ドイツに渡り、コッホのもとで研究を続けていた北里柴三郎は、イギリス・アメリカをはじめ、多くの大学から誘いを受ける。しかし、日本に世話になって自分はここまでこれたのだから、これからは日本への恩返しをしたいと帰国する。
帰国して、福沢諭吉の支援を受け、日本初の私立伝染病研究所を作り、所長に就任する。その後、伝染病研究所は国立に格上げされていく。
1914年、北里が61歳の年に、フランスからレジオン・ド・ヌール勲章が贈られた。これは最高位の勲章である。
だが、この年、大隈重信内閣は行政改革の一環として、伝染病研究所を内務省管轄から文部省管轄へ北里への相談もせずに変更した。
これに激怒した北里は、伝染病研究所を辞任し、私財を投じて北里研究所を作る。これが今日の北里大学をはじめ、北里の名がつく機関の母体となる。
では、なぜ北里はそれほどまでに激怒したのか。
それは、内務省( Home Ministry)という組織を理解して初めて分かる。明治6年に作られた組織で、地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政の大半を担った組織である。全知事を束ねるリーダー(副総理)といった感じだ。
要するに、それだけの多岐にわたる権限がなければ、伝染病は押さえ込めないことを熟知していたのである。内務省管轄でなければ、国民の命と健康を守ることは出来ないという確信が北里にはあったのだ。
北里も、貴族院議員になったが、各界のエキスパートが政治のリーダーであって欲しいと心から願う。
政治家への批判も多いし、私も思うところはある。しかし、政治家を選んでいるのは国民であり、政治家のレベルは国民のレベルによって決められている。それが現実であり、問われているのは自分自身の生き方でしかない。だから私は政治家批判を好まない。
私の生きる道は、教育によって、有為な人財を育てることでしかない。そのためには、自分自身を磨くしかない。改めて頑張ろうと思う。
帰国して、福沢諭吉の支援を受け、日本初の私立伝染病研究所を作り、所長に就任する。その後、伝染病研究所は国立に格上げされていく。
1914年、北里が61歳の年に、フランスからレジオン・ド・ヌール勲章が贈られた。これは最高位の勲章である。
だが、この年、大隈重信内閣は行政改革の一環として、伝染病研究所を内務省管轄から文部省管轄へ北里への相談もせずに変更した。
これに激怒した北里は、伝染病研究所を辞任し、私財を投じて北里研究所を作る。これが今日の北里大学をはじめ、北里の名がつく機関の母体となる。
では、なぜ北里はそれほどまでに激怒したのか。
それは、内務省( Home Ministry)という組織を理解して初めて分かる。明治6年に作られた組織で、地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政の大半を担った組織である。全知事を束ねるリーダー(副総理)といった感じだ。
要するに、それだけの多岐にわたる権限がなければ、伝染病は押さえ込めないことを熟知していたのである。内務省管轄でなければ、国民の命と健康を守ることは出来ないという確信が北里にはあったのだ。
北里も、貴族院議員になったが、各界のエキスパートが政治のリーダーであって欲しいと心から願う。
政治家への批判も多いし、私も思うところはある。しかし、政治家を選んでいるのは国民であり、政治家のレベルは国民のレベルによって決められている。それが現実であり、問われているのは自分自身の生き方でしかない。だから私は政治家批判を好まない。
私の生きる道は、教育によって、有為な人財を育てることでしかない。そのためには、自分自身を磨くしかない。改めて頑張ろうと思う。