大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年03月11日 | 写詩・写歌・写俳

<920> 3・11に当たって

       生きるとは どういうことか

        それは欲望の 達成にある

        欲望なくして 生は生たり得ない

        然るに 生の存在である私たちは

              欲望の 存在であると言える

              だが 欲望の達成は難しく

              叶えられないことがしばしばで

              達成がなされなければ

              そこには 不満が生じ

            悩みが生れて来たることになる

              また 欲望には欲望が重ねられ

      無理が生じて来ることになり

      無理は我(が)によってなるから

            欲望は 対立をみることになり 

      対立には 厳しさがつきもので

            穏やかならぬ 感情を生み

        心的乱れを生じることに繋がる

        即ち 思うに 生きるとは 

        この欲望との向かい合いであり

        付き合いであって

              難しいことであると言ってよい

              つまり 人生が難題であることは

              この欲望に負うところが 大きい

      生きる上に 我を捨てよと言われても

      それは なかなか出来ない

      出来なければ 覚悟が必要になる

 今日は「3・11」、東日本大震災から三年目である。この大災害以来、防災とか減災といった言葉がお題目のように言われ、国は公共事業を柱にして、膨大な予算を組んでいる。復興とともにこれは当然の成り行きのように思えるが、問題はこの予算がその目的に十分叶い、生かされているかどうかである。一種、予算のばらまき状態にあって、相も変わらず有効でもない道づくりをしたり、私たちの住むところをやたらとコンクリートで固め、要塞化しているような光景がそこここに見受けられることが気になる。で、国の借金は膨らみ続けている。

 最近の激甚災害がどのような要因によってもたらされているか。そのもたらされた結果に基づいてその対策は行なわれているのだろうか、思うに、甚だ疑問であると言える。近年における災害をみるに、激甚に含まれる災害は、三年前の津波は別格として、局地的豪雨による山崩れや洪水があり、竜巻の突風の被害があり、豪雪による孤立集落の発生があるといったことなどが見られた。

 もちろん、最も安全性が確立されていなければならなかった福島第一原発の事故がある。この事故の教訓は、安全の保証がコンクリートで固めることだけで十分とする認識の誤りを示していることにあるが、私たちの周囲を見渡してみると、相も変わらず、従来のやり方をもって推進している気がする。住み場所をいかようにコンクリートで固めても、洪水は起きているし、どこかで被災した生活者が出ている。昔よりもこの被災の状況は多いくらい、各地で起きている。

 今冬の豪雪による集落の孤立にしても、よい道路がありながらそれが深い雪のために使えなくなったということがある。これは、日ごろ利便に寄りかかって根本のところで対策が考えられていなかったために、そのような状況が生じたということである。雪の深刻さを経験したことのないところに大雪が降ったからであるが、自然の移り気はそうしたものである。この今冬の雪害はほかにも当てはめて言えることで、要は日ごろの心構えと思案のしどころにかかっていると言ってよい。

 これは原発事故にも言えることで、安全基準を満たしているので、再稼動すると言われても基準を上回る事態が起きないとも限らないことをして言えば、到底納得出来るものではない。これは根本のところに対策の目が注がれていないからで、この根本の対策が思われるのである。この根本の対策を考えるに、その一つは、事故によって撒き散らされる毒物の放射能を無害にする技術の開発が出来ていないこと。この技術が可能になれば、原発は肯定される。だが、その見通しは全くない状況にある。今一つは、エネルギーを原子力に頼らないでやってゆくという考えが可能かどうかということ。即ち、原発をなくしてしまうということの可能性。言ってみれば、原発に対する安心に繋がる根本の対策はこの二点にしかない。だが、現状では後者の道にしかその対策は開かれていない。

 この二点の対策のうち、ドイツでは後者のやり方を採っているが、これは原発の現状に対してこの対策しかその道筋として考えられないからで、科学優先への反省に立って、自然と一体の人間生活の幸せ感というものを求めている様子がうかがえる。だが、経済至上主義にどっぷりと浸かってしまった日本には、福島の経験があるにもかかわらず、このドイツの方針を採り入れることに消極的で、なお原発の推進をしようと画策している。この二点の根本的対策が十分に生かされない間はどのような基準を立てても、防災、減災の方針がなされても、原発に対する安心は生まれ来ることはないと断言出来る。

 で、話をもとに戻せば、いくら町中をコンクリートで固めても、保水力が低下している山や平地をその観点から見直さない限り、一気に出水する豪雨の水量には対処出来ず洪水を引き起こすことになることが言える。その根本のところには山や河川や池沼の働きがあるわけであるが、このことが今まで考えられて来なかったのではなかったか。山で言えば、樹木などの植生への関心のなさによる山の保水力の状況が考えられるし、河川で言えば、土砂の流入によって川床が浅くなり、ここにも保水力の低下が考えられる。また、平野部の池沼にしても宅地開発などで埋め立てが進み、少なくなっていることが保水の状況に影響している。

  大和平野で見れば、河川では大和川の例がある。昔は淀川のように船が行き来出来るほど水深があった。大和に都があった時代には遣隋使や遣唐使が桜井市の辺りまで船でやって来たし、その上の初瀬川でも長谷寺のある初瀬のあたりまで柴舟が行き来していた。その大和川が、今や天井川である。最近、護岸工事などで、洪水を防ぐ手立てをして来たが、昨年はあわやというところにまで水嵩が増えた。これは、護岸によってやっと洪水を防いだ図に見えた。これでは安心と言えず、覚束ない気分になる。護岸も必要であるが、私たちはもっと根本のところを考えなくてはならない。グローバルに言えば、地球温暖化の話になり、私たちの日ごろの生活態度、政治の在り方への自問になって来る。

  池沼にしても大和平野には一万を下らない溜池の存在があり、梅雨どきなどには保水の利を効かせて来た。その溜池も埋められて少なくなっている現状で、大和平野全体から見るとコンクリートに被われてゆく平野部の保水能力は低下し、一気に出水する豪雨に耐えられるかどうか、楽観出来ないところにある。ということで、防災には自然への対処の在り方に立ち帰って原点から見直すくらいのことをしなければならないことが、ここにはうかがえるわけである。以上の観点に冒頭の詩は連動する。

    

 ところで、昨日、雪の吉野山を歩いて感じたのであるが、雪が積もって山肌が白く見えるところが目に入って来た。これは自然林を切り拓いて桜の植樹をしているところで、大きく育って花を咲かせるようになれば、みごとだろうと思われたのであるが、反面、これは急ぎ過ぎではないかという気持ちにもさせられた。というのは局地的豪雨のことが頭を過ったからである。もちろん地元には有用資源として桜は欠かせない。

  だが、防災の観点に立てば、この状況は十分に対策されてあるのだろうかということも思われるわけである。地質や保水の問題などの調査もなされ、防災の観点も考慮されて拓かれてあるものならばよいのであるが、そこのところが気になる。もちろん、この吉野山の風景は他の開発地域にも当てはめて言えることで、考えさせられる。取り越し苦労であるならばよいのであるが、福島第一原発のようなこともある。根本のところに対策の目を向けておかないと、自然のしっぺ返しを受けることになる。以上、3・11に当たって思うことではある。  写真は吉野山の雪景色。左の写真から右の写真にパノラマとして見られる。