<1252> 寒月回想
壮年に壮年の胸 あのころの座右に置きし寒月回想
秋から冬にかけて、月は鎮まりをともなう。ことに寒月は極まるところ。この寒月に何を配するか。雪はいいが、季語が重なるのはまずい。立花実山は『南方録』に言っている。「月に雲、花に霞というようなつけたりを好む心がいけない」と。では何を配すべきか。寒月に神殿。そう、寒月に神殿。これがよい。神殿に極まる月影。壮年はこのように思い、寒月に思うところを得た。
寒月に吠ゆものあり魂は梅林の影辿りて行くか
例えば「花ももみぢもなかりけり」と言う。で、寒月の季節は馥郁たる花も鮮やかに映える紅葉もない。ただ月が輝いているのみ。その寒月下。凍てつく梅林の影を辿って行くものは何ものであろう。行く先は丹精込めて育まれて来た樹林。その一角には、確か、そう、神殿が鎮まる。吠えるのは悲の器。見えざる神に寄り添う眷属のそれか。ときには恐ろしく、ときには淋しく、ときには気を漲らせて、その声は聞こえる。
丹精の樹林を思へ丹精は人の思ひの末にしあれば
寒月は壮年が辿った神殿への道にいよいよ冴え、照らす。何を望んであったのか。吠えるものはまた寒月に向かって二度、三度。悲の魂は神殿に鎮まるか。春への兆しはない。五感はひたすら寒月に触れるのみ。しかし、「花ももみぢもなかりけり」は、花ももみぢも意識のうちに置いている。兆しはないが、寒の終わりには春が来る。梅林にも花のときが訪れ、それをかわきりにほかの花々も咲き匂う。寒月に照らされて静まっていた生命たちはまた新たな気概を漲らせて芽吹くことになる。壮年の胸に去来したものとは、美の欠片。果たして、次のような歌も。写真は寒月。
独り居(ゐ)の身は方寸にありて月 いよいよ冴えて中天にあり
いつか来てまた見よとなど言ふなかれ月極まりて皓皓と照る
晧晧と月冴え渡る凛々と 頭よ肩よ胸よ手よ足よ
悲の器 思ひ終らば美しゅう眼(まなこ)の奥に花吹雪かせよ