Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

痛恨の極み

2011年12月06日 | Weblog
日本の未来は、客観情勢として明るくはない。
国の多額の借金、少子高齢化、縮小するマーケット…。

しかし、活路はある。

それは、一人一人が危機感を抱き、
真剣に学び、自分の強みを磨き、
子どもも大人も志高く生きる社会を実現させることである。

しかし、現実の壁は厚い。

なぜなら、もう子どもたちの心の底にまで、
「損か得か」という価値基準がしみこんでいることを痛感するからである。

勉強をするにしても、
それをすることが「損か得か」。

理解するより考えずに暗記する方を選ぶのも、
受験を考えると「得」だから。
覚えた方が「楽」だから。

掃除をするにしても、
ボランティアをするにしても「損か得か」。

人の話を聞くか聞かないかも「損か得か」。

もはや、
そんな子どもや若者たちの心を磨いていくのは、
ほぼ不可能に近い、至難の業である。

一体、なぜ、そんな悲惨なことになったのかをよく考えて欲しい。
生まれたときの赤ん坊は、
「損か得か」などで行動してはいない。

誰がこの「損か得か」という価値観を
子どもたちの心に先入主として植え付けたのかと言えば、
それは、やはり大人でしかあり得ないのである。

思考力や志や気概を失った子どもたちは、
やがて成人して、国家が破綻していく
断末魔の姿に立ち会うことになったとしても、
眼を覆って見ないようにするか、
かつての父祖の世代への
呪いの言葉を発することぐらいが関の山ではないかと思う。

何としてでもこの困難を克服しようという気概、
その方法を試行錯誤して考え抜く思考力、
社会のために力を尽くそうという志は、
もはや社会全体から失われてしまったのである。

そうしたかけがえのない大切なものは、
残念ながら今の子どもたちの手の中にないのである。

それを大人たちは、
持たせてあげることができなかったのである。

自分自身が、
目先の「損得」という価値観でしか、
子どもを育ててあげられなかったから…。



私のやっていることなど、
もはやごまめの歯ぎしりにもなりはしません。

無念であり、痛恨の極みであります。

悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。



この絶望的な状況は直視しなければなりません。

しかし、絶望を語るのは、
絶望しているからではありません。

絶望的な状況を語り続けることが、
一人でも新たな希望への道を歩んでくれる同志を集める
道しるべとなるのではないかと思うからなのです。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育とは何か

2011年12月06日 | Weblog
私は教育というものは、
全ての人が、全ての場所において、
行っているものだと思います。

幼稚園であろうと保育園であろうと、
小学校であろうと大学であろうと、

その人の言葉と行動が、
側にいる人たちに、
何某かの影響を与えているという意味においては、
やはり教育をしているのだと思います。

とにかく日本の将来にとって、
良き教育、良き人材育成をすることは、
重要かつ緊急のテーマだと思います。

その意味で、
私はあらゆる方々に、
あらゆる機会をとらえて、
私が大切なこととして学ばせていただいたことを、
お伝えしていこうと思うのです。

もちろん、
そんな力が私にあるのかどうか、
私にはよくわからないし、
たぶんないのだろうとも思っています。

しかし、
子育てや教育に関する不幸や嘆きや苦しみを、
この世の中から少しでもなくせたらいいなと思っています。

また、希望の光を失っている人たちの心に、
ささやかであっても灯火を灯せたらいいなと思っています。


新渡戸稲造氏は『自警録』で次のように述べています。


「日本の教育を進めるには、
必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。

(中略)

むかしの立派なる教育家貝原益軒、中江藤樹、熊沢蕃山等はみな塾を開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。
藤樹のごときは村を散歩することが教育であった。

人そのものが教育である。
人が真に教育家なら笑っていても教育になる。
寝ているのも教育になる。

一挙手、一投足、すべて社会教育とならぬものはない。
われわれの目的および理想が教育であるなら、
全身その理想に充ち満ち、
することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。」


僭越ながら、私もそう思います。

確かに教育には、
様々な法律の縛りや、
所管の違いはありますが、
突き詰めて考えれば、
「良き人間に成長して欲しい」という
一つの願いであり、一つの祈りだと思います。

そして、それを実現させていくために、
自分を磨き続けていき、
そのことを通して、
多少なりとも他人様の手助けをしていくことでしかないと思います。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする