弁理士の日々

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中村哲「アフガニスタンで考える」

2008-07-10 21:31:55 | 知的財産権
最近のアフガニスタンの様子を教えてくれる本に遭遇しません。海上自衛隊によるインド洋での給油は再開しましたが、その後のアフガニスタンについて月刊誌でも記事にお目にかかりません。
そこで、比較的最近刊行された本ということで、以下の本を読んでみました。
カラー版 アフガニスタンで考える―国際貢献と憲法九条 (岩波ブックレット)
中村 哲
岩波書店

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この本を読んだ第一印象は、外国から首都カブールを通して見えるアフガニスタンと、国土の大部分を占める山間部に直接暮らして見えるアフガニスタンとは、その姿が全く異なっている、ということでした。

中村さんはお医者さんで、ペシャワール会の代表です。ペシャワールとはパキスタン北西部の町で、アフガニスタンとの国境の町です。
1984年、ペシャワールにおけるハンセン病5カ年計画に参画したのが始まりです。当時、アフガン戦争のまっただ中で、600万人(国民の1/4)が難民となって国外に流出します。その半分がペシャワールを中心とするパキスタンに避難し、中村医師も難民問題に巻き込まれます。
細々と難民キャンプで治療を続けますが、ハンセン病の治療だけでは現地では成立しません。そこで、アフガニスタンの山間部におけるモデル的な医療体制の確立ということを掲げ、活動の準備を始めました。
パキスタンとアフガニスタンとの国境は、内戦のため閉鎖されているとはいえ、間道を伝っていくらでも往復できます。山から山へ、当時は1週間以上かけ、徒歩でアフガニスタンの現地の村に入りました。
現在、ペシャワール会は、医療事業と水源確保事業を二つの柱にしています。医療事業職員が約80名、水源事業に携わる職員が約150名、その他に常時2、300人前後のアフガン人の現地職員が働いています。
日本のペシャワール会がこの事業をサポートしており、年間予算の3億円前後は会費と募金によって賄われます。中村医師は、結局21年間、この事業に関わり続けていることになります。

「アフガニスタンは、国土のまんなかにヒンドゥークシュ山脈という巨大な山塊を抱えた、文字通り『山の国』です。国土の面積は日本のほぼ1.7倍ありますが、そのおおかたは山岳地帯です。しかも6千メートル、7千メートル級の山々が林立しているのです。したがって、谷も非常に深い。ですから、昔から交通の便が悪く、よくいえば割拠性が強く、地域の自主性のもとにそれぞれの地域をそれぞれの勢力が治めていました。」
「それぞれの共同体、部族共同体の中を律する要の役割を、イスラムが果たしているのです。」
「割拠・乱立する地域共同体が、共通の不文律でもってアフガニスタンという天下を形作っている、といえます。」
「(人口の)8割以上の人々が農民、1割が遊牧民そして林業に携わる人です。こんな乾燥したところで農業ができるのは、高い山々に降り積もる雪のおかげなのです。アフガニスタンには、『金はなくても食っていけるが、雪がなくては食っていけない』という諺があります。冬に降り積もった雪、それから何万年もかけてできた氷河が夏に溶け出し、その川の流域沿いに豊かな緑と実りを約束してくれます。」

1989年、ソ連軍は完全撤退しますが、アフガン難民の帰還は始まりませんでした。アフガン国内での内戦は激しくなる一方で、農村はその戦場となっていたからです。
そののち1992年、アフガニスタンの当時の共産政権が倒れ、爆発的な難民帰還が始まります。共産政権が倒れると共に、それまで各地域で割拠していた軍閥たちが、権力を目指して首都カブールへ攻め上り、内戦の舞台が農村から都市へと移ったためです。
ところがアフガニスタンというのは運が悪い国で、やっと難民が帰還できたそのとき、2000年に始まった世紀の大干ばつに襲われます。アフガニスタンでは100万人が餓死線上にあると報告されました。

2000年7月、中村さんたちは、残った村人を集め、それまであった井戸をさらに深くすることをはじめます。その活動は現在も続け、井戸の数は1400ヶ所に達しました。
また耕作のための灌漑事業にも着手し、カレーズと呼ばれる地下用水路の再生に力を入れ、38ヶ所で水を出すことができました。

2001年当時、こんなひどい状況を抱え、そのうち大規模な国際支援が行われるだろうと期待していたら、やってきたのは国際支援ではなく、アフガンをテロ支援国家と見なしての国連制裁でした。
これによって一般のアフガン人は決定的な外国不信に陥りました。

そして9・11同時多発テロの後のアフガン戦争で、空爆によって国際社会がいう悪の権化タリバンが倒されます。
しかし実際に開放されたのは、ケシ畑でした。タリバン政権時代にほぼ消滅に近いほど追い込まれていた麻薬栽培が、たちまち復活し、現在アフガニスタンは世界の約70%から80%以上の麻薬を供給するという不名誉な事態に至っています。


中村さんが活動を開始してアフガニスタンの山奥に徒歩で医療活動に向かった頃、山奥の村で「日本人だ」というと、半分外国人でないような丁寧な扱いをしてくれます。その後も、アフガニスタンにおいては、単に日本人であるがために命拾いをしたとか、単に日本人であるがために仕事がうまくいくようになった、とかいうことはそれこそ数知れずありました。
ひとつは、日露戦争で日本が勝ったという歴史的事実があります。そしてもう一つは、敗戦後の経済復興への賞賛です。ヒロシマ、ナガサキのことはみんな知っています。
長いあいだ、これは日本の安全保障上の大きな財産でした。
ところが1991年の湾岸戦争以降、決定的になったのは2001年のアフガン空爆からイラク戦争に至るまでの自衛隊の動きが現地に伝わるようになってから、徐々に変わり始めます。今や、地域によっては、単に日本人であるために攻撃を受けたり、単に日本人であるがために仕事の妨害をされる、といったことも起こりつつあります。


中村さんたちは、武器を持っていませんが、現地の人々から攻撃を受けたり襲われたことがありません。
一方、中村さんたちの用水路に平行してアメリカの資金で道路工事をしていたトルコの会社は、物々しく武装をしたセキュリティに守られて工事をしているのに、3回も誘拐事件に遭遇しました。


この本は2年前の出版です。この2年間で、アフガニスタンはさらにどのように変化したのでしょうか。
それにしても、普段のカブール発の報道で見知っているアフガニスタンと、中村さんの目に見えるアフガニスタンとの違いに驚かされます。これから日本が国としてアフガニスタンと交際するに際し、中村さんたちのような活動をサポートする方向で有効な支援を行っていきたいものです。
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