<1258> 悲劇と喜劇の現実
開発と破壊と再興 破壊とは戦火に通ず 人類の仕儀
開発に始まる人間の営みの様相は自らが有するエネルギーによって破壊と再興を繰り返してゆく。人間のその生きざまの中でこれは必然のごとくあり、そこには常に個々人の悲劇と喜劇が生じて絡まることになる。開発は自然を壊すことによって成り立つことが通例であり、破壊は自然災害などによっても起きるが、戦火にその姿の一例を見ることが出来る。再興は破壊の後に現れる現象で、例をあげるまでもなかろう。再建とか復興とかという言葉で語られることもある。そして、破壊と再興をセットにした意志的な行為としての戦火という破壊があることを現代人の中には気づいている御仁もいるはずである。
意志的な行為、即ち、意図的になされる破壊の繰り返しが客観的に見て納得の出来る展開であればよいのであるが、往々にしてこの繰り返しは理想通りには運ばず、利害の衝突たる争いを引き起こし、ときには戦火にまで及ぶということになる。こういうことになれば、これを起因とした悲劇や喜劇が生まれて来ることは前述した通りである。戦争には互いの立場における理屈というものが建て前としてあるが、戦火はまさに人間のエネルギーがこの破壊に向かって用いられる一種の病気と言ってよい。それも、狂気という精神的病状を伴い、その症状は目を覆いたくなるほどの惨状に陥り、悲劇そのものを示すことになるのが通例である。
このように考えを巡らせてみると、戦地への武器供与は、戦地、即ち、戦場になっている国に対する援助というよりも、その国をもっと破壊せしめるものであるということが言える。そして、そこには戦争を望まない人々までをも巻き込む悲劇が一層生じる状況になることを物語る。然るに、戦火はいつまでも続かず、終わりを迎え、終わりに際してはじめて戦火を交えた者たちは膨大な犠牲のあったことに気づく。そして、後に残った者たちが、戦勝者の力を借りるなどして再興に当たるということになる。あるはこのような仕儀をもって近代化への道などと称したりして来た。日本の戦後がまさにその典型例であることは言うまでもない。
戦後この方の世界を概観してみると、日本における近代化と同じような運命を辿り、戦場と化した国がそこここに見られることが思われて来る。焼け野原となった瓦礫の中から復興、再建が行なわれて来た。しかし、破壊には言い尽せない悲劇が内包されていることは間違いなく、これは当事者でなければわからない心情が絡んでいることで、いつの時代にも、どんな場合にも言えることで、第三者には理解され難い虚しさのような気分がつきまとうところがあるのではないかと思われる。
如何なる理由による戦火も、戦場となったところを破壊に導く。それは、物質的なものもさることながら文化とか秩序とか人間の精神上のことまでも破壊して行くということになる。現在の中東もウクライナも戦火が続く限り、この破壊は進められて行くということになる。そして、そこには必ずと言ってよい悲劇が生み出される。しかし、武器を供与する者には痛むものはなく、そこには人の不幸の上に成り立つ喜劇が生じているかも知れないということが思われて来る。では、以下に関連の短歌を幾首か。 写真はイメージで、左は暗雲が広がる空。右は戦車が見えるウクライナの戦場(テレビ映像による)。
伝へ聞くテロのニュースの真実に及ぶべくなく 聞き流しゐる
中東に戦禍深まりゆくニュース ノーベルあなたの理想を訊かな
作る者売る者買ふ者使ふ者 それよ兵器に重ねて思へ
死と死の縁 無惨なるかな 冬雲が重なり合って遮る日差し
戦場は何処も同じ 除外例なく荒びたる光景が見ゆ
第三者 私(わたくし)なども傍観のそれか 戦禍の報への耳目