大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年02月17日 | 写詩・写歌・写俳

<1261> 動物と植物における色の幻想

      草木の緑なす葉と動物の赤き血の色は 生命の色

 地球生命における動物と植物の関係性についてはこの間触れた。そのときの考察を結論的に言えば、私たちが生命を保持して行けるのは植物があってのことで、植物が大切なものだということであった。とともに、動物と植物の関係性においては持ちつ持たれつで、そのバランスが大切だということに考えは至った。そして、動物と植物における色に関する幻想がそこから湧き上がって来る次第で、そこには根本に太陽の存在がある。幻想が矛盾なく科学的かどうかはわからないが、今回はそれについて述べてみたいと思う。

 まず、色の基礎知識として、少し長いが『左と右の科学』(富永裕久著)から引用してみる。曰く、「赤と緑と青の三色を“光の三原色”という。この三色さえあれば、その配合で、世の中のすべての色は表せる。また、赤と緑を混ぜると反青である黄が生まれ、緑と青を混ぜると反赤であるシアンが生まれ、青と赤を混ぜると反緑であるマゼンタが生まれる。そして赤、緑、青の三色すべてを混ぜると、色は白となる。赤と反赤(シアン)、緑と反緑(マゼンタ)、青と反青(黄)の混合は三色を混ぜたのと同じことであるから当然色は白となる」という。これは太陽光によるところで、これを絵具で言えば、シアン、マゼンタ、イエロー(黄)をもって“絵具の三原色”と言い、この三色を絵の具において配合すれば、白でなく黒になる。印刷技術は“光の三原色”を“絵具の三原色”に置き換える作業であると言えるわけである。

 少し話題が逸れたが、ここで、今一つ、太陽光と植物の関係について、『植物のたどってきた道』(西田治文著)から引用すれば、「緑色をした植物は光合成をするときにとくに赤と青の波長の光を使う。虹の色の混色である太陽の白色光から赤と青の光を吸収すると緑が残るのである。緑の葉は使わない緑の波長を反射しているから緑色なのである」ということがわかる。なお、“光の三原色”や“絵具の三原色”については図で示してみるとわかりやすいが、ここでは省く。

                      

 この二点の引用から動物と植物、即ち、地球生命における色の幻想が展開することになる。思うに、草木の緑なす葉の内実は“光の三原色”からして言えば、赤と青の色が必要ということになり、私たち人間を含む動物の赤い血の色は、この“光の三原色”からして言えば、赤は吸収されず反射して見える色であるから、内実は緑と青の構成によっているということになる。ここで思われるのが、太陽と地球生命の動物と植物のことである。

 赤と緑と青の光を合せれば白、即ち、太陽光を言うものにほかならない。地球生命の一方の側にある緑なす植物の内実の色は先に述べたごとく太陽光の赤と青を必要としている。これに対し、もう一方の赤い動物の血の内実の色は緑と青の構成によってあるということが出来る。地球生命はこの世の中の色彩からして、太陽の申し子と言えるから、ここに考えが及んで来ることになる。

 つまり、動物も植物もこの太陽の光(白)を受容してその生命を成り立たせていることが考えられる。言わば、動物でも植物でも太陽光の総体たる白をもってその生命を維持しているということになる。そこで、植物の光合成が思われるわけであるが、植物自体がすでに有している葉緑素が吸収した太陽光の中の赤と青の色と相まって光合成をなす。この光合成によって、植物の中では太陽光の白という色が完成するわけで、太陽の申し子である植物はその生命を成り立たせることが出来るという次第である。

 では、動物の方はどうか。動物になくてはならない血から生命体たる動物をこの太陽光において見てみると、前述したように、その内実は反赤である緑と青であって、赤を欠くところにある。ということは、太陽光の白に達するに動物では主に赤を補われなくてはならないということになる。そこで、動物は太陽光から赤と青を有している植物によってその赤を補い、その内に太陽光の白を十分にする。で、動物も植物も生命を維持することが出来るということになる。因みに、葉の緑と血の赤を太陽光に透かし見るとまことに生命力のある美しいものであることがわかる。緑で言えば、若い緑の葉を太陽光に透かし見ると実に美しい。また、血の赤で言えば、歌人与謝野晶子が詠んでいる「熱き血汐」の美しさは生命力による官能にも訴えて来るところがある。

  動物は他の動物を食べて命を繋ぐものもいるが、食べられる動物の元を辿れば、植物に至ることはこの間も触れた。植物は太陽光と直接関係しているので、地球生命から言えば、植物の方が先であって、動物は後発と言わざるを得ない。つまり、植物の方が太陽の申し子ということについては説明しやすいが、どちらにしても、地球生命というのは、動物にしても植物にしても、太陽光の恵みの上に成り立っていることが言えるわけである。以上が私の生命に対する幻想であるが、この幻想には真も含まれるであろうことが思われる。写真は森一面の緑(紀伊山地の大峰山系の山で)とカエデの若葉。動物の一員にほかならない私たちにとって、草木の緑の大切なことは失ってはじめて気づく類のものかも知れない。