴン」を紹介した稿を<邪念と煩悩の塊である俺にとり、「ヘヴン」は最高の濾紙だった。純水が心身の隅々に行き渡る瑞々しさに浸っている>と結んだ。「すべて――」は「ヘヴン」の次作で、主人公の冬子は俺と同業の校閲者である。今回は俺独自の〝校閲論〟も併せて記す。
俺は夕刊紙、冬子は書籍で、同じ校閲といっても作業のリズムは大きく異なる。だが、集中力が求められる点は変わらない。その部分の決定的な差が、冬子=一流、俺=三流になって表れている。優れた校閲者は謙虚で、失敗の痛みを理解している。赤字を見つけてもそっと指摘し、見落とした人のプライドを守るのだ。失敗の連続だった俺は寛容な先輩たちに感謝しているが、能力不足ゆえ、受けた恩を全く返せていない。
「適性もないのに、よく30年も続けたな」……。こう言われたら返す言葉はないが、俺はどの業種に就いていても最低ランクに位置したはずだ。唯一、人並み(偏差値50)にこなせるのが新聞の校閲だ。スピード勝負で100点を求められないし、作業上、チームスピリットが求められるからである。
「すべて――」で冬子は、いくらチェックしても赤字は残るという校閲者の宿命に直面する。本屋で自身が担当した書籍を手にした瞬間、ミスに気付き愕然とする場面が印象的だ。ちなみに俺は、上記の「コレラの愛の時代」で誤植らしきものを見つけた。文中に<「国家」の詩の作者>とあったが、正しくは「国歌」ではないかと……。
小説の主人公は、必ずしも作者の実像を反映しているとは限らない。本作の冬子は自己主張せず控えめだ。性体験は高校時代の一度きりだが、行為の直後、「ぼくは君をみてると、ほんとうにいらいらするんだよ」と詰られ、ジ・エンドだ。職場でも〝無視という名のいじめ〟に遭い、おのずと孤立してフリーになった。
川上は小説で芥川賞、詩で中原中也賞を受賞し、俳優(映画「パンドラの匣」主演)、歌手として活躍する。奔放に生きてきたはずの川上が、真逆に見える冬子を主人公に据えた意図はどこにあるのだろう。冬子に仕事を差配する同い年の聖(出版社社員)を作者の投影と見ることも可能だが、川上は「冬子こそ私の実像」と解説するかもしれない。
聖と冬子は光と影のコントラストで、好対照ゆえ親しくなり、相互に依存している。一歩踏み出した冬子は、聖の装いに身を纏う。本音を語ろうとしない冬子に、聖は「あなたをみてると、いらいらするのよ」と言い放つ。それでも友情は壊れず、聖は身をもって強い生き方を冬子に示す。
30代半ばの冬子は、世間に蔓延する〝恋愛マニュアル〟とは無縁の慎ましさだ。彼女のモノローグに触れるうち、俺はなぜか疼きを覚えた。孤独とは、他者の意味とは、愛することとは……。誰もが、もちろん俺も、一度は悩み、そのうち直視を諦めて回路を閉じた命題に再会し、心を揺さぶられた。
他者との距離を縮めようと、カルチャーセンターに通うことを思い立った冬子は、胸襟を開く手段として酒を用いる。酩酊状態で講座受付に赴くも、ソファで寝込み、バッグをすられる。窮状に陥った冬子の前に現れたのが50代後半の三束だった。
時代遅れでアナログな恋愛、いや、未完のラブストーリーが展開する。プラネタリウムを訪れたことは前稿で触れたが、高校の物理教師という三束なら、壮大なページェントをロマンチックに解き明かすだろう。光と色の仕組みを説明する言葉に、人生への洞察を覚えた冬子は、次第に三束に惹かれていく。
孤独ゆえに、微かな光に希望を見いだし、恋の予感が絶望と孤独を深める……。時代遅れでアナログな冬子の真情に、10代の頃の俺が重なった。ようやく壁を破り、自分と他者に向き合った冬子にもたらされたのは、悲痛な現実である。煌めく星のような美しい言葉で織り成された本作もまた、俺にとって「ヘヴン」同様、至高の濾紙だった。
五十路になって涙腺が脆くなったと記しているが、心も乾季から雨季に移っている。寂寥と憂愁という言葉を、ようやく感覚で捉えられるようになった。心を洗ってくれる小説や映画のおかげである。