志の教育をテーマに、
全国各地で教育実践をさせていただいて思うことは、
「共に学ばせていただいている」ということです。
一教師であったときに、
なぜ、あんなに上から目線でいられたのか、
今となっては不思議でたまりません。
たいしたことも教えてはいなかったし、
人間としてもたいしたことはなかったのに、
なぜ、あんなに偉そうに教えていられたのだろうかと思います。
そして、その感覚は、
今もなお、日本の教育現場に脈々と続いていると思います。
それが一番の日本の教育界の病なのかもしれません。
「志」をテーマに学んでいると、
子どもも大人も関係なく、
共に学ぶ、「同士」でしかないのだと痛感します。
子どもたちは私より遙かに優れた人間になる。
子どもたちは私より遙かに社会に貢献することができる。
そう信じています。
二度とない人生を、
同じ時代を生きる事ができるという
貴重な邂逅を果たしているのだと思えば、
自ずとその出会いに敬意を払い感謝せざるを得なくなります。
問題は、教える側がそのことに気づくかどうかだと思います。
教育をしてあげているのではなく、
教育をさせていただく尊い機会を与えられたのだと
深く実感しない限り、
たいした教育はできないのだろうと思います。
全国各地で教育実践をさせていただいて思うことは、
「共に学ばせていただいている」ということです。
一教師であったときに、
なぜ、あんなに上から目線でいられたのか、
今となっては不思議でたまりません。
たいしたことも教えてはいなかったし、
人間としてもたいしたことはなかったのに、
なぜ、あんなに偉そうに教えていられたのだろうかと思います。
そして、その感覚は、
今もなお、日本の教育現場に脈々と続いていると思います。
それが一番の日本の教育界の病なのかもしれません。
「志」をテーマに学んでいると、
子どもも大人も関係なく、
共に学ぶ、「同士」でしかないのだと痛感します。
子どもたちは私より遙かに優れた人間になる。
子どもたちは私より遙かに社会に貢献することができる。
そう信じています。
二度とない人生を、
同じ時代を生きる事ができるという
貴重な邂逅を果たしているのだと思えば、
自ずとその出会いに敬意を払い感謝せざるを得なくなります。
問題は、教える側がそのことに気づくかどうかだと思います。
教育をしてあげているのではなく、
教育をさせていただく尊い機会を与えられたのだと
深く実感しない限り、
たいした教育はできないのだろうと思います。