<935> 短歌の歴史的考察 (12) ~ <934>よりの続き ~
近代の黎明にして明治あり ありて即ち短歌の夜明け
こうして短歌は、武士の世であった封建時代にはまさに封じ込められた状況にあったが、短歌のこうした沈潜した状況は、明治維新という政治体制の変革とともに開かれた近代に至って一変したのであった。
これは封建時代の身分制度に縛られていた人々の精神的開放と鎖国によって閉ざされていた海外との交流がなされたことによるもので、新しい文明あるいは精神の導入があったことに大きく影響されたと言える。これによって、明治時代以降の文芸は大いなる羽ばたきをもって展開し、短歌にも著しい変革が見られ、歌人や作品にもそれが反映された。
明治維新は主に地方の下級武士によってなされた革命で、新政権は近代化の道を模索しながら天皇を中心にした国家の樹立を目指し、国力の増強、富国強兵を進めて行った。で、西洋の文明を導入することにも積極的になり、文芸なども西洋の影響を受け、短歌も例外でなく、その影響を受けるに至った。一方、復古の兆しとともに短歌の原点である『万葉集』が実践において見直されるという動きも見られた。
殊に文化的広がりにおいて大きかったのは、限られた階層だけでなく、誰もが文芸に携われるような環境が生まれたことである。これは、貴族中心に展開して来た短歌の世界で著しい変革をもたらし、これが息吹となって一般庶民にも及び、歌作りの底辺を広げ、作品の発表も可能になるという状況が生じて来たのであった。言わば、文筆の自由な環境がそこには生まれた。これには明治維新の立役者が地方の下級武士だったということも大きく関わったのではなかったか。彼等は西洋文明の導入にも積極的だった。
この文化的活動の自由度は文芸を大いに発展させたことは各ジャンルにおける明治時代以降の作品群を見ればわかる。様式化して歌道のたしなみと捉えられて来た短歌にも夜明けが訪れ、活況を呈するようになって行ったのである。この時代を実感して詠んだのが次の歌である。
牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる 伊藤左千夫
左千夫は、写生を唱え、歌を万葉の原点に返って詠むことを標榜した正岡子規門下の一人で、このような率直な短歌を見せた。この歌に詠まれた「牛飼」は搾乳業を営んでいた自分自身のことで、「私のような」という意味合いを含んでいるが、庶民も歌を詠むことが出来る時代になったことを言っているわけである。この状況の到来は短歌にとって実に大きく、左千夫のこの歌は短歌の発展過程における歴史的意味を持つ象徴的な歌として捉えることが出来る。
この歌は明治三十三年、左千夫三十七歳のとき発表されたもであるが、この歌の通り、明治時代の短歌は広く展開し、次の大正、昭和時代へと大いなるうねりを見せ、歌の手法並びに作品傾向にもそれが現われ、いろんなグループによる活動が見られるようになった。『万葉集』にも庶民の歌は見られるけれども、万葉歌は貴族によって扱われ、貴族によって編まれたもので、純然たる庶民の歌とは言い難いところも指摘されるから、明治時代以降の短歌は大いなる発展を見せたと言える。
これは短歌にとって革新の何ものでもなく、明治維新が短歌の有する個別、個人的おのがじしの世界を開いたということになる。もちろん、これは文芸全般に言えることで、大正、昭和時代前期へとこの傾向は続いて行ったのである。この点、当時の短歌の総体は時代の近代化を示していると言える。もちろん、時代の様相というのは、政治的変革が先にあって、それに遅れて現れることが常で、その動向の一つの現れとしてある文芸などもそこに展開される。それは文芸に属する短歌の活動にも言え、短歌は政治に遅れて現れ、明治の新時代と言ってもその活動が活発化するのは明治時代も半ば以降、むしろ後半になってからということになる。では、ここで明治時代以降、大正、昭和時代前期当時の短歌を見てみたいと思う。写真はイメージで、朝日。