<913> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (63)
[碑文] ぼうせきの煙突
たそがれの国原に
ただ一本の煙突がそびえ立っている
大和郡山の紡績工場の煙突である
ぼうせき それは今死んだような名だが
私は忘れることは出来ない
明治も終りの夏の夜である
七十六年の周期をもつハリー彗星の渦が
涼しくあの紡績の鋸歯状屋根の
紺青の空に光っていたのを 小野十三郎
この碑文は小野十三郎の「ぼうせきの煙突」と題する詩で、詩碑は大和郡山市の郡山城址公園の追手門内の城址会館横の一角に建てられている。昭和五十四年(一九七九年)秋に出来た碑であるが、詩碑がこの場所に建てられているのは何故か。それは、この詩が大和郡山市の近代史の一端を垣間見させる風景をともなっているからだろう。以下にそこのところを少し掘り下げて見てみたいと思う。
大和郡山市は戦国武将の筒井順慶や羽柴秀長(秀吉の異父弟)らが居城にした郡山城の城下町として栄え、時代が下って江戸時代からは城主に譜代大名を迎え、最終的には享保九年(一七二四年)に柳沢吉保の子吉里(よしさと)が移封され、初代大和郡山藩主になり、以後、幕末まで柳沢氏によって治められた。
吉里は甲府より金魚を持参して養殖を奨励し、大和郡山を金魚の一大産地に育て上げた。これは有名でよく知られるが、このとき、養蚕も導入し、大和郡山に繊維産業の足がかりを築いた。これによって、大和郡山は大和高田の「高田木綿」とともに「郡山繰綿」の名で近隣に知られ、これが明治時代以降の大和郡山市の発展に繋がり、この十三郎の詩の中の情景描写にもうかがえるわけである。
廃藩置県によって藩主を退いた最後の藩主保申(やすのぶ)は寂れて行く城下に思うところがあったのだろう。藩士たちの授産事業にこの繰綿を生かした紡績の導入を考え、呼びかけを行なった。その尽力によって三百十六人の賛同者を得、保申の子保承(やすつぐ)を筆頭株主として郡山紡績の創業にこぎつけた。創業は明治二十六年(一八九三年)のことで、ここに近代の紡績工場が大和郡山市に誕生した。以後、明治、大正、昭和にかけて大阪の紡績会社と合併を重ね、大日本紡績(ユニチカ)傘下に入り、戦後も郡山工場として日本の繊維産業の一翼を担った。で、この状況は昭和三十九年まで続いたのであった。
結果、保申が願った授産はこの紡績の導入によって功を奏し、大和郡山市は大いに繁栄し、にぎわいを見せたと言われる。十三郎が碑文の詩に述べている紡績工場の鋸歯状屋根の建物や煙突などは既になく、跡地には公営団地が建てられ、市民の住まいの場になり、当時を思わせるものは、団地の入口近くに建てられている「大日本紡績郡山工場跡」と記された石碑くらいであるが、市街の町並みにはにぎわった当時の面影を彷彿させる建物などが見られるといった具合である。
小野十三郎は大阪を拠点に活動した短歌的抒情性を否定し続けた詩人であるが、短歌発祥の地である大和には関わりがあった。明治三十六年(一九〇三年)、大阪市に庶出子として生まれ、ほどなく、姉とともに大和郡山市の義母の親戚に預けられ、以後、十歳のころまでの幼少期を紡績工場近くの台所町で過ごした。この詩に登場する紡績工場の風景は幼少期の印象によるもので、「紡績の菊」と題した次のような詩も作っている。
子供のとき/大和桃源に十年ほどいた、/はじめのころはおぼえていない、/ただ俺が生れるずつと前から/赤煉瓦の古い紡績工場があすこにあった、/毎年いまごろになると/構内に豪華な花壇がくまれて/菊見でにぎわった、/秋の陽の強烈なスポットを浴びる/たがをはめた/古塔のような一本の大煙突、/ぼうばくとして記憶の果に/何もない地上から/いまそのようなもののかたちが/そびえたつ、
これがその詩である。碑文の詩「ぼうせきの煙突」と同じような心象風景にあることが察せられる。「ぼうせきの煙突」は戦後間もない昭和二十二年(一九四七年)に上梓された詩集『大海辺』に所収され、この詩集の跋文に当たる覚書には「これらの詩篇はみな私一個のために書かれた」と記されている通り、詩の中の紡績工場の風景は十三郎自身の心に焼きついた個人的なものに違いなかった。だが、この詩に表現された煙突が立ち、鋸歯状屋根が特徴の紡績工場は、繊維産業で潤った大和郡山市の近代の一時期を物語るにふさわしい風景として語り継がれるべくあるものとして認められた。それゆえに、詩は碑にして建てられたわけである。
言わば、この詩は大和郡山市の近代史の一面を象徴するもので、詩人の個人的な経緯から生れた詩かも知れないが、「都市の変貌を認識させる貴重な史料」という賛辞の言葉もあるように、この詩碑には一つにこの評価というものが思われる。 写真は左から郡山城址に建てられた小野十三郎の詩碑と詩碑のアップ。右は「大日本紡績郡山工場跡」の石碑(後方は公営団地の建物)。
また巡り来る春 古き町家にも