本来無一物とは、禅の言葉で、事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないということです。中国の禅宗、第6祖の法燈をついだが慧能(えのう)大師の言葉です。
それは、好き嫌いとか損得、良し悪しなどといった対立概念にとらわれることのない心の持ち方です。あるがままにおいて素晴らしいのだから、それに埃がかかるとか、それを払うとかということもないのです。大切なのは、その心の境地にたどり着けるかどうかだけ。
残念ながら、到底、私にはたどり着けない境地です。
禅語に「本来無一物。無一物中無尽蔵。」という言葉があります。
これは、「人間は生まれながらに自分のものというものなど何もない、この無一物が会得できれば誰でも無尽蔵の福徳が得られる」という言葉です。
私も様々なものに執着して、今日まで走ってきました。学ぶためには本が必要でしたし、仕事をするにはオフィスも必要でしたし、移動のためには車も必要でした。より良い仕事をし、より良い暮らしをするために、様々なものを手に入れながら走り続けてきました。
しかし、死んでいくときには何も持って行くことはできません。また、生まれたときには、何も持たずに生まれてきました。
本当に大切なのは、次の世代に伝えられる「思い」だけ。それは、形はないけれども、大切なものとして、手渡すことが出来るかもしれません。受け取って下さる方がいれば。
その「思い」が本物だったか、偽物だったか。私の「思い」が問われています。
改めて自分の志を見つめ直し、シンプルに取り組んでいこうと思います。
それは、好き嫌いとか損得、良し悪しなどといった対立概念にとらわれることのない心の持ち方です。あるがままにおいて素晴らしいのだから、それに埃がかかるとか、それを払うとかということもないのです。大切なのは、その心の境地にたどり着けるかどうかだけ。
残念ながら、到底、私にはたどり着けない境地です。
禅語に「本来無一物。無一物中無尽蔵。」という言葉があります。
これは、「人間は生まれながらに自分のものというものなど何もない、この無一物が会得できれば誰でも無尽蔵の福徳が得られる」という言葉です。
私も様々なものに執着して、今日まで走ってきました。学ぶためには本が必要でしたし、仕事をするにはオフィスも必要でしたし、移動のためには車も必要でした。より良い仕事をし、より良い暮らしをするために、様々なものを手に入れながら走り続けてきました。
しかし、死んでいくときには何も持って行くことはできません。また、生まれたときには、何も持たずに生まれてきました。
本当に大切なのは、次の世代に伝えられる「思い」だけ。それは、形はないけれども、大切なものとして、手渡すことが出来るかもしれません。受け取って下さる方がいれば。
その「思い」が本物だったか、偽物だったか。私の「思い」が問われています。
改めて自分の志を見つめ直し、シンプルに取り組んでいこうと思います。