前項の最後に記した<ある人>とは辺見庸氏である。「チョムスキー9.11」を見た後、条件反射で本棚に手を伸ばし、「永遠の不服従のために」(毎日新聞社)を再読した。「サンデー毎日」への寄稿(01年7月~02年8月)をまとめたものである。
第1章「裏切りの季節」で、辺見氏は小泉首相へのメディアの対応に警鐘を鳴らしている。<歴史が重大な岐路にさしかかると、群れなす変節の先陣を切るのは、いつも新聞なのだ>という丸山真男の言葉を引用し、次のように糾弾している。<(権力との)激突などさらになく、論点も徐々に溶解して、無と化してしまう。表面、穏やかなこのなりゆきこそ、新しい時代のファシズムの特徴のひとつだと私は思う>……。本稿から4年後の今年9月、我々は<メディアの自滅>を目の当たりにした。
脱稿後に廃案(02年12月)となった「個人情報保護法案」だが、究極の目的は<インターネット情報の国家管理>ではなかったかと、辺見氏は訝っている。俺はのんきにも「草の根ネットワークの可能性」を論じていたが(12日)、自民党の方はとっくにブログの影響力に目を付けている。この間、怪しい動きを見せた堀江貴文氏だが、自民党との間にある種の<密約>――ライブドアを将来の<官製メディア>にする――が交わされていても不思議はない。
辺見氏は<君が代・日の丸>を切り口に、風前の灯になった<言論の自由>を憂いている。<天皇、いわゆる「従軍慰安婦」、死刑制度という三大テーマは、(中略)公然と本音を言いはなつことは難しい。事実、まっとうな議論を臆せずしたがために、理不尽な攻撃を受けている人がいまもいる>。<〝不敬者〟を、公権力になりかわり、肉体的、精神的に痛めつける、不可視の組織が、この社会のどこかに常に存在する>……。氏自身も日夜脅迫を受けているが、ネット上でも状況は変わらない。幾つものHPやブログが、<三大テーマ>を取り上げたことで集中攻撃を受け、閉鎖の憂き目を見ている。
本書には青年死刑囚からの手紙が紹介されている。野村沙知代さんの保釈待ちで拘置所に押し寄せた記者団と職員が、夜を徹して馬鹿話に花を咲かせた。迎えた朝、大捕物にカムフラージュされ、絞首刑がひっそり執行されていたのである。<(喧騒に紛れ)今朝刑場で吊るされた人間のことなど、誰一人目もくれません。異常な世界です。本当に異常なほど〝平和〟です>と青年は綴っていた。辺見氏は<戦争を体内に併せ持つ、腐った平和>と断じ、権力の意図に操られて腐臭に群がるマスコミを、<特権的愚者=糞バエ>と怒りを込めて喩えている。
<日本のチョムスキー>というべき辺見氏だが、両者の対談が不首尾に終わった経緯が記されている。映画では質問者に温かい視線をやり、丁寧に受け答えしていたチョムスキーだが、日本のマスコミに対する不信を氏ひとりにぶつけるかのごとく、忌憚なき批判を浴びせた。氏のブッシュ批判を遮り、<日本の知識人のどれだけが天皇裕仁を告発したというのですか>と、アメリカの覇権の下、戦前のファッショ的国家を再建しつつある日本の現状を問い詰めた。目を合わせることなく、乾いた論理を叩きつけるチョムスキーに、氏は畏敬の念と同時に自分との距離を覚えたと記している。
辺見氏で思い浮かべるのは、<日本のドストエフスキー>こと高橋和巳だ。高橋は60年代を先導し、39歳で斃れるまで実働10年、膨大な量の小説と評論を発表した。氏も高橋と同じく、諸刃の剃刀を喉に秘め、鋭い言葉を血とともに吐き出している。権力やマスコミを撃つだけでなく、自らの心身をも削ぐ氏の構えは、以下の一節に表れている。
<あれらの言葉の愚弄。空洞。あれらの言葉の死。ほら、そこの軒下に干してある黄ばんだおしめほどの意味すらありはしない>。<ファシズムの透明かつ無臭の菌糸は、よく見ると、実体的な権力そのものにではなく、マスメディア、しかも、表面は深刻を気取り、リベラル面をしている記事や番組にこそ、めぐりはびこっている。撃て、あれが敵なのだ。あれが犯人だ。そのなかに私もいる>。
講演中に倒れた辺見氏だが、リハビリに努めながら執筆を再開されている。心強い限りだが、俺が氏に期待するのは長編小説だ。時々失念してしまうが、氏は芥川賞作家である。歴史という縦軸と同時代性という横軸からなる氏の巨大な座標軸に、当代随一の精緻な文体が躍動すれば……。想像しただけでゾクゾクするではないか。