俺ぐらいの年になると、いかに死ぬかがテーマになる。<成熟>して死を迎えたいが、簡単ではない。理想は「恬淡」と「寛容」の境地だが、大抵の人間は――恐らく俺も――「我執」と「頑迷」を纏って生を終えるからだ。
衛星第2で放映された「夢を食べつづけた男」は、<成熟>を考える上で示唆に満ちた内容だった。植木等が自らの歩みを語る番組で、クレージー・キャッツ時代を中心に、生き様が世相を織り交ぜ紹介されていた。「無責任シリーズ」で植木が演じたのは20代半ばの青年だったが、実年齢は30代後半だったと知る。政治活動で下獄した父(僧侶)の影響の大きさが、社会や人間への醒めた目に表れていた。植木等とは縁(えにし)と絆を大切にする宿命論者なのだろう。言葉の端々に「感謝」と「矜持」が窺え、正しい<成熟>ぶりに感銘を受けた。
日本には<成熟>に対する共通認識がある。暴走族や学生運動で尖がっていても、年を経て落ち着けば評価の対象になる。「あいつも若い頃は荒れてたんだけどな」が褒め言葉なのだ。長ずるにつれて角が取れ、飼い慣らされることに価値を見いだす社会といえる。日本式<成熟>の悪しき見本が社会党だった。「社民主義や平和憲法は時代遅れ」というアメリカ寄りのプロパガンダに躍らされ、手を繋いで右岸に渡った。<成熟>が「堕落」や「迎合」と同義になりうることを、社会党は身をもって示す。その結果、階層(階級)社会化に歯止めが利かなくなった。
別稿(12月29日)に記した通り、石川淳は60歳を超えても脱皮し続けた「永遠の未完」というべき作家だった。椎名麟三は還暦間近にパンク小説「懲役人の告発」を発表し、世間を瞠目させる。古今亭志ん生は満州抑留から57歳で帰国した後、ようやく風を得て、後世に残る伝説になった。岡本喜八もしかりで、「近頃なぜかチャールストン」、「ジャズ大名」、「大誘拐」の傑作群を57、62、67歳で演出した、この4人は型通りの<成熟>を拒否し、老境に達して輝きを増した。天才の特権といえばそれまでだが、共通するのは反骨精神だと思う。
50歳手前になったこともあるが、俳優たちの年の取り方が気になっている。高倉健や吉永小百合には痛々しさしか覚えない。逆に、<成熟>と老いを表現に取り込んだ故いかりや長介や野際陽子には感嘆するしかない。現在、ブラウン管で最も巧みに<成熟>を演じているのは水谷豊だと思う。「青春の殺人者」、「傷だらけの天使」、「男たちの旅路」で演技者としての地位を確立したが、ショーケンや松田優作の弟分というイメージが拭えなかった。ところが、二十数年ぶりに「相棒」で再会した水谷は、亀山刑事(寺脇康文)の兄貴分として、<成熟>した杉下警部を好演している。
<成熟>してから死ぬか、<成熟>を拒否して死ぬか、それとも、第三の道はあるのか。「10代の荒野」から抜け出たばかりの俺にとって、あまりに難しい問いである。