大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年03月18日 | 創作

<927> 短歌の歴史的考察  (5)    ~<926>よりの続き~

        短歌とは三十一字の抑止なり その収斂の己がじしなる

 このように、短歌は五七五七七の三十一文字(みそひともじ)からなる韻文であるが、その三十一文字に言葉を限って自分の心情を述べるストイックな詩形であって、その完成には言葉の抑止と収斂が欠かせない点が見られる。こうした饒舌でない短歌は、婉曲な性質をもってあると言え、奥ゆかしさをして美しい振る舞いであるとする日本人の伝統的価値観に合致するものとしてあり、貴族の間で教養あるいは素養の一つとして迎えられ、発展してゆくことになる。

  こうした短歌に対する見方は、既に万葉の時代に現われていたが、『万葉集』から約百年後の『古今和歌集』の時代になって律令体制が安定して来ると、貴族社会の繁栄とともに、短歌の詩形は不動のものになり、歌合のような貴族の間の文化サロンの要にも置かれるようになって行った。

  奈良時代の『万葉集』から平安時代前期の『古今和歌集』に至る約百年の間は「国風の暗黒時代」と呼ばれ、編まれたものとしては短歌と漢詩による『句題和歌』と『新撰万葉集』くらいのもので、詞華集等に見るべきものはない。だが、これは短歌が見限られていたからではなく、万葉仮名から仮名文字による表記の移り変わりの時期に当たっていたことと、『万葉集』による歌の渉猟が徹底していたため、それが影響したことがあげられる。そして、延喜五年(九〇五年)の第一勅撰集の『古今和歌集』になるわけである。

  この『古今和歌集』は、当代の歌人による歌に万葉の歌を含まない古歌や伝承歌を集め、『万葉集』と同じく、全二十巻の体裁によって世に出た。しかし、その歌数は『万葉集』の四分の一に満たない千百十一首と少なく、ある種貧弱な詞華集になったが、仮名書きを加え、新時代を開いた。

           

 これに加え、『古今和歌集』には漢文の真名序と平仮名による仮名序が存在することをあげねばならない。これは中国文化の導入から我が国独自の文化への移行現象で、文字の上にもそれが反映されたと見ることが出来る。つまり、これは和漢折衷の現れで、権威的な漢字と新鮮味をもってあったモダンな仮名文字によってこの勅撰和歌集に光彩をもたらし、そこにはその存在を高めようとする意志が働いたと見なせる。『白氏文集』を和歌に詠んだ大江千里の和漢による『句題和歌』にそれはよく示されているが、『古今和歌集』の序に真名序と仮名序があることもこの状況をよく示していると言える。そして、短歌をはじめ文字文化は仮名を主体とした時代に入るのである。で、短歌は和歌と呼ばれる時代に向かって興隆し、国文学の絶頂時代を彩るのである。

  序に漢字の真名序が見られることは、仮名書きによる歌のスタイルにそぐわず、序に和漢二通りが見られるのは、いささか念が入り過ぎているように思えるが、これは真名序によって、この勅撰集の権威づけを果す意図があったと見なすことが出来る。二十一代集のほかの集にも幾つか両序併記が見られるが、これは時代の要請によるとか主催した当時の天皇の好みによるものではなく、『古今和歌集』に倣ったと見るべきであろう。そして、短歌の認識が徐々に和風の雅へと傾斜して行ったのである。

  室町時代を最終となる勅撰集の二十一代集は貴族社会の産物で、真名、仮名両序の同時併記の現われは、中国の文化を摂取し、それを我が国独自の表現方法と折衷する中で、中国の様式をもって権威づけた律令体制下の貴族社会における象徴的現象と見てよいように思われる。これは島国日本が海外から多くの文明或いは文化を摂取して来た歴史的事情の現われと見ることが出来る。  写真はイメージで、「時代の流れ」。