仕事先では夏季休暇(5日)を交代で取る。普段から効率的に作業を進める職場だから、〝マイナス1〟は俺のような外注スタッフの身にもズシリと響く。ヘロヘロになった先週末、重い体に鞭打ってポレポレ東中野に向かい、「赤目四十八瀧心中未遂」(03年、荒戸源次郎)を見た。
本作は俺にとって〝21世紀のベストワン〟で、別稿(07年1月17日=http://blog.goo.ne.jp/ck1956/e/1160ef9235cac8cf08f9b6e20aa05ac1)にも記している。阪神・淡路大震災後から7年後の尼崎を舞台に描かれた作品で、今回がスクリーン初体験だった。32㌅のモニターとは見えてくる世界がまるで違う。物語は体内にしまった小箱から滲み出て、全身を温かく濡らしてくれた。
最終回前にセッティングされたトークショーで、荒戸監督は針のように鋭く、毒を含んだ言葉を飄々と吐いていた。寺島しのぶが原作者の車谷長吉氏に「映画化されるなら私が綾を演じたい」と働き掛けたのは有名なエピソードだが、大西滝次郎が生島与一役をゲットする経緯を荒戸監督はユーモアたっぷりに紹介していた。
普通に仕事をしながらブログを書けば、質は必然的に劣化する。まずは自分でも驚くほどハイレベル(手前みそですいません)の前稿(上記アドレス)を一読してほしい。本稿はあくまで追記という形である。
冒頭とラスト、赤目四十八瀧を生島と綾が彷徨う場面に、蝶を追う少年がインサートされる。荒戸監督が「胡蝶の夢」をイメージしていたことは明らかで、生島にとって、舞う蝶は寄る辺なき自らの、そして綾のメタファーなのだろう。
道行きが心中に至らないことは、生島が駅構内で綾を待つ2時間のうちに決まっていた。「来ないでくれ」のモノローグからも死への怯えは明らかで、生島の心情を察した綾は〝最後の食卓〟で、「あんた、あかんやろ」と呟いた。
下駄の生島、ヒールの綾は微妙な距離を取りながら山を歩く。水面に浮かぶ綾、瀧に落ちた下駄、雅楽の舞台、灯篭流し、花火と、現実と幻想が光と闇に交錯し、俺もまた映像に溶けていくような感覚に包まれた。
今回の発見の一つは生島の表情の変化だ。山中で時折、生島の目に殺意に似た禍々しさがよぎる。<心中しない>という綾の決意を知った時、その表情は柔和になり、ラスト近くで初めて笑みを浮かべる。
♪「死にましょう」女の瞳の切っ尖に 「死ねないよ」淋しさだけが押し黙る……。吉田拓郎の「舞姫」(作詞/松本隆)と重なる部分もあるが、「愛があれば心中なんかしない」という荒戸監督のコメントが示唆的だった。<心中は愛の究極形ではない。互いを強く思うからこそ未遂に終わった>というのが、監督自身が伝えたかった作品の肝なのだろう。
借金で失踪していた時期もあった監督、分身である生島そのままに漂流して社会の底を這っていた原作者、失恋の痛みに苦しんだ寺島、焦燥感に苛まれた大西……。幾つもの負の情念に磨かれているからこそ、本作は神話的輝きに到達しえたのだ。一つ一つのシーンや台詞の数々に、無常感、切なさ、儚さが漲っていた。
荒戸監督は冗談ぽく「生島は綾を思い続けるけど、綾はすぐ忘れちゃうよ。男は女々しく、女は雄々しいんだから」と話していた。一般論としてはその通りだろう。<背徳の彼方の純潔を体現する綾と勢子ねえさん(大楠道代)は、普通の女性が持ちえない清冽な魂を持っている>なんて幻想を抱く俺は、まだまだ蒼いのかもしれない。
俺は今も、幻の蝶を追っている。傷だらけの優しい蝶は、どこで舞っているのだろう。
本作は俺にとって〝21世紀のベストワン〟で、別稿(07年1月17日=http://blog.goo.ne.jp/ck1956/e/1160ef9235cac8cf08f9b6e20aa05ac1)にも記している。阪神・淡路大震災後から7年後の尼崎を舞台に描かれた作品で、今回がスクリーン初体験だった。32㌅のモニターとは見えてくる世界がまるで違う。物語は体内にしまった小箱から滲み出て、全身を温かく濡らしてくれた。
最終回前にセッティングされたトークショーで、荒戸監督は針のように鋭く、毒を含んだ言葉を飄々と吐いていた。寺島しのぶが原作者の車谷長吉氏に「映画化されるなら私が綾を演じたい」と働き掛けたのは有名なエピソードだが、大西滝次郎が生島与一役をゲットする経緯を荒戸監督はユーモアたっぷりに紹介していた。
普通に仕事をしながらブログを書けば、質は必然的に劣化する。まずは自分でも驚くほどハイレベル(手前みそですいません)の前稿(上記アドレス)を一読してほしい。本稿はあくまで追記という形である。
冒頭とラスト、赤目四十八瀧を生島と綾が彷徨う場面に、蝶を追う少年がインサートされる。荒戸監督が「胡蝶の夢」をイメージしていたことは明らかで、生島にとって、舞う蝶は寄る辺なき自らの、そして綾のメタファーなのだろう。
道行きが心中に至らないことは、生島が駅構内で綾を待つ2時間のうちに決まっていた。「来ないでくれ」のモノローグからも死への怯えは明らかで、生島の心情を察した綾は〝最後の食卓〟で、「あんた、あかんやろ」と呟いた。
下駄の生島、ヒールの綾は微妙な距離を取りながら山を歩く。水面に浮かぶ綾、瀧に落ちた下駄、雅楽の舞台、灯篭流し、花火と、現実と幻想が光と闇に交錯し、俺もまた映像に溶けていくような感覚に包まれた。
今回の発見の一つは生島の表情の変化だ。山中で時折、生島の目に殺意に似た禍々しさがよぎる。<心中しない>という綾の決意を知った時、その表情は柔和になり、ラスト近くで初めて笑みを浮かべる。
♪「死にましょう」女の瞳の切っ尖に 「死ねないよ」淋しさだけが押し黙る……。吉田拓郎の「舞姫」(作詞/松本隆)と重なる部分もあるが、「愛があれば心中なんかしない」という荒戸監督のコメントが示唆的だった。<心中は愛の究極形ではない。互いを強く思うからこそ未遂に終わった>というのが、監督自身が伝えたかった作品の肝なのだろう。
借金で失踪していた時期もあった監督、分身である生島そのままに漂流して社会の底を這っていた原作者、失恋の痛みに苦しんだ寺島、焦燥感に苛まれた大西……。幾つもの負の情念に磨かれているからこそ、本作は神話的輝きに到達しえたのだ。一つ一つのシーンや台詞の数々に、無常感、切なさ、儚さが漲っていた。
荒戸監督は冗談ぽく「生島は綾を思い続けるけど、綾はすぐ忘れちゃうよ。男は女々しく、女は雄々しいんだから」と話していた。一般論としてはその通りだろう。<背徳の彼方の純潔を体現する綾と勢子ねえさん(大楠道代)は、普通の女性が持ちえない清冽な魂を持っている>なんて幻想を抱く俺は、まだまだ蒼いのかもしれない。
俺は今も、幻の蝶を追っている。傷だらけの優しい蝶は、どこで舞っているのだろう。