弁理士の日々

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「ドレスデン逍遙」~聖母教会

2010-08-19 21:16:48 | Weblog
第2回に引き続き、「ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」(川口マーン惠美著)の第3回です。
 
フラウエン教会(聖母教会)

ドレスデンの旧市街を代表する建物の多くは、暗く重厚な建物です。ドレスデン城、旧宮廷教会、ゼンパーオペラのいずれも、黒っぽく変色しています。そんな中で、聖母教会だけはクリーム色の明るい系統で、ひときわ高くそびえ立っています。

ザクセン王であったアウグスト強王が、ポーランド王になりたいがために新教からカトリックに改宗したことは以前アウグスト強王の時代で述べました。そのくらいですから、当時のドレスデンに新教徒が大勢いてもおしかくありません。
この聖母教会は、プロテスタントの教会として1743年に完成しました。権力者アウグスト強王とその息子は、ローマ法王の不興を買ってまでも、このプロテスタント教会の建設を黙認し続けたとのことです。ただし資金援助は一切しませんでしたが。

教会を設計しその工事を監督したのはベーアという建築家です。ドレスデン市の大工長でした。当時のドレスデンは、ザクセン王国の首都です。従ってドレスデンには行政組織として、王国の宮廷と市の行政府が共存していたのですね。聖母教会を建設したのは市でした。
1725年、それまで存在していた新教の教会が老朽化したため、市議会は大工長のベーアに新教会の設計を依頼します。紆余曲折の末にベーアの設計案が採択されますが、その後資金難が続き、完成までに17年を要しました。
教会の丸屋根について当初計画では、当時のドイツにおける教会建築の主流と同じ、すべて木組みでその上を銅板で覆うことになっていました。しかしベーアは密かに石積みの丸屋根を計画します。資金難で何度も工事が中断される中、ベーアの「銅板よりも石組みの方が安価である」との主張が認められ、最終的に現在われわれが見る形で1743年に完成しました。ベーアはその5年前に亡くなっていました。

1945年2月13日、ドレスデンは連合軍の空襲によって焼き尽くされます。聖母教会も内部に火が回り、2日間燃え続けます。そして15日朝、丸屋根はついにゆっくり崩れ始めます。後にはひときわ高い瓦礫の山と、その瓦礫の山から、崩れ残った壁の残骸が二箇所、天空に向かって突き出しています。
聖母教会の廃墟、1991年
東ドイツは最初から最後までSED(ドイツ社会主義統一党)の一党独裁の国でした。聖母教会を元通りに復元しようとする市民の考えに対し、SEDは逆に聖母教会の跡を更地にして大文化ホールを建設しようとします。1962年には、やはりドレスデンに廃墟となって残っていたソフィア教会が爆破され、本当に更地になってしまいます。
しかし、お金がないことが幸いして、瓦礫は片付けられずに放置されました。やがて東西ドイツ統一のあと、聖母教会の復元は市民運動から派生して力強い大波へと成長します。
1993年、瓦礫の山の調査が再開されます。
5メートル高さの石のレリーフは、二千余りの破片が集められ、これらオリジナルの破片でレリーフを修復しようということになりました。
18ヶ月の調査の末、目に触れる場所に使うことのできる石が8390個、目に触れない場所に組み込まれる石が93500個集められました。一番上の写真で、ベージュの建物のところどころに黒っぽい石が組み込まれていますが、これがオリジナルの石でしょうか。そして、左端にわずかに、一画の全体が黒っぽい壁がありますが、ここは崩れずに残ったオリジナルの壁だと思われます。
コンピュータで強度計算した結果、ベーアが考え出した、丸屋根の重量を8本の柱を通じて逃がす公報は現在でもそのまま通用することが確認されました。
工事は1994年に開始されます。丸屋根のてっぺんに取り付けられる十字架はイギリスのケント公爵から贈与されました。落成の大式典が行われたのは2005年でした。
   
教会前のルター像            フラウエン教会の屋根残骸    石のレリーフ
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