酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「パリ20区、僕たちのクラス」~多様性の強みと弱み

2010-08-05 02:51:17 | 映画、ドラマ
 岩波ホールで先日、「パリ20区、僕たちのクラス」(08年、ローラン・カンテ)を見た。日本でいえば中学2、3年に当たるクラスを描いたドキュメンタリータッチの作品で、カメラが校外に出ることはない。

 本作を見る前、いや、見終えてからでもいいが、日本人として留意すべきテーマは二つある。第一は人口減を前提にした将来の移民問題、第二は失われた若者の活力……。両者は底で繋がっていると思う。

 多様性を国に置き換えれば多民族性だが、そこには強みと弱みが相半ばする。最も強みが発揮されるのはサッカーで、最たる例は'98W杯を制したフランスだ。南アで躍進したドイツもゲルマン魂とは無縁の人種構成になっている。ちなみに本作で生徒たちがサッカーについて議論する場面では、各自のアイデンティティーが浮き彫りになっていた。

 多民族国家には格差拡大など様々なマイナス面が、一時的にせよ生じる。異なる価値観、文化、習慣、指向性、宗教をいかに克服し、コンセンサスを形成していくのか……。「パリ20区、僕たちのクラス」は壮大な試みを教室に置き換えて描いている。

 20区は貧困な白人や移民が住む地区らしい。多民族によって構成されたクラスの担任は、白人の国語教師フランソワだ。黒人といってもルーツはマリだったりモロッコだったりで、カリブからの移民の子もいる。俺が白人に一括りしていた中にも東欧系、アルジェリア系、トルコ系の生徒がいるはずだ。アジア系も2人いて、そのうちのひとりである中国系のウェイは、クラスで一番まじめな生徒だが、ビザが切れた母親の強制送還が迫っている。

 フランソワも他の教師同様、悪童たちにお手上げ状態だ。対話を軸にした授業で融和を図ろうとするが、スレイマンの退学問題でも有効な方策を見つけられずに生徒の期待を裏切り、舌禍事件まで起こしてしまう。

 多様性を克服する方策は、徹底した上意下達か、寛容さに基づくコミュニケーションだと思う。フランソワは〝教師〟として一段上から接するが、〝人間〟としての貌を晒すことはなかった。生徒たちはフランソワの優しさに気付いていたはずだが、当人は中途半端な管理者として振る舞ってしまう。パチッとショートせず漏電状態のまま、クラスは学期末を迎えた。

 起承転結はなく、エンターテインメントとは遠い作品だ。翌年もすべて〝未解決〟のまま流れていくことが暗示されている。移民に反対の人は本作に描かれた混乱を見て意を強くするかもしれないが、俺は少年少女の自己主張の強さに羨ましさを覚えた。

 もし、このクラスに日本人の少年がいたら……。先生の言いつけを守る模範生として悪童から疎んじられるだろうが、次第に日本人特有の親和性を発揮してクラスの紐帯になるかもしれない。俺が移民受け入れに期待するのは、〝他者〟との出会いが確実に個を強くするからだ。

 「パリ20区、僕たちのクラス」に描かれた学校の形は、日本と大いに異なる。成績判定会議に生徒代表が参加する場面には驚かされた。自由と民主主義が隅々にまで行き渡っても物事はうまく運ばないことを、本作は示している。



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