<929> 短歌の歴史的考察 (7) ~<928>よりの続き~
楽は虚に 楽は虚に出づ 楽は虚に 思へば歌も 楽の一端
栄枯盛衰は世の常で、貴族の栄華も永遠ではなく、滅びる運命を辿って行った。天皇の権威を基盤にして成り立っていた貴族による律令政治の体制は、抱えていた武門の武力によって倒されることになった。言わば、貴族にとって武士は獅子身中の虫と言ってもよい存在だったわけで、貴族は頼りにしていた武家によって衰退の道へと追いやられることになったのである。勢力をつけて来た武家は貴族の世界にあこがれ、持ちつ持たれつの関係を築いて行くが、武家の新勢力は徐々に力を増し、結果、その勢力は貴族を凌駕し、貴族は衰退の道を辿るに至った。
ここに源平の武門集団の存在が顕現するところとなるわけで、まず、平清盛を頭領とする平家が勢いを増し、天皇との外戚関係を結んで合体し、武力を用いながら貴族社会へ同化して行った。こうして平家が貴族の世界に溺れ込む間に、武門の一方の雄であった源頼朝を頭領とする源氏が各地に蜂起し、平家を倒して政権を奪い、鎌倉幕府を開いて実権を握った。で、ここに王朝の全盛を誇った貴族による律令政治の平安時代四百年は終焉を迎え、鎌倉の頼朝によって武家政治が始められたのであった。
だが、京にあった天皇の権威はなお強く、実権は譲ったものの貴族はなお勢力を保っていた。このときの天皇が平家の滅亡後に即位した後鳥羽帝で、文武に秀でた天皇と言われ、天皇を退き、後継の土御門、順徳、仲恭天皇まで院政を敷き、後鳥羽院と呼ばれた。即位後は一貫して鎌倉と対峙し、ついには承久の乱を起したが、これに敗れ、隠岐に配流の身となった。頼朝の死後、鎌倉でも政変が起き、北条氏台頭の時代になって、武力の定めとも言える群雄割拠、下剋上の戦国時代へと向かって時代は移り行くことになる。
この間、貴族社会の象徴的存在であり、貴族の世界をうつして已まなかった個別個人的おのがじしの抒情歌たる短歌は、当然のことながら貴族の混乱と衰退に関わりを持ち、彼らの心情の赴く姿を自ら捉え、雅から滅びの哀れへその歌心の歌は変化を見せるに至るわけである。勅撰集で言えば、鎌倉時代になって出された第七代の『千載和歌集』に続く後鳥羽帝が自ら手がけた第八代の『新古今和歌集』がその時代を負う。この勅撰集が編まれたのは元久二年(一二〇五年)、鎌倉に政権が誕生してちょうど二十年目であった。
選歌には『小倉百人一首』で知られる藤原定家等が当たったが、定家は日記『明月記』の書き始めのころ、「世上乱逆追討耳に満つと雖も之を注せず、紅旗征戎は吾が事に非ず」と記して、歌の道に励むことを決意している。十九歳のときであるが、この言葉は当時の世の中の事情と短歌の存在をよく伝えていると言える。
一つは源平の合戦によって世の中が乱れ、貴族の行く末に不安が生じて来たこと。今一つは短歌が貴族の矜恃であり、愛して已まない存在にあったことである。若い定家にその時代の流れにおける不安は底知れないものがあったろう。しかし、世の中のことなどに気を取られることなく、矜恃であり愛して已まない短歌の道にひたすらでありたいと思ったのである。これは定家が歌人の家柄にあり、昇進が覚束ない位階の低い貴族であったけれども、後鳥羽天皇に見出され、その道に自信があったことにもよるだろう。
後鳥羽帝は武家と対峙すべく運命づけられた天皇で、言わば、律令政治の幕引きをしなければならい天皇だった。そして、承久の乱を起こし、これに敗れて隠岐に流され、その絶海の孤島で生涯を終えたのであった。だが、自分で手がけた『新古今和歌集』に拘泥し、流竄の後もこの勅撰集を手離すことなく、精選に精選を重ね、切り継ぎをしたことはよく知られるところで、この精選の結果、隠岐本として『新古今和歌集』は後世にも伝えられたのである。
後鳥羽帝は何もかも手離し、遥かに遠い音信の乏しい隠岐の孤島に身を置くことになったにもかかわらず、短歌は捨てることなく、自らの勅命によって作り上げた『新古今和歌集』を生涯手元から離さなかったのである。それとともに、隠岐においても作歌し、遠い都から歌を送らせ、独りで判詞に当たり、歌合を取り行なったりもしたのであった。これは天皇の個人的な心情イコール短歌という当時の精神性の事情を物語るもので、短歌の歴史において重要な意味を持っていることが言える。 写真はイメージで、鴨。