<918> 短歌の歴史的考察 (1)
一首生れ 出づるに思ふ 遥かなる 万葉仮名の 夜久毛夜幣賀岐
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
この歌は須佐之男命(すさのうのみこと)の歌として『古事記』に登場する。その神話によると、命は天照大御神(あまてらすおおみかみ)への乱暴狼藉のため、八百万(やおよろず)の神の謀議によって天界より追放され、出雲の地に降り立った。命はその地で恐れられていた八俣大蛇(やまたのおろち)を退治し、櫛名田比賣(くしなだひめ)を娶って、須賀(すが・清地)というところに宮を造った。この歌はそのとき詠んだ歌で、そこに八重の雲が湧き上がって来たので、妻を迎えて宮を造ったという。八重の雲は瑞雲で、運気の源として出雲の地に因む表現であるのがわかる。
歌は結婚による新居を祝う新室(にいむろ)に寄せた寿歌(ほぎうた)である。この新婚にともなう命の喜びの気持ちによって生まれたこの歌が五七五七七の韻を踏んでいることから、これを短歌の起源とし、後世の認識するところとなった。というわけで、この歌は『古今和歌集』の序をはじめ、後世の文献に短歌さきがけの歌として紹介されるに至った。つまり、短歌は『古事記』の須佐之男命の神話に発し、自らの思いを詠む短詩形としての特徴をもって後世に引き継がれ、以後、この五七五七七の韻に則り、主に抒情歌として詠まれて行くことになるのである。 (写真はカット。現れた彩雲)
この歌は、『日本書紀』にも素戔鳴尊(すさのうのみこと)の歌として『古事記』と同様の内容によって姿を見せる。もちろん、この歌は神話の中の歌であり、創作歌と言えるが、前述のごとく須佐之男命(素戔鳴尊)の喜びと気負いが言葉に感じられる感動の抒情歌としての特質を持っていることから、抒情歌たる短歌の起源とされるわけである。
『古事記』は天武天皇の命により諸家に伝わっていた帝紀などを稗田阿礼が記憶して誦し、それを基に太安万侶が筆記し、元明天皇の和銅五年(七一二年)に出来上がったと言われる。我が国にはもともと文字がなく、推古朝(六世紀末から七世紀初頭)のころ中国から漢字が伝来し、『古事記』の成立ごろには貴族や役人の間にもこの文字の普及がなされ、漢字によってものを書き記すことが出来るようになっていた。当時はまだ仮名も片仮名も生まれていなかったので、仮名の役目を漢字にもたせた万葉仮名の工夫がなされ、漢字に加え、九百を越える万葉仮名によって記紀をはじめ 『万葉集』の表記、編纂などがなされたのであった。
冒頭の須佐之男命(素戔鳴尊)の歌も原文は万葉仮名を駆使して表記されていて、当時の苦心の跡がうかがえる。『古事記』も『日本書紀』も皇統尊崇の意向に従って認められたもので、書き記すことによって、その伝承をより確実な威厳のあるものとして印象づけたことがうかがえる。須佐之男命(素戔鳴尊)の歌は万葉仮名で次のように表記されているが、これを見ると、その苦心のほどがよくわかる。最初が『古事記』の表記で、次が『日本書紀』の表記であるが、万葉仮名の用い方に微妙な違いが見て取れる。これも苦心の跡と見なせるところである。
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
夜句茂多菟 伊弩毛夜覇餓岐 菟魔語昧爾 夜覇餓枳都倶盧 贈廼夜覇餓岐廻
このように、万葉仮名を含む漢字によって人々はようやく自分の思いや相手に伝えたいことを書き記すことが出来るようになった。このことによって、詞華集である『万葉集』も編まれ、膨大な歌がまとめられ後世に伝え遺すことが出来たのである。