<1267> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (95)
[碑文] 宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 麻奈迦比尒 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農 山上憶良
[裏面] 銀母 金母 玉母 奈尒世武尒 麻佐礼留多可良 古尒斯迦米夜母 同
これは『万葉集』巻五に見える山上憶良の「子等を思ふ歌一首」の詞書による長歌(802)とその反歌(803)で、表面の長歌も裏面の反歌も原文の歌碑である。長歌は、 「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来たりしものそ 眼交(まなかひ)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ」、反歌は「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも」と、語訳されている。長歌の意は「瓜を食べれば、子供のことが思われる。栗を食べれば、なお一層子供のことが愛しくなる。一体子供はどこから来たのだろうか。目の前にしきりにその姿がちらついて安眠出来ないほどである」となり、反歌の意は「金も銀も玉も子供という優れた宝に及ぶことは出来ない」となる。
なお、この長歌と反歌には「釈迦如来、金口(こんく)に正に説きたまはく、等しく衆生を思ふこと、羅睺羅(らごら)の如しとのたまへり。又説きたまはく、愛は子に過ぎたりといふこと無しとのたまへり。至極の大聖すら尚し子を愛(うつく)しぶる心あり。況(いは)むや世間の蒼生(あをひとくさ)の、誰かは子を愛しびずあらめや」という前書が付されている。「金口」は釈迦が言うという意。「羅睺羅」は釈迦の出家前の子のころ。また、「蒼生」は一般の人の意。所謂、この前書は「愛というのは子への愛に過ぎるものはない。釈迦のような大聖すら斯くのごとくであるから、一般の者には誰が子を愛さずにいられようか」と言っている。この後に碑文の長歌と反歌が見える。
山上憶良は斉明天皇六年(六六〇年)から天平五年(七三三年)ころの奈良時代初期の貴族で、従五位下、筑前守まで昇った。その経歴は大宝元年(七〇一年)第七次遣唐使少録に任ぜられ、翌年無位にして渡唐。このとき四十二歳前後。和銅七年(七一四年)従五位下に叙せられ、霊亀二年(七一六年)に伯耆守、養老五年(七二一年)首皇子(聖武天皇)の侍講、神亀三年(七二六年)筑前守に任ぜられ、大宰府に赴いた。
神亀五年(七二八年)大伴旅人が大宰府帥として着任したことにより、旅人や憶良等によって活発に歌が作られ、宴会等を開いて披露し合い筑紫歌壇と呼ばれるに至った。その後、天平四年(七三二年)に旅人と前後して帰京した。天平五年(七三三年)六月の記述がある「老いたる身の重き病に年を経て辛苦(たしな)み、及(また)子等を思ふ歌七首」の詞書を有する長歌と反歌六首が『万葉集』巻五(八九七から九〇三)に見え、これを最後に消息が知れないので、同年六月以降、間もなくして亡くなったと見られている。
柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持などとともに、七十八首が『万葉集』に見える代表的な万葉歌人であるが、その作風は「貧窮問答歌」(892から893)やこの碑文の「子等を思ふ歌」、そして、病や死における悲しみを詠んだ「日本挽歌」(794から799)、「沈痾自哀の文」など、子供や家族、貧しい人々を思いやって詠んだ儒教や仏教の精神に満ちた歌が多く、当時にあっては異色の社会派と称してよい歌人だった。
この憶良の歌碑は奈良市油阪町の西方寺の境内に建てられている。前述したごとく、表面に長歌(802)、裏面に反歌(803)が原文で刻まれている。寺伝によれば、西方寺は奈良時代、行基によって佐保丘陵近くの多聞山に創建、室町時代に松永久秀が当山に築城した際、現在の地に移転したと言われる。浄土宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来坐像(藤原時代・重要文化財)。室町時代の第一〇六代正親町天皇の綸旨により、宗派に偏らない南都総墓所として民衆のよりどころとして広く親しまれて来たと言われる。
境内地には当時からの石仏が多く、庶民のお寺としての風情が見られる。歌碑は信者の寄進によって平成元年(一九八九年)に建てられたものであるが、分け隔てのない総墓所としてのお寺と庶民感覚をもって歌に対した社会派歌人憶良の思いにぴったり来るところがある。 写真は左から「宇利波米婆」の憶良の歌碑、碑の裏面に見える反歌のアップ、総墓所を象徴するような西方寺の石仏群。
石仏や 日差しが欲しい 余寒かな