酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「新リア王」~高村薫は荒野を目指す

2006-01-27 02:52:55 | 読書

 「ガイアの夜明け」(17日放送)の冒頭、法被姿の青森県知事がスーパーで県産品を売っていた。官民一体でホタテやリンゴの販路を求める試みが紹介されていたが、「新リア王」(高村薫著)を読んでいた折、最後まで番組を見た。

 数年前、テレビで田勢康弘氏(日経編集委員)が、「高村さんと同時代に生きていることを誇りに思う」と話していた。バルガス・リョサの「全体小説論」を信奉している俺にとって、我が意を得た感があった。高村氏ほど政治経済や歴史を理解し、小説に反映している作家はこの国にいない。「レディ・ジョーカー」で純文学とエンターテインメントの垣根を超え、「新リア王」で更なる高みを示した。本作を語るレベルに達していないことは承知の上で、読後の感想を述べてみたい。

 「新リア王」は父子の対話を軸に描かれている。中曽根内閣時代(1986年)、代議士生活40年を迎えた福澤榮は、竹下幹事長(当時)らが仕掛けた骨肉の政争に敗れ、地元青森の寂れた庵に三男彰之を訪ねた。前作「晴子情歌」で母と向き合った彰之は、福澤家の権勢に背を向け、禅僧になっていた。榮は漁業交渉、農産物輸入問題、原発行政の担当閣僚として、国策と地元の調整役を務めてきたという設定である。榮の回想で浮き彫りになるのが保守の実相と精神だ。高村氏は戦後日本の政治風土を徹底的に分析している。長男優を新自由主義者、甥貴弘を新社民主義者に擬し、榮を含めた3人の会話には、ドイツ学派、実存主義、ポストモダンに至るまで、哲学者の言辞がちりばめられている。

 彰之が語る仏教(曹洞宗)や禅の奥義について、研究者も高い評価を与えていた。本作は宗教小説の白眉としても文学史に残るだろう。政界という穢れた海を泳いだ榮、俗縁を絶ち深山の泉に棲む彰之……。生き様が対極の父子は対話を進めるうち、互いの底に重なる影を見た。それは恐らく、虚飾を削ぎ落とした個が纏う、無常や孤独と呼びうるものである。シェイクスピアの「リア王」ほど狂気や絶望に彩られてはいないが、本作にも家族の相克と崩壊が描かれていた。榮がリアなら、彰之はコーディーリアとエドガーを合わせたキャラクターかもしれない。

 「自虐の詩」の稿(05年11月1日)で、作者(業田良家)が<観察力、洞察力、想像力を駆使して自らの性を克服した>と述べたが、この賛辞は高村氏にも当てはまる。男性の心情への理解の深さには驚嘆するしかない。「李歐」では男性同士の官能的な焔(ほむら)まで描いていた。

 高橋和巳は<日本のドストエフスキー>と称されたが、饒舌さ、ストーリーテリングの巧みさ、反権力の矜持を勘案すれば、高村氏もその冠に相応しいと思う。気が触れたリアが彷徨う無人の荒野を、高村氏も歩んでいる。その手にしかと、羅針盤を握りながら……。

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