大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年03月26日 | 創作

<935> 短歌の歴史的考察  (12)        ~ <934>よりの続き ~

        近代の黎明にして明治あり ありて即ち短歌の夜明け

  こうして短歌は、武士の世であった封建時代にはまさに封じ込められた状況にあったが、短歌のこうした沈潜した状況は、明治維新という政治体制の変革とともに開かれた近代に至って一変したのであった。

  これは封建時代の身分制度に縛られていた人々の精神的開放と鎖国によって閉ざされていた海外との交流がなされたことによるもので、新しい文明あるいは精神の導入があったことに大きく影響されたと言える。これによって、明治時代以降の文芸は大いなる羽ばたきをもって展開し、短歌にも著しい変革が見られ、歌人や作品にもそれが反映された。

  明治維新は主に地方の下級武士によってなされた革命で、新政権は近代化の道を模索しながら天皇を中心にした国家の樹立を目指し、国力の増強、富国強兵を進めて行った。で、西洋の文明を導入することにも積極的になり、文芸なども西洋の影響を受け、短歌も例外でなく、その影響を受けるに至った。一方、復古の兆しとともに短歌の原点である『万葉集』が実践において見直されるという動きも見られた。

                                         

  殊に文化的広がりにおいて大きかったのは、限られた階層だけでなく、誰もが文芸に携われるような環境が生まれたことである。これは、貴族中心に展開して来た短歌の世界で著しい変革をもたらし、これが息吹となって一般庶民にも及び、歌作りの底辺を広げ、作品の発表も可能になるという状況が生じて来たのであった。言わば、文筆の自由な環境がそこには生まれた。これには明治維新の立役者が地方の下級武士だったということも大きく関わったのではなかったか。彼等は西洋文明の導入にも積極的だった。

  この文化的活動の自由度は文芸を大いに発展させたことは各ジャンルにおける明治時代以降の作品群を見ればわかる。様式化して歌道のたしなみと捉えられて来た短歌にも夜明けが訪れ、活況を呈するようになって行ったのである。この時代を実感して詠んだのが次の歌である。

     牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる                                                         伊藤左千夫

  左千夫は、写生を唱え、歌を万葉の原点に返って詠むことを標榜した正岡子規門下の一人で、このような率直な短歌を見せた。この歌に詠まれた「牛飼」は搾乳業を営んでいた自分自身のことで、「私のような」という意味合いを含んでいるが、庶民も歌を詠むことが出来る時代になったことを言っているわけである。この状況の到来は短歌にとって実に大きく、左千夫のこの歌は短歌の発展過程における歴史的意味を持つ象徴的な歌として捉えることが出来る。

  この歌は明治三十三年、左千夫三十七歳のとき発表されたもであるが、この歌の通り、明治時代の短歌は広く展開し、次の大正、昭和時代へと大いなるうねりを見せ、歌の手法並びに作品傾向にもそれが現われ、いろんなグループによる活動が見られるようになった。『万葉集』にも庶民の歌は見られるけれども、万葉歌は貴族によって扱われ、貴族によって編まれたもので、純然たる庶民の歌とは言い難いところも指摘されるから、明治時代以降の短歌は大いなる発展を見せたと言える。

  これは短歌にとって革新の何ものでもなく、明治維新が短歌の有する個別、個人的おのがじしの世界を開いたということになる。もちろん、これは文芸全般に言えることで、大正、昭和時代前期へとこの傾向は続いて行ったのである。この点、当時の短歌の総体は時代の近代化を示していると言える。もちろん、時代の様相というのは、政治的変革が先にあって、それに遅れて現れることが常で、その動向の一つの現れとしてある文芸などもそこに展開される。それは文芸に属する短歌の活動にも言え、短歌は政治に遅れて現れ、明治の新時代と言ってもその活動が活発化するのは明治時代も半ば以降、むしろ後半になってからということになる。では、ここで明治時代以降、大正、昭和時代前期当時の短歌を見てみたいと思う。写真はイメージで、朝日。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年03月25日 | 創作

<934> 短歌の歴史的考察  (11)        ~ <933>よりの続き ~

         短歌とは概ね人の世を映すいはば鏡のごとくにもあり

 信長のあまりにも激しく徹底したやり方には当然のことついて行けない者も現われることになる。で、明智光秀のような人物が出て来た。信長が本能寺の変に倒れていなかったら世の中は変わっていたろうとはよく言われることであるが、歴史に「たら」の話はない。そして、その後に登場して来るのが豊臣秀吉であり、徳川家康であることは誰もが知るところで、「鳴かぬなら」と声の主であるホトトギスを引き合いに出して後世は三人の性格を比べて語る次第である。

 秀吉も家康も、絶大な権力を誇ったが、この武士の時代の礎になったのは、何と言っても、道半ばにして倒れた信長であったことに違いはない。秀吉は尾張の百姓の出身で、戦国時代一の出世頭だったが、その身分の低い家柄にあったからか、貴種にあこがれ、位階にも執着して関白となり、貴族全盛の時代に権力を欲しいままにした藤原道長と同じく、最後は太閤になり「太閤殿下」と呼ばれるに至った。

 で、武家政権は揺るぎなく絶大な力を持つようになり、貴族の影はいよいよ薄くなって、秀吉から家康に及び、封建制度の確立を見る江戸時代に入って行った。こうして、江戸に政治の中心が移り、士農工商の身分制度が導入され、武士を中心にした世の中が展開することになった。貴族がいよいよ表舞台から消え、衰退して行く中で、短歌は影を潜め、衰退を余儀なくされて行った。もちろん和歌を愛するものが完全に抹殺されたわけではないが、台頭して一つの時代精神を汲み上げるほどには至らなかった。ここで思われるのが、大きい衰退理由に武士の精神性があったと言えることである。

                                         

 武士の支配する封建時代におけるものの考え方は、鍋島藩士山本常朝の『葉隠』にも「武士道とは、死ぬことにあり」とか「恋は打ちあけるものではなく、恋い焦がれて死ぬほどの恋が真の恋である」というように、まず、武士の世界では滅私奉公が第一であり、忠君、孝行があって、自分を律し、あるいは自分を滅して目上に対して臨むことが美徳とされた。また、武士の時代になると、剣術とその精神、そして、禅宗や茶道が注目されて行った。

  このような思想の世の中にあっては、個別、個人的おのがじしの抒情歌たる短歌は相い入れられず、育っていかなかった。このため、短歌はこの時代、影を潜めていなくてはならなくなった。もちろん、短歌が完全に消え去ったわけではなく、武士の間でも詠まれたが、それは文学としてというより、歌道のたしなみとしてのものであり、新古今時代以前とはその短歌の立場を大きく変えたのであった。言わば、そこには個性の発揮が乏しく、時代を映すものではなく、悪く言えば習いごとの真似歌に陥ったと言わざるを得ない状況にあった。

  そして、時代を映すと言えば「武士道とは、死ぬことにあり」と言われるように、武士は自分の死を重んじていたが、その死に際してやっと自分の思うところが短歌にして詠めたということがある。武士の間での短歌と言えば、この辞世の歌がまずあげられると言ってよかろう。では、その例歌を二、三見てみたいと思う。

        散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ                                                     細川 ガラシャ

         浮世をば今こそ渡れもののふの名を高松の苔に残して                                                    清 水 宗 治

       風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん                                                  浅野内匠頭長距

 三首ともよく知られる辞世の歌であるが、ともに武士の世の美学をよく表わしている。ガラシャは細川忠興の妻で、ガラシャ夫人と呼ばれる。ガラシャはキリシタンの洗礼名で、本名は玉子、明智光秀の娘である。で、ガラシャは家康とともに北条氏を攻めるため東国に出陣した忠興の留守を与かっていたが、武将の囲い込みを狙っていた石田三成に攻められ、人質にされようとした。しかし、彼女はこれを拒み、自害の道を選んだ。だが、クリスチャンだったので、自ら命を絶つことが出来ず、家臣に自分を斬らせ、火を放たせて死んだ。この死に当たって詠んだのがこの辞世の歌である。彼女は武士ではないが、主君を思う武士の本分を全うしたことによりここにあげた。

 次の宗治(むねはる)の歌は、毛利側の備中高松城を攻める秀吉に対し、城将であった宗治が抵抗したことに発している。城は秀吉の水攻で孤立し、陥落寸前に至った。この緊迫のさ中、本能寺の変によって信長が討たれたという衝撃の知らせが秀吉に届いた。秀吉はこの知らせを秘して宗治の命と引き換えに立て籠もる家臣を助けることを条件に和睦し、急遽、京に引き返した。宗治は水攻めで出来た濠に小舟を漕ぎ出し切腹して果てた。この死に臨んで詠んだのがこの辞世の歌である。

 今一首、浅野内匠頭の辞世の歌は、江戸城の松の廊下で、いじめを続けられていた吉良上野介に対し刃傷の沙汰に及び、この事件によって切腹を言い渡され、無念の死を遂げた。このときに詠まれたのがこの歌で、元禄の世の、いわゆる、赤穂浪士四十七士の吉良邸討ち入りの物語「忠臣蔵」の始めに見える歌である。その内容をうかがうと、何となく無念な恨み心が感じられる。なお、討ち入りによって主君の無念を晴らした大石内蔵助良雄は「あらたのし思ひは晴るる身は棄つる浮世の月にかかる雲なし」という辞世の歌を残している。

 このように、封建時代の短歌はこうした死に際したとき、その個別、個人的おのがじしの抒情歌としての特質を発揮したのである。それは武士の美学によるもので、この武士の美学に倣って辞世の歌を詠むものも現れた。例えば、「我死なば焼くな埋めるな野にすてて飢えたる犬の腹をこやせよ」という歌川広重のような歌も生まれた。しかし、これは武士の美学表現に沿う域のものであって、ほかは概して歌道の世界の様式に従うものとなり、文化的広がりを見せることはなかった。これに対し、連歌から発して生れた俳句が江戸時代には展開を見せることになる。これは個別、個人的おのがじしの抒情歌たる短歌では味わえない俳句の特性が武士の戴くおのがじしを否定する精神を損なうことなく、庶民にも愛される詩形にあったからではなかろうか。

  また、この俳句については、松尾芭蕉の存在が大きかったと思われる。とにかく、俳句が武士の時代に活況を呈し、庶民の間に広まって行ったのである。このことは短歌と俳句の特徴をもって考えるに特筆すべきことであると思われる。この状況は江戸時代が幕を下ろす十九世紀半ばまで続く。つまり、短歌が冬の時代であったこの間は、勅撰二十一代集に終止符が打たれた室町時代から数えて実に四百年以上に及んだことになる。   写真はイメージで、冬枯。

 


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2014年03月24日 | 創作

<933> 短歌の歴史的考察  (10)      ~ <931>よりの続き ~

       歌は悲の器か 成就せぬ恋を詠むほどにある 昔も今も

 それでは、次に鎌倉時代以降の短歌の展開を見てみよう。その前に、この時代までに登場した歌人の顔ぶれをあげておきたい。まず、『万葉集』に登場する奈良時代以前の歌人たちは、例えば、額田王、大伯皇女、柿本人麻呂、高市黒人、志貴皇子、山部赤人、山上憶良、大伴坂上郎女、高橋虫麻呂、大伴旅人、大伴家持等々。

  次に平安時代の歌人たちは、例えば、在原業平、小野小町、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑、伊勢、和泉式部、紫式部、相模、周防内侍等々。また、新古今の平安時代末から鎌倉時代ころの歌人たちは、例えば、藤原実定、西行、後鳥羽院、藤原定家、藤原家隆、式子内親王、宮内卿、藤原俊成女、藤原良経、源実朝といった面々。

  これらの歌人を見通してみると、まことに壮観であるが、その作歌姿整や歌の内容にはそれぞれがそれぞれの時代の特質を負っていることが言える。前にも触れたが、その歌を比較してみると、直情にして直截的に詠んでいる歌の傾向が見られる万葉時代が最初にあって、次に雪月花を美の対象とし、雅に至って詠んでいる観念歌の傾向が著しくなる古今時代が来て、ものの哀れに気持ちを寄せて作歌に当たった新古今時代に至ったのがわかる。そして、歌人たちがそのそれぞれの時代に沿ってあったことが言える。これは歌が「世につれ」で、次なる時代が来るわけである。で、次はその新古今以後から戦国時代に入る前までの考察となる。

             

 後鳥羽院の隠岐配流以後、都に残った定家を中心に次の第十代の『新勅撰和歌集』が編まれ、短歌は定家の家筋を中心にした歌道の狭い領域に封じ込められ、様式化してゆくことになり、哀れを詠んだ新古今の時代は終わりを告げた。だが、勅撰集はこれ以後も室町時代の永享十一年(一四三九年)に出される後花園天皇の第二十一代集の『新続古今和歌集』まで続けられたのである。これはどうしてか。新機軸になるものの登場がなかったけれども続けられた。これは短歌が貴族の権威に寄り添っていたことを物語るもので、古今時代から見ても五百年に及ぶ歴史の上にあったからであろう。よいか悪いか、この短歌の歴史を打ち破るほどの政権が室町時代までは現れなかったということが言える。

 では、その政権を見てみよう。貴族による律令体制が崩壊した鎌倉時代以降、頼朝の時代はあっという間に終わり、北条氏の時代が百年余り続く。だが、その勢力にも翳りが見え始めると、天皇を中心とした政治の復活が後醍醐天皇等によって画策され、朝廷が南北に分れて存在するという南北朝時代へと移って、これが五十年余の間続き、足利尊氏の台頭があって、室町時代へと時代は進んで行くことになる。そして、この室町時代をもって勅撰和歌集は二十一代にして終わりを告げることになるのである。

 この新古今の鎌倉時代から新続古今の室町時代前期の間は、概ね武士が国政を仕切ったが、天皇を中心とする公家、貴族はなお隠然たる影響をもって存在し、武家政治は安定しない様相にあった。これは律令体制下の政治がなお尾を引いていたことを意味するもので、武力のみでは政治が行なえないことを示すものとして武士の間では認識されていたと思われる。で、最後の勅撰集が出された室町時代までは権力の武家と権威の貴族の駆け引きが拮抗していたと見るべきで、勅撰集がこの時代まで続けられたことはその証と言ってよいように思われる。

 つまり、政権を奪った武士は、奪ったものの権威的な政治の世界には疎く、貴族のやり方を見習わざるを得ず、ために、平家の時代と同じように、以後も武士の貴族化がなされるということが続いた、と考える。ゆえに、武力では武士が優位に立ったけれども、政治の世界では貴族が幅を利かせるという状況がなお尾を引いてあった。そのよい例といってよいのが、鎌倉の三代将軍源実朝の動向である。誠実で温厚な気弱な性格の持ち主で知られる実朝は定家に歌を習うとともに後鳥羽天皇に忠誠を誓う。で、「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」というような歌を作るなどした。このことは、当時の貴族と武士の関係性をよく物語る例と言える。

 そして、室町時代へと時代は進むが、貴族化して行った足利氏の支配力が衰え、いよいよ群雄割拠が起こり、下剋上の戦国時代へと入って行くことになるわけである。ここに登場して来たのが織田信長という個性であった。この世を夢まぼろしと断じた信長の怖いもの知らずの行動は叡山焼き討ちを敢行するなど旧套、旧弊を徹底的に打ち壊し、貴族の権威をも打破し、武家の真の時代を切り拓いて行ったのである。当時においてこの信長の登場は実に大きかったと言ってよい。結果、貴族の権威の象徴のような存在であった和歌(短歌)の勅撰集は二十一代にして終わりを告げるに至った。言わば、この勅撰集の終焉は信長によってなされたと言ってもよいように思われる。そして、短歌は、武士による封建制度下へと世の中が移り行く中で、長い冬の時代に入ることになるのである。写真はイメージで、雨。

 


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2014年03月23日 | 写詩・写歌・写俳

<932 対 話

        彼岸会や 人それぞれに ある彼岸

 彼岸の昨日、娘が来て久しぶりに食事をした。元気な姿は何よりである。病院勤務をしているので医療のことが話題になったが、医療と言えば、高齢者のことになり、終末期医療などの話に及んだ。で、人生の始末の話になって、いろんなケースが見られるという具合で、自分にも置き換えて考えさせられるという仕儀になった。

 自分がベッドで寝たきりの状態になってもなお延命し、生き長らえることを望むかどうかというようなこと。ぽっくり死ねれば何よりだろうが、これだけは思うに任せないのは娘もいろいろと見聞しているようである。そこの時点では判断出来ず、はたと悩む御仁が多いことを言っていた。

                                                  

 果たして自分がそのような仕儀に陥ったならばどのような対処を望むだろうか。これはなかなかの難問であるが、どうせ近々この世とおさらばしなければならない身であれば、ベッドに釘付けの身で最後の何年間かを過すとして、その意義が自分に見出せることもなかろうから、私には単なる医療技術による延命措置などは必要ないということが言える。なので、自分がそのようになったときは延命措置を望まないというのが今の我が気持ちではある。

 少子高齢化で、高齢者への風当たりはますます厳しくなっている。今後もこの傾向に変わりはないだろうことは大借金行政で火の車である国の財政状況を考えるとはっきりしている。今の時代はこのような状況下にあり、そこにも考えが及び、健康には留意しているつもりではあるが、そうしていても、年齢には勝てず、見通しは明るいはずもない。大借金をしている国が頼りないということは結構大きいことである。

 で、娘には延命の必要はないと伝えた。妻も同様の意志を持っているようである。うらぶれても生きよ。生きる価値が見出せるならば生きよ。ではあるが、人の手を煩わせてまで生きようと思う気持ちは今のところない。娘がどのように思って帰ったかは定かでないが、多分、そのときになって見ないとわからないという気持ちが半分はあって、多少は私の言葉を聞いたのではないかと思う。

 この問題には、それなりに考えを巡らし、暮らしているが、どうせこの世の世話になると開き直るケセラセラの気分も多少はある。で、これには答えなどないのだという気分も、またして来るといった次第である。西行のようにはなかなか行かない。現代の医療、延命技術は果して人生をややこしくしているのかも知れない。人生の幕引きが難しいと知ることは、仕事の現場で立ち会っている娘だけではなく、当人の立場になりつつある年齢の私たちにも当てはまるということで、そこのところを話したのではあった。 写真は法隆寺会式の人出の風景。

 


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2014年03月22日 | 創作

<931> 短歌の歴史的考察  (9)      ~ <930>よりの続き ~

        満月に添ふべくうたふ歌あれば 半月に添ふ歌もまたあり

  では、今度は、相聞の歌で比較してみることにする。ホトトギスと同じく、万葉、古今、新古今から恋歌一首ずつをあげてみる。恋は男女の仲。恋にあってはいつの時代も同じような心情に置かれるように思われるが、その表現は時代によって微妙に異なるところがうかがえる。以下の恋歌は三首とも、成就出来ないでいる恋の歌という共通点を持つが、恋とは成就出来ないゆえに言われることかも知れないとも思える。とにかく、以下の恋歌を比較してみることにする。

     秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞何処辺(いづへ)の方にわが恋ひ止まむ    『万葉集』巻 二 ( 8 8 )  磐 姫 皇 后

   月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして    『古今和歌集』  巻十五  (恋歌五・747)   在原業平

   年も経ぬ 祈る契りは初瀬山 尾の上(へ)の鐘のよその夕暮       『新古今和歌集』 巻十二(恋歌二・1142) 藤原定家

  磐姫は仁徳天皇の皇后で、皇后は天皇が八田皇女(やたのひめみこ)に心を惹かれ、留守の間に逢い引きしていたことに怒り、山城の国に去って、行幸があっても天皇には会わなかったと伝えられる嫉妬心の強い女性として見られ、『万葉集』巻二に天皇を思う歌が四首見える。この歌はその中の一首で、「秋の田の穂の上に棚引く朝霞のようにあなたを恋しく思う私の気持ちはどこに行き着くのかわかりません」という意で、慕わしい心のうちを朝霞に比して詠んだもので、天皇への恋しくも辛い気持ちを直截に吐露しているところがうかがえる。

  ほかの三首も天皇への思いを詠んだ歌で、四首のニュアンスの違いから代詠であるとする説もあるが、どちらにしても、情を直截に表現するという万葉歌の特徴が示めされていると言える。なお、磐姫皇后の一連の歌は『万葉集』中、年代的に最も古い歌で、五世紀前半のころとされる。万葉時代の歌ではないから伝承歌ということになるのだろう。

                                                

  次に『古今和歌集』の業平の歌であるが、業平は平城天皇の第一皇子阿保親王と伊都内親王の皇子で、在原姓を賜って臣籍に下った。『伊勢物語』の作者とも見られている貴公子で、六歌仙の一人として知られる王朝前期を代表する歌人である。短歌に秀でた才能を発揮したが、中でもこの恋の歌はよく知られている。

  詞書によれば、この歌は心を寄せていた二条の后高子が皇太子の御息所に去ってしまった淋しさにあって詠んだと言われる。その意は「あなたがいないので、昔と同じようにこうして春の月を見ているのに、今の私には月がそのころの月ではなく、春も昔の春ではない心持ちになっています」というほどで、歌は流麗な和風の文体にして王朝の趣を有し、詞書によってそれは直截的な歌であると受け取るべきかも知れないが、詞書なしに読めば理知を利かした観念歌の趣が見られ、ギヨーム・アポリネールの「ミラボー橋」を想起させるところがある。

  最後に『新古今和歌集』の定家の歌であるが、定家は中世に活躍した歌人で、『新古今和歌集』の選者の一人として知られ、『小倉百人一首』を生んだことでも有名である。この歌は、六百番歌合の自作百首の一首で、定家三十二歳のときの「祈恋」の題で詠まれた歌である。その意は「年も経てしまった。初瀬の観音に恋の成就を祈ったけれど、その祈りもかなわず、私の恋は果てた。この身になおも響く鐘は誰が鳴らすのか、逢瀬の夕暮だが、それは私のためではなく、他所の誰かの祈りに鳴らされる鐘なのだ」というほどに解釈出来る。

  あきらめ切れない、しかし、あきらめるほかない恋ゆえの辛い祈り。無惨なその私は男か女か。観音さまの居ます長谷寺の初瀬であるからは女性と思わねばならないが、この鐘は詞書が示すように心の奥に鳴らされる祈願を象徴する鐘である。この祈る思いは、まさに、衰退して行く貴族の精神性に通う。新古今の定家、寂蓮、西行の三夕の歌などとともに哀れみに重きが置かれた歌と取れる。思うにこの恋歌にしても式子内親王のホトトギスの歌にしても時代を負って歌はあるということが言える。

  これら六首の歌は恣意的に選んで比較したもであるけれども、万葉、古今、新古今の歌においては概ねこの比較に見えるそれぞれの特徴がそれぞれの時代を反映していると見て差し支えなかろうと思われる。殊にそれぞれの時代背景などを考えると、時の推移と短歌の推移が微妙に合わさっていることが言える。短歌が個別、個人的なおのがじしの抒情歌としての特質の中で、『新古今和歌集』の定家の歌はその特質にそぐわず逸脱しているように見えるかも知れないが、それはそうではなく、短歌が有するその特質を生かして歌を象徴主義的域にまで昇華させているものと見るべきと私は思う。

  短歌が単なる雅な遊びでないところに行き着いた点は、やはり、時代の事情がそうさせたとも言えるだろう。時代はなおそこから進み、次の時代へと移って行く。流竄の断崖に立って成し遂げた後鳥羽院の魂が込められた詞華集である『新古今和歌集』がそこにはあるようにも思われる。  写真はイメージで、満月と半月。