<932> 対 話
彼岸会や 人それぞれに ある彼岸
彼岸の昨日、娘が来て久しぶりに食事をした。元気な姿は何よりである。病院勤務をしているので医療のことが話題になったが、医療と言えば、高齢者のことになり、終末期医療などの話に及んだ。で、人生の始末の話になって、いろんなケースが見られるという具合で、自分にも置き換えて考えさせられるという仕儀になった。
自分がベッドで寝たきりの状態になってもなお延命し、生き長らえることを望むかどうかというようなこと。ぽっくり死ねれば何よりだろうが、これだけは思うに任せないのは娘もいろいろと見聞しているようである。そこの時点では判断出来ず、はたと悩む御仁が多いことを言っていた。
果たして自分がそのような仕儀に陥ったならばどのような対処を望むだろうか。これはなかなかの難問であるが、どうせ近々この世とおさらばしなければならない身であれば、ベッドに釘付けの身で最後の何年間かを過すとして、その意義が自分に見出せることもなかろうから、私には単なる医療技術による延命措置などは必要ないということが言える。なので、自分がそのようになったときは延命措置を望まないというのが今の我が気持ちではある。
少子高齢化で、高齢者への風当たりはますます厳しくなっている。今後もこの傾向に変わりはないだろうことは大借金行政で火の車である国の財政状況を考えるとはっきりしている。今の時代はこのような状況下にあり、そこにも考えが及び、健康には留意しているつもりではあるが、そうしていても、年齢には勝てず、見通しは明るいはずもない。大借金をしている国が頼りないということは結構大きいことである。
で、娘には延命の必要はないと伝えた。妻も同様の意志を持っているようである。うらぶれても生きよ。生きる価値が見出せるならば生きよ。ではあるが、人の手を煩わせてまで生きようと思う気持ちは今のところない。娘がどのように思って帰ったかは定かでないが、多分、そのときになって見ないとわからないという気持ちが半分はあって、多少は私の言葉を聞いたのではないかと思う。
この問題には、それなりに考えを巡らし、暮らしているが、どうせこの世の世話になると開き直るケセラセラの気分も多少はある。で、これには答えなどないのだという気分も、またして来るといった次第である。西行のようにはなかなか行かない。現代の医療、延命技術は果して人生をややこしくしているのかも知れない。人生の幕引きが難しいと知ることは、仕事の現場で立ち会っている娘だけではなく、当人の立場になりつつある年齢の私たちにも当てはまるということで、そこのところを話したのではあった。 写真は法隆寺会式の人出の風景。