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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「来し方 行く末」~回り道の人生への温かな眼差し

2025-05-05 21:56:23 | 映画、ドラマ
 世界スーパーバンタム級4団体統一王者の井上尚弥が、ラスベガスでラモン・カルデナスを8回TKOで下した。2年前までフードデリバリーで生計を立てていたというカルデナスだが、2回にダウンを奪うなど勇敢なファイトで世界を驚かせた。井上はこの勝利で30勝27KOとし、世界戦のKO勝利は23と〝褐色の爆撃機〟ジョー・ルイスを超えた。

 友川カズキはMCで「私のような凡人は、藤井聡太、大谷翔平、井上尚弥の天才ぶりを楽しめばいい」と話していた。友川も天才のひとりなのだが、それはともかく、32歳の井上もキャリアの終盤を迎えている。年内にWBA王者との5団体統一戦、5階級王座を目指してWBAフェザー級王者ニック・ボール戦、そして来春には中谷潤人戦が控えている。厳しい戦いをいかに切り抜けていくのか注目している。

 新宿武蔵野館で中国映画「来し方 行く末」(2023年、リウ・ジアイン監督)を見た。09年以来、14年ぶりの新作である。内外で注目された女流監督の14年のブランクの理由はわからない。政治的背景も考えられるが、競争社会の中国のこと、監督志望者がひしめいているのだろう。リウ監督は別の仕事に就いたこともあるようだが、自身の経験が本作にも反映されている。

 主人公のウェン・シャン(フーゴー)は40代目前で、脚本家を目指していたが挫折し、弔辞の代筆が本業だ。葬儀屋前で観察日記をつけていた際に知り合った職員のパン(バイ・コー)に勧められたからだ。ウェンは死者の人生を詳細に調べ上げ、弔辞は評判を呼んで仕事が舞い込んでくる。設定からして死に彩られているのは当然で、次稿で紹介する「川端康成 異相短篇集」と重なった。

 弔辞を作成する過程で、それぞれの家族の在り方が明らかになる。時には軋轢が生じるが、ウェンは丁寧に対応し、葬儀がつつがなく終了するよう導いていく。ちなみに弔辞代筆業だが、実際は存在しないようだ。ウェンは代筆業の傍ら、「小伊」を主人公にする自身の物語も温めている。小伊の分身というべきシャオイン(ウー・レイ)がアパートでウェンと寄り添っている。

 本作の魅力は、他者の生き様がウェンの人生とシンクロしていくことだ。家族との距離、自身の挫折が後半に明かされていく。観賞しながら、ふと考えた。もしウェンが俺への弔辞の代筆者だったら、どこまで取材してくれるだろうかと……。原題は〝回り道もよし〟という意味だというが、道を外してきた俺の人生も意外と面白いネタが詰まっているかもしれない。

 地方から訪ねてきた女性シャオ(チー・シー)との出会いは人生の転機を予感させ、<音>を作品に刻んだ。生前に自身の弔辞を依頼した老女ファン(チー・レンホア)と交流し、半生を詳細に聞き取ったことが、ウェンに意外な形での成果を呼び込んだ。

 北京の街並みも紹介され、コロナ禍のさなかに撮影されたのか市民の多くはマスク姿だ。男性の喫煙率は50%弱ということで、ウェン、パンらはたばこをプカプカふかしている。<音>に加え<煙>も本作のキーワードだった。本編にも登場するが、エンドタイトルで撮影チームのアイドル的存在だった猫が紹介される。ラストで癒やしを覚えた作品だった。
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「エミリア・ペレス」~〝フェイク〟から〝リアル〟へ

2025-04-23 21:36:56 | 映画、ドラマ
 「贋作者からの問い “本物”をめぐる思索」(2025年、NHK・BS)を見た。世界を震撼させた〝贋作師〟ヴォルフガング・ベルトラッキ(チューリッヒ近郊在住)を取材班が訪ねる。<日本人が購入した3作はベルトラッキによる贋作か?>と海外で報じられたことがきっかけだった。審美眼に欠ける俺が論じるには無理があるが、ドイツ表現主義の画家カンペンドンクが1919年に描いたとされる「少女と白鳥」に絞って記したい。

 英クリスティーズに出品された時点で〝リアル〟と認定された本作を、落札した画商を通じ高知県立美術館が購入した。ベルトラッキは自分が1990年前後に描いたことを認め、経緯を語る。<所在不明で大きさもわからないし、写真もない。だから、カンペンドンクが描いた場所にも行き、用具も当時のものを使った>と……。10代前半にピカソの模写で周囲を驚かせたベルトラッキは、「45人もの画家たちの筆致を身につけた」と語る。

 研究者は<屈折した心情を女性の描き方に反映させたカンペンドンクの他作品とは明らかに異なる>と〝フェイク〟を断罪し、AIも贋作と認定したが、同作品はベルトラッキにとって〝リアル〟であったことが言葉の端々に滲んでいた。フェイクニュースが跋扈し、氾濫する情報に躍らされる現在、〝リアル〟を追求することは難しくなっている。

 新宿ピカデリーで「エミリア・ペレス」(2024年、ジャック・オーディアール監督)を見た。オーディアール監督作は「預言者」、「ディーパンの闘い」に次ぎ3作目だ。ともにフレンチノワールの系譜に連なるエンターテインメントで、主人公は血と暴力に満ちた修羅場を生き延びてきた。「エミリア――」の舞台はメキシコで、主人公は麻薬カルテルのボスであるマニタス(カルラ・ソフィア・ガスコン)だ。

 性別符合に苦しんできたマニタスは敏腕弁護士のリタ(ゾーイ・サルダナ)に、女性として生きるために協力してほしいと依頼する。テルアビブで性別適合手術を受けたマニタスは自身の死を偽装し、女性エミリア・ペレスとして生まれ変わる。〝フェイク〟から〝リアル〟への逆コースだ。過去のオーディアール作品と異なり、リタをはじめ俳優たちが歌い踊るミュージカル仕立てであることに驚いた。

 4年後にマニタス(=エミリア)とリタは再会する。マニタスはメキシコに戻って、当時スイスで暮らしていた妻ジェシ(セレーナ・ゴメス)と2人の子供を呼び寄せる手配をリタに頼んだ。「ディーパンの闘い」では主人公は憎悪から愛に軸足を移したが、本作でも同様だ。マニタスはNPOを立ち上げる。右腕はリタだった。かつてマニタスが引き起こした麻薬戦争の渦中に亡くなった人々の遺体を見つけ出し、近親者の元に返すことを目的にしていた。

 日本公開後1カ月であり、結末は記さないが、息子との距離感が縮まったことで波紋が生じ、ドラスチックな展開になる。本作はアカデミー授賞式が近づくにつれ、論争を引き起こした。主演のガスコンは演じたエミリア同様、トランスジェンダーであることを公表しているが、過去のSNS上の発言――反イスラム、反中国、反カタロニア――が批判の的になり、オーディアール監督も連絡を絶った。作品が志向したものは評価出来るだけに残念な状況だった。

 最後に、フランシスコ教皇が亡くなった。「教皇選挙」を別稿(15日)で紹介したばかりだが、現実の世界でもコンクラーベが開催される。水面下の戦いは既に始まっているはずだ。
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「教皇選挙」~多様性の極致を見据えた衝撃のコンクラーベ

2025-04-15 20:32:25 | 映画、ドラマ
 俺が世界最高の作家と位置付けるバルガス・リョサが亡くなった。享年89である。ブログでは7作紹介したが、始める前に数作読んでいる。70歳を超えてもエネルギッシュに重厚な作品を発表し続けた巨匠の死を惜しみたい。遠からず30代の頃に読んだ「緑の家」を再読し、紹介する予定だ。その時にリョサへの思いも併せて綴りたい。

 新宿で先日、「教皇選挙」(2025年、エドワード・ベルガ-監督/米英合作)を見た。アカデミー賞8部門でノミネートされたものの受賞は脚色賞のみで、作品賞など主要5部門でオスカーに輝いた「ANORA アノーラ」には完敗の形だった。だが、俺に投票権があったなら、「教皇選挙」に投じただろう。本作は緊張感が途切れない超弩級のミステリーで、最終盤には強烈などんでん返しが連発する。

 前教皇の突然の死で、新教皇を選出するコンクラーベ(教皇選挙)が開催される運びになり、全世界から100人を超える枢機卿が集まった。選挙を仕切るトマス・ローレンス首席枢機卿(レイフ・ファインズ)が主人公で、状況に対応する苦悩をファインズが余すところなく表現していた。教皇庁で何よりも重視されるのは慣習に則った儀礼であることが興味深かった。

 ローレンスは選挙が始まる前に、枢機卿たちを前に挨拶する。進歩派であった前教皇を念頭に、同志でリベラルのベリーニ枢機卿(スタンリー・トゥッチ)への支持を公然と呼び掛けた内容であった。だが、効果は小さく、ベリーニ枢機卿の得票は1回目の投票で3位(17票)にとどまった。秘密厳守で行われる選挙戦は、誰かが過半数を得るまで続く。

 冒頭から枢機卿の配列が巧みで、彼らの政治的な立場や派閥を仄めかせている。法王選挙とはいえ、政界や会社と変わらぬ生臭さが漂っている。有力候補の枢機卿はベリーニ以外に前教皇と対立していた強硬保守のテデスコ(セルジオ・カステリット)、穏健派のトランブレ(ジョン・リスゴー)、初のアフリカ系法王を目指すアデイエミ(ルシアン・ムサマティ)の3人で、自身が〝法王の器ではない〟と考えるローレンスも一定の支持を得て候補に残っていた。

 ローレンスは仕切り役として正義に基づき、情報収集力を発揮して、有力候補の力を削いでいく。協力したのは修道女たちのリーダーであるシスター・アグネス(イザベラ・ロッセリーニ)で、法王庁における女性の役割を象徴しており、結末を暗示している気がする。流れが変化する中で重要な役割を果たしていくのが、最後の到着者であるベニテス枢機卿(カルロス・ディエス)だ。カブールなど戦火をくぐり抜けてきたベニテスは前教皇との絆も強く、秘密も共有していた。排他的でイスラム教徒を批判するテデスコに対し、毅然と多様性と寛容、平和の意味を説く。冒頭のローレンスの挨拶と通底する内容だった。

 先月末に公開されたばかりなので結末は明かさないが、非キリスト教国である日本はともかく、欧米ではセンセーショナルな議論が沸騰したに違いない。保守的なアカデミー賞にはそぐわない作品かもしれない。
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「ミッキー17」~普遍性を求めて情念は薄味に?

2025-04-07 22:36:10 | 映画、ドラマ
 映画館では見逃していたが、WOWOWで先日オンエアされた「夜明けのすべて」(2024年、三宅唱監督/瀬尾まいこ原作)に感銘を覚えた。スクリーンで接した昨年の邦画ベストワンに「あんのこと」を挙げていたが、「夜明けのすべて」も匹敵する作品だった。W主人公の美紗(上白石萌音)は月経前症候群(PMS)の薬の副作用で眠くなったり怒りっぽくなったりで、周囲とうまくやっていけない。山添(松村北斗)はパニック障害で生きる希望をなくしていた。

 2人は転職して栗田科学の社員になり、社長(光石研)が織り成す温かい空気の中で明るくなる。ぎくしゃくしていたが、チームを組んだことで互いを思いやるようになった。移動プラネタリウムの企画で、山添がシナリオを書き、美紗がイベント進行を務める。ささやかな日常の中で2人の言動に変化が訪れた。生き辛さを感じている方にお薦めの〝何も起こらないファンタジー〟だ。

 新宿ピカデリーで「ミッキー17」(2025年、ポン・ジュノ監督)を見た。俺は韓国映画のファンで、ポン監督も注目しているひとりだ。映画館では「殺人の追憶」(03年)、「母なる証明」(09年)、「パラサイト 半地下の家族」(19年)の3作、テレビでも2作を観賞した。最も記憶に刻まれているのは「母なる証明」で、韓国で製作された作品は原罪を抉るナイフのような鋭さがあった。

 「ミッキー17」は先月末公開なので、興趣を削がぬようストーリー紹介は最小限にとどめたい。アメリカ製作で物語は英語で進行する。ネットのユーザーレビューは「3・3」と低かったが、その辺りの理由がわかった気もした。ポン監督だけでなく韓国映画に注目している方は、内面を揺さぶるような〝不穏さ〟に期待していると思う。本作は格差など現在アメリカの普遍的テーマを追求しているが、その分、薄味になった感は否めなかった。

 舞台は2054年の惑星ニフルへイムだ。敗者に寄り添うポン監督は、地上で借金を背負ったミッキー・バーンズ(ロバート・パティンソン)を主人公に据えた。ミッキーは4年間の旅を経て、同乗者とともに現地に到着する。移民団リーダーのマーシャル(マーク・ラファロ)は料理好きの妻イルファ(トニ・コレット)とカルト系宗教団体に操られている。マーシャルのしぐさにトランプを重ねる人は多いだろう。ミッキーは宇宙船で出会った移民団エージェントのナーシャ(ナオミ・アッキー)と恋仲になり、禁じられているセックスに耽る。2人の体位研究が後半で重要な意味を持ってくるのが興味深い。

 ミッキーは使い捨て人間(エクスペンダブル)で、死ぬたびに記憶と感情をリプリントされ再生する。タイトルの〝17〟は17番目のミッキーであることを意味する。雪の中で死にかけたミッキー17を救ったのは〝人肉を食らう侵略者〟とマーシャルが罵る節足動物クリーパーだった。知性が高い彼らこそ先住民で、人間が侵略者という構図に、多様性の価値を再認識させられた。

 ミッキー17は公式に死んだことになり、手違いでミッキー18が複製される。17は従順、18は攻撃的とキャラは異なるが、複製された人間の重複存在(マルティブル)は禁止されており、廃棄されることになるので、手を携えるしかない。ナーシャを交えて後半に大活劇が展開する。

 自分のせいで母が死んだというトラウマに苦しんでいるミッキーは、リプリントを繰り返してもナーシャへの思いを貫いている。設定は特殊だが、人間としての尊厳と矜持は保っている。幼子を捕らえられて怒り狂うクリーパーたちも同様だ。やや辛めの評になったが、ポン監督には韓国で情念が迸る作品を撮ってほしい。
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「ANORA アノーラ」~〝怨み節〟の続編に期待

2025-03-25 22:05:54 | 映画、ドラマ
 イスラエル軍は3月18日未明からガザへの大規模空爆を再開し、一晩で子供174人を含む400人以上を虐殺した。怒りを抑え切れず先週末(22日)、「停戦破りの大虐殺を許さない!ネタニヤフとトランプはジェノサイドをやめろ!イスラエル大使館抗議行動」に参加した。予想を超える300人が集まったが、翌日の朝日はスルーするなどマスメディアは黙殺する。<21世紀のホロコースト>への抗議に価値はないのだろうか。

 ガザから届いたメッセージが代読される。<殺された大半は女性と子供。病院は対応し切れず国際社会に助けを求めている。この狂気、ジェノサイドを止めてほしい。あなたの心と魂がまだ生き続けていることに誇りを持ってください。パレスチナが解放された時、共に喜びましょう>という感動的な内容だった。パレスチナ人、ウクライナ人と思しき参加者も多く、親ウクライナのマフラーを纏い、イスラエルに抗議するボードを掲げる人も多かった。あの空間にいたことに震えるような喜びを覚えた。

 カンヌ映画祭パルムドールと併せアカデミー作品賞に輝いた「ANORA アノーラ」(2024年、ショーン・ベイカー監督)を新宿ピカデリーで見た。チャンネルサーフィンしていたらたまたま授賞式の中継(NHK・BS)に出くわす。受賞前か後かはともかく、ゲストの佐々木蔵之介が「主演女優はよほど監督を信頼していないとこんな風に演じられない」と話していた。実際に見て、佐々木のコメントが的を射ていたことに気付く。〝体を張った演技〟などとよくいわれるが、本作でアノーラを演じたマイキー・マディソン以上にこの言葉が当てはまる女優を知らない。

 日本公開1カ月ほどでロングランも見込めそうなので、ストーリーの紹介は最低限にとどめたい。舞台はニューヨークで、アノーラは「ヘッドクオーターズ・ストリップクラブ」で働いている。表向きはストリッパーだが、客の要望に応えて個室で売春する娼婦だ。日本でもストリップ劇場で客が気に入ったダンサーとセックスするシステムがあった(今は果たして?)。ヘッドクオーターズのダンサーは若い美女揃いで、アノーラはナンバーワンの売れっ子だ。

 アノーラにシンデレラへの道が開ける。ロシアのオリガリヒ(新興財閥)の御曹司イヴァン(マーク・エイデルシュテイン)がアノーラに惚れ、〝専属契約〟を結ぶ。豪邸に暮らすイヴァンは大がかりなパーティーを開いたり、仲間をラスベガスに連れていったりと湯水のように金を使う。イヴァンの取り巻きにはロシア正教会の神父もいるが、実態はロシアンマフィアだ。イヴァンの不始末をカバーしてきたが、唯一節度を保っているのはイゴール(ユーリー・ボリソフ)だった。イヴァンとアノーラの結婚を知り、両親がプライベートジェットでニューヨークにやって来る。

 基本的に権威を嫌う俺は、観賞中に〝この作品がパルムドールとオスカーの2冠?〟と首を傾げていた。格差の意味を提示し、金と愛の狭間を追求したといえなくもないが、イヴァンの浅薄さに呆れていた。帰宅してウィキペディアをチェックし、妄想が広がった。ラストのアノーラの慟哭は伏線ではないかと……。

 ベイカー監督は梶芽衣子のファンで、役作りのため梶が主演した「女囚さそり」シリーズを見るようマディソンに勧めたという。梶が歌った主題歌「怨み節」の♪死んで花実が咲くじゃなし 怨み一筋生きていく 女おんな 女いのちの怨み節……を俺は口ずさんでいた。アノーラがイゴールとともに復讐を果たす続編に期待したい。
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「TATAMI」~自由を求める女性たちの飛翔

2025-03-16 22:13:12 | 映画、ドラマ
 当ブログでイスラエルによるガザへのジェノサイドを繰り返し批判してきた。同国が虐殺に用いたドローンの輸入を検討するなど日本とも密接に関わっており、軍事費増大の一因になっている。俺にとっての〝ヒール国〟と最前線で対峙しているのがイランだが、両国出身の監督による奇跡のコラボレーションが誕生した。「TATAMI」(2023年)はタイトルから連想出来るように、柔道をテーマに据えたポリティカルサスペンスである。

 19年の世界選手権でイランのモラエイはイスラエル人選手との対戦を棄権するよう命じられた。男性を女性に、試合会場を東京からトビリシ(ジョージア)に設定を変えて製作されたのが本作だ。イスラエル人の監督はガイ・ナッティヴ、イラン人の監督はザーラ・アミールだ。アミールはW主演として女子チームのマルヤム・ガンバリ監督を演じている。

 女子60㌔級のイラン代表レイラ・ホセイニ(アリエンヌ・マンディ)は下馬評をはねのけ勝ち進む。イスラエル代表ラヴィ(リル・カッツ)と試合前、親しげに言葉を交わすレイラに、ガンバリは咎めるような視線を送っていた。勝ち上がって決勝で対戦すれば、イランの国家方針に反することになる。柔道界の幹部や治安部員は、レイラとガンバリに棄権するよう圧力をかけてきた。

 畳の外の動きに対応し、ガンバリも棄権を勧めるが、レイラは頑として譲らない。本作の肝というべきは畳の中を追うモノクロのカメラワークだ。レイラの視点で激しい息遣いをリズムにトーナメントは進行するが、インタバルに電話するテヘランでは危機が迫っていた。治安当局に踏み込まれる直前、難を逃れた夫ナデル(アッシュ・ゴルデー)は息子と国外へ脱出する。

 結末は記さないが、トリビシでも緊迫の度合いは増していく。レイラは自らトイレの鏡に額を打ちつけ出血した。国際柔道連盟(本作では世界柔道協会=WJA)もレイラに手を差し伸べ、イランの治安当局から守ろうとする。キーというべきはレイラがヒジャブを脱ぎ捨てるシーンだ。背景にあるのは22年、ヒジャブを適切にかぶらなかったマフサ・アミニが警察に拘束されて暴行死した事件で、イランにおける抑圧とジェンダー問題の象徴として世界中で抗議が広がった。

 ガルバリは自身も棄権を迫られたことをレイラに明かす。身体を賭したマンディと、心情の変化を巧みに表現するアミールに驚嘆させられた。現実とフィクションが螺旋状に交錯する本作に重なったのは「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年、バブマン・ゴバディ監督)だった。徹底的な弾圧の下、神話の領域に到達した多くのイラン映画を紹介してきた。自由への思いに貫かれた「TATAMI」をぜひご覧になってほしい。

 「TATAMI」と相前後して、〝積録〟状態だったフランス映画「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」(03年、フランソワ・デュペイロン監督)を見た。舞台は1960年代のパリの裏通りで、家族から捨てられたユダヤ人の少年モモを温かく見守るのがムスリムの雑貨商イブラヒム(オマー・シャリフ)だ。イブラヒムが語るコーランの教えをモモも受け入れる。イブラヒムの故郷に向かう旅行きもロードムービー風で楽しかった。

 現在は奇跡のような出来事だが、人種や宗教を超えて寄り添うことが可能だったことに感銘を覚える。時計の針は戻せないのだろうか。
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「愛を耕すひと」~荒野が育んだ至高の愛

2025-03-06 18:46:17 | 映画、ドラマ
 「ANORA アノーラ」がカンヌ映画祭パルムドールに続き、アカデミー賞作品賞に輝いた。人間賛歌、エンターテインメントと評判は高く、受賞を逃した「エミリア・ペレス」、「教皇選挙」などと併せ楽しみにしている。

 新宿ピカデリーで先日、「愛を耕すひと」(2023年、ニコライ・アーセル監督)を見た。18世紀のデンマーク開拓史に纏わる物語で、荒野(ヒース)が広がるユトランド半島が舞台だ。退役軍人のルドヴィ・ケーレン大尉(マッツ・ミケルソン)は不可能と思われているヒースの開墾を成し遂げ、貴族の称号を得ようとする。原題“Bastarden”はバスタード(bastard=私生児)にちなんでいる。

 貴族の血を引きながら庶子であり、軍隊でも出世が遅れたことが、ケーレンの上昇志向の源になっている。しばしば自分を抑えるのも〝踏み外せば貴族の道は閉ざされる〟という制御弁が働いているからだが、国王といえばアル中でまともに政治と向き合ってはいない。忠誠を誓う存在とは思えないが、それでもケーレンは開墾を始めた。住処に名付けたのは「王の家」である。

 極寒のヒースの土壌はいくら耕しても農業に適さないが、ひとり奮闘するケーレンに協力するのはアントン牧師(グスタフ・リン)だ。アントンに紹介された小作人ヨハネスとその妻アン(アマンダ・コリン)も作業に加わるが、ケーレンは彼らにも高圧的な態度を崩さない。邦題「愛を耕すひと」に〝?〟を覚えたのは俺だけではないだろう。当時のデンマークを取り巻く状況はよくわからないが、ドイツとの行き来は頻繁だった。ケーレンに希望をもたらしたのは、不毛の地でも育つドイツ産のジャガイモだった。

 チーム「王の家」に少女アンマイ・ムス(メリナ・ハグバーグ)が加わった。タタール人で森の中で暮らしていたが、移住する集団を離れてやって来た。ロマと思ったが、定住しないという共通点はあるものの、作品中ではタタール人と呼ばれている。別稿(2月19日)で紹介した「一週間」でも登場したタタール人はロマの蔑称という記述もある。タタール人はムスリムで、ロマは大半がクリスチャンなので混同するのは誤りだろう。〝投げた棒を受け取った人は家族〟というタタール人の言い伝えが、後半で効果的なシーンをもたらした。

 ドイツからの入植者が色の黒いアンマイを不吉の徴と捉え、追放を求めるなど、ケーレンには厄介事が押し寄せる。逃亡小作人であるヨハネスを拷問の末、死に至らしめたのが、領主であり地方判事でもあるシンケル(シモン・ベンネビヤーグ)だ。ケーレンの成功が自身の支配権の低下に繋がると考えたシンケルは、従妹で婚約者のエレル(クリスティン・クヤトゥ・ソープ)がケーレンになびいたと知り、徹底的にケーレンを潰そうとする。

 アーセル監督自身、本作を西部劇に重ねているという。後半は両者のぶつかり合いが展開するが、シンケルの非情で狡猾な言動は人間を超えた悪魔の領域に達していた。ケーレンはシンケルに罰を下すことが出来るのか、それとも……。ラストの復讐劇は衝撃と驚きに満ちていた。

 上昇をひたすら願っていたケーレンの表情に微妙な変化が表れる。ヨハネス亡き後、アンとささやかな愛を育て、取り戻したアンマイを娘のように慈しんだ。世間体や名誉ではなく、本当に大切なものの存在に気付いたのだ。荒涼たる土地とは自身の魂のメタファーで、ケーレンは邦題通り愛を耕した。全てをなげうち、愛する者と海に向かうラストシーンにカタルシスを覚えた。
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「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」~静謐に死と向き合う傑作

2025-02-24 22:28:05 | 映画、ドラマ
 先日亡くなった母は「尊厳死協会」の会員だった。生前「胃瘻のような延命処置はしなくていい」と語り、その旨を俺も伝えていたから、老人ホームの関係者は適切に看取ってくれた。

 尊厳死は安楽死ではない。映画「ロスト・ケア」でも提示されていたが、<安楽死=殺人>で処置を施した者は罪に問われる。安楽死を背景に据えた「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」(2024年、ペドロ・アルモドバル監督)を新宿ピカデリーで見た。スペイン・アメリカ合作で、舞台はニューヨーク。アルモドバル監督が初めて英語を用いた作品である。

 「アタメ」、「オール・アバウト・マイ・マザー」、「トーク・トゥ・ハー」とブログを始めた04年以前の作品は観賞していたが、以降はご無沙汰になる。スクリーンで接するのは「パラレル・マザー」以来、約2年3カ月ぶりだった。同性愛者であるアルモドバルは、倫理観や常識を超越した愛を追求してきた。後景に<母と娘の関係性>を据えており、「ザ・ルーム――」で踏襲している。

 「ザ・ルーム――」はマーサ(ティルダ・スウィンストン)とイングリッド(ジュリアン・ムーア)のダブル主人公だ。ともに1960年生まれで、名女優としての評価を確立してきた。両者の出演作を何本か見ているが、共通点をいえばヴァージニア・ウルフ関連だ。スウィンストンはウルフ原作の「オルランド」に主演しており、ムーアはウルフの「ダロウェイ夫人」がベースになった「めぐりあう時間たち」の3人の主人公のうちのひとりを演じていた。

戦場写真家として世界を飛び回ったマーサは、末期の子宮頸がんと闘病中だ。知人を介して入院を知ったイングリッドは病室を訪ねる。イングリットは死に纏わる著書を発表したばかりの作家だ。本作は2人の会話を丹念に追い、カットバックさせて30年以上に及ぶ時の流れを描いている。両性具有的な佇まいのスウィンストンにデヴィッド・ボウイを連想したが、両者には交流があり、ボウイのミュージックビデオで共演している。ムーアは成熟と包容力を感じさせる演技で、ファッションやインテリアの緻密なコーディネートが、対照的な両者の個性を際立たせていた。

 放射線治療によって好奇心や知性の衰えを感じたマーサは、自ら死を選ぶことを決意し、その時〝ザ・ルーム・ネクスト・ドア〟で寄り添ってくれる友人を探した。上記したように安楽死への協力は罪に問われる可能性もある。キリスト教国なら尚更で、何人にも断られた後に応じたのがマーサだった。若い頃に出版社で出会い、同じ男ダミアン・カニンガム(ジョン・タトゥーロ)を愛した経緯がある2人だが、嫉妬は失せ、思い出を共有した同志といった雰囲気だ。

 死に焦点を絞ってはいるが、生きる意味、愛の意味を問いかける作品として心に響いた。多くの戦場に赴いたマーサは最も記憶に残る場所にボスニアを挙げていた。マーサは娘ミッシェルを出産した事情、不和になった経緯をイングリッドに語っていた。彼女が戦場写真家を目指した理由は、DNA上のミッシェルの父がベトナム戦争でトラウマに陥り、帰還後に死に至ったことだった。マーサは戦場での恐怖を克服するために必要だったのは、愛、いやセックスだったと語っていた。

 非合法な手段で安楽死の薬を入手したマーサは、ニューヨーク近郊のウッドストックに借りたコテージにイングリッドを誘う。〝ネクスト・ドア〟ならぬ階下の部屋でイングリッドはマーサを見守った。最後の夜に見たのは「ザ・デッド」とバスター・キートンだった。アルモドバルの他の作品でサイレント映画が寓意として用いられていた記憶がある。

 イングリッドと再会したダミアンは、万が一に備え弁護士を用意してくれる。環境活動家になったダミアンは、止められない気候危機に大きな絶望を感じている。「新自由主義と極右が地球を破壊している」と述べるダミアンは、アルモドバルの思いを代弁しているのだろう。ラストに登場する刑事は極右の象徴として描かれていた。

 ニューヨークでもウッドストックでも雪が降っていた。「雪は世界中にかすかに降り続ける。すべての生者と死者の上に」というマーサの台詞が印象的だった。アルモドバルの作品で<愛の形>は「狂気」と「兇器」の刃でありながらも、「許容」と「救済」の鞘も用意している。ラストで生者(ミッシェル)は死者(マーサ)と和解する。余韻を残して幕は閉じられた。
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「敵」~清冽に閉じられた筒井ワールド

2025-02-15 18:36:10 | 映画、ドラマ
 惚けは始まっており、68歳ともなると心身の衰えは隠しようがない。個人的な問題なので記さないが、今年になって母の死と併せ、人生最大のショックというべき出来事に直面した。それでも生きていかなければならないから、空白を埋めるべくある決意をする。まあ、この年になるとたいしたことは出来ないが……。

 テアトル新宿で「敵」(2025年、吉田大八監督)を見た。吉田監督作をスクリーンで接するのは「騙し絵の牙」に次ぎ2本目だが、テレビでは3作観賞している。1998年に発表された筒井康隆による原作は老人文学の白眉とされるが、俺にとって筒井は〝完全アウエー〟の作家で、初期の作品を3冊(確か?)読んだだけだから、「敵」を評価するには心もとない。プラスポイントがあるとしたら、77歳の主人公と年が近いことか。

 とはいえ、無為に過ごしてきた俺とは対照的に、「敵」の渡辺儀助は大学でフランス語を教えていた元大学教授で社会的な信頼も高い。都内の古風な一軒家に暮らし、食事から生活の細部に至るまで清々しいほど節制されている。自炊する料理に儀助のこだわりが反映された。好物は麺類とキムチである。儀助役は現在79歳の長塚京三で、役柄と演じる側の質感がここまでマッチした例は他にない。留学中にフランス映画でデビューした長塚の知的でソリッドに切り詰めた佇まいが、モノクロのスクリーンに馴染んでいた。

 儀助の生計は貯金、年金、講演料で成り立っており、編集者の湯島(松尾貴史)に「普通に暮らせなくなったら生きることをやめる」と語る。終活には自殺が織り込まれていた。外出することは少ない儀助だが、教授時代の教え子である椛島(松尾諭)が家の片付けにやってくる。贈答品であるせっけんを詰め込んでいるケースが積まれていたが、何かのメタファーだろうか。同じく教え子で離婚を考えている靖子(瀧内公美)が訪れた際には手料理を振る舞っていた。

 本作には就寝中の儀助の姿が繰り返し映される。俺もよく寝るが、悪夢にうなされて目覚めることが多い。後悔している来し方の出来事に関連する夢を見るケースも多く、最近は肯定的に振り返ることが出来なくなってきた。儀助はといえば夏→秋→冬→春と季節が移ろうにつれ、夢は混濁し、現実と妄想の境界が曖昧になっていく。20年前に亡くなった妻・信子(黒沢あすか)が部屋に現れるようになった。

 湯島と訪ねたバー「夜間飛行」で女子大生の歩美(河合優実)と親しくなり、フランス文学について語り合うようになった。事情を聴いて300万円を渡したが、店は唐突に閉じられ、連絡がつかなくなる。儀助は〝終活の目盛りが定まった〟とばかり淡々と受け止めていた。夢の中で繰り広げられる妄想は膨らみ、靖子への信子の罵声から始まったディナーの席で殺人事件が起きた。自分は靖子を大切にしていたと感じていた儀助だが、夢の中での靖子の厳しい言葉に愕然とした。そしてパソコンの画面上に、「敵」の襲来を告げるメッセージが並ぶようになる。<北の大国が攻めてくる>という内容だった。

 本作のキャッチコピーは<「敵」はある日突然現れる。人生は恐ろしく、美しい――>である。しかも、普遍的に誰の前にも現れる。高齢者の方は、自分にとって「敵」とは何かを考えながらご覧になったに違いない。普通に考えたら、死とか孤独になるが、俺自身の今後の「敵」はやはり孤独になると思う。<この雨があがれば春になる。そしてまた皆に遭えるかもしれない>の儀助の最後の台詞が心に染みた。長塚は舞台挨拶で作品の感想を<死というものがドンと提示されている>と語っていた。

 女性が散歩につれている犬がバルザックだったり、バーの名前がサン=テグジュベリの作品にちなんでいたりと、フランス文学の隠し味がペイストされていた。筒井ワールドに浸っている読者なら、幾つもの痕跡を拾い集めたことだろう。今更手遅れとは思うが、俺も膨大な著書群を囓ってみることにする。
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カウリスマキのノスタルジックな世界に浸る

2025-02-03 22:55:39 | 映画、ドラマ
 母が亡くなった27日当日、アキ・カウリスマキ監督作3本をWOWOWで録画していた。ノスタルジックな気分にマッチした「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」(1989年)、「マッチ工場の少女」(90年)、「コントラクト・キラー」(同)の順で綴ることにする。カウリスマキお約束の犬とタバコが頻繁に現れ、カメラ固定のワンテイクとシーンの暗転が繰り返し用いられていた。

 「レニングラード――」は公開当時に見たが、内容は覚えていないから初見と同じだった。架空のバンド、レニングラード・カウボーイズ役はフィンランドに実在するスリーピー・スリーパーズだったが本作以降、レニングラード・カウボーイズを名乗って活動する。ペンギンを模したような前髪と尖ったブーツにサングラスが特徴だ。バンドは故郷シベリアからニューヨーク、テキサスを経てメキシコに向かう。

 荒唐無稽なコメディーで、日本の倍近いテキサス各地で演奏するシーンが織り込まれている。バンドというより無国籍風楽団だから客受けはしない。強欲マネジャーのウラジミールに搾取されているが、旧ソ連の支配体制を風刺しているのか、メンバーは妙に従順だ。再会した同郷の男が「ワイルドでいこう」を歌った時だけ白人たちに大受けしたが、ハーレムの黒人たち、メキシコでのパーティー参加者は無国籍風音楽を楽しんでいた。

 ラストでウラジミールは柔和な笑みを浮かべ姿を消す。カウリスマキはペレストロイカとバンドの在り方の変化を重ねていたのかもしれない。カウリスマキと交流が深いジム・ジャームッシュが中古車のセールスマン役を演じていた。

 「マッチ工場の少女」はプロレタリアート3部作の第3作と位置付けられるが、カウリスマキの作品では異質の物語だ。冒頭でマッチが完成する過程がチャプリンの「モダン・タイムズ」のごとく描かれる。主人公イリスを演じるカティ・オウティネンは当時29歳だが、ピンクの髪留めが愛らしく、〝少女〟といわれても違和感はあまりない。〝カウリスマキ組の華〟いうべきオウティネンは他の作品同様、虚飾を清々しくらい削り、台詞は最低限で目の動きで心情を伝えている。

 表情も乏しく化粧っ気のないイリスは男性から人気がない。仕事の後は買い物をして帰宅し、両親(母と継父)のために料理を作る日々だ。給料日に派手なドレスを買うと、父に平手打ちされ、母には返品を迫られる。そのドレスを着てダンスホールに行くと、大企業に勤める年上のアールネに声を掛けられた。その腕にしがみついて幸せそうな表情を浮かべたイリスだが、一夜限りの契りで冷たくあしらわれる。その後、妊娠したが車にはねられて流産し、勘当されて兄のアパートに転がり込んだ。

 イリスが男の声掛けを待つダンスホールで、バンドが演奏していた。♪幸せな国に行ってみたい……と歌われる曲と対置するように、天安門事件のニュース映像が繰り返し流れていた。最新作「枯れ葉」(2023年)でもカウリマスキは、ロシアのウクライナ侵攻を伝えるニュースと、ささやかな愛を対置していた。

 イリスは殺鼠剤を購入する。自殺でもするのかと思ったら、逆だった。ラストに温かい予定調和を用意しているカウリマスキの作品では意外なホラー的展開といえる。イリスは読書好きで、バスの中でも真剣にページを繰っていた。現実と幻想の境目に迷い込んだイリスはラスト近く、絶望の淵で一瞬笑みを浮かべていた。

 「コントラクト・キラー」の舞台は、民営化の嵐が吹き荒れるサッチャー政権下のロンドンだ。フランス人のアンリ(ジャン=ピエール・レオ)は15年勤めた水道教区局で、外国人であるという理由で人員整理の対象になる。間の悪いアンリは自殺にも失敗し、ギャングのアジトを訪ねて自分を殺すことを依頼する。雇われた殺し屋(ケネス・コリー)が着手した矢先、アンリはパブで花を売っていたマーガレット(マージ・クラーク)と出会い、一目惚れする。死への願望も急速に萎えた。

 殺し屋に追われるさなか、宝石店強盗犯として指名手配されるなど絶望的な状況をくぐり抜けながら、ハッピーエンドに至るというカウリマスキの定番といっていい展開に癒やされる。官能的なマージが語った「労働者階級に祖国はない」、死期が迫った殺し屋の意外な行動など見どころは多いが、パブでジョー・ストラマーが弾き語りしているシーンには感動した。

 「敗者の3部作」からフィンランドは〝寂れた国〟という印象を抱いていたが、今では<世界で一番幸福度が高い国>と評価されている。上記3作が発表されたころは財政危機に陥っていたが、政策の効果もあり、高福祉で安全かつ機能的な社会を創り上げた。日本の25年と比べると対照的だ。
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