先賢の書物に触れると心が洗われる思いがします。それは、澄んだ心持から出ている言葉に触れられるからだろうと思います。人の世の浅ましさ醜さを知りつつも、他者を非難せず、自らを深く省みて、高みに登ろうとする高貴な精神がその言葉に宿っているからだろうと思います。
今年、バッカーズ寺子屋は開塾20年を迎えます。ただ、ひたすらに教育に打ち込んできました。多くの人に支えていただいた日々でした。
今、私の心の中にあるのは達成感や満足感などではなく、ただただ「感謝」の思いであり、多くの人たちの教育への「思い」と共に過ごせた嬉しさでしょうか。
保護者の方々のアンケートを拝見すると、たくさんのお子様たちの成長の様子と、感謝の言葉を書き綴ってくださっています。それを読ませていただいて、やはり私が感じるのは、有難いなぁといういう拝みたくなるような「感謝」の思いでしかありません。私一人では、到底できなかったことです。皆様、本当にありがとうございました。
ただ、私の志は「日本の教育をより良いものにする」ということです。全然それは達成できていません。いかに自分の力が足りないかを突き付けられます。
そこに立ち向かっていく一生を私は過ごしたいと思います。
私の教育の理想は、子どもたちが立派な大人になることであって、
先々で、子どもたちが私に何を学んだかさえ忘れてしまっていてもよいと思います。しかし、学んだことがその人の中に沈潜し、その人の人格形成の土台となっていたら望外の喜びです。
こうしたおかげでこうなったと因果関係がわかるような教育は、人間教育においては、しょせん浅いものでしかないのだと私は思います。
私にできることは、私の教育に全力を尽くすということだけです。それに対する評価は他人のものですから、私にはどうすることもできません。私の知るところではないのです。
ただ、何十年かが過ぎて、「あぁ。そういうことだったのか。」と気づいてくれる人が少なからずいてくれたら、私の努力も無駄ではなかったのだろうと思えるに違いありません。
その日のために全力を尽くしたいと思います。
子どもたちに、レポートなどを「書く」際、意識して欲しいのは「誰に対して」書いているのかを明らかにして書くということです。これが明確でないことが多いと思います。そこが定まっていなければ、言葉の選び方も、表現の仕方も当然変わってきます。相手を意識するということは、相手を大切にすることでもあります。
スピーチでは、ここはかなり改善されるのですが、書くことについては、少し気を緩めるとたちどころによくわからないことになってしまいます。
誰に話そうとしているのか、誰に自分の意志を伝えようとしているのかを、曖昧にする日常があるのだと思います。また、書くことについても、誰に対して書いているのかを明確にせぬまま書く習慣が身に着いてしまっているのではないかと思います。
しっかりした人間を育てていくということは、そうした細部をいい加減にしないということだと思います。
全ては戦いだと感じます。
政治にせよ、経済にせよ、医療にせよ、教育にせよ、権力やお金の力が大きく影響する戦いです。その戦いからは決して逃れることはできないのだと思います。であるならば、人として正しく戦っていきたいと思います。目先の利益だけを追うのではなく、みんなの笑顔、みんなの幸せのため、社会の良き発展のための人材育成を大切にしたいと思います。
私は、「志の教育」と「学び方の変革」の二つを大切にした教育を広げていきたいと思っています。枝葉ではなく、根っこと幹を育てる教育に力を注ぎたいと思っています。しかし、なかなかそれは難しいことです。やはり目先の利益に人は飛びつくからです。しかし、6・3・3の12年と受験にしか使えない教育ではなく、形骸化した魂のこもらない教育でもなく、生涯にわたってその人の支えとなるような教育を生み出し続けたいと思っています。
知識やスキルも大切です。しかし、根が育てば、自ずと枝葉は繁る。「良樹細根、大樹深根」という言葉の通りだと思います。また、志が立てられれば、人は自ら必要なことを学び始めるものなのだと思います。そうした教育にはお金はついてきません。しかし、ささやかな教育事業であっても、良い結果を出し続けていこうと思います。
「不義にして富(とみ)かつ貴きは、我に於いて浮雲の如し」紀元前にこう語った孔子の精神の高さに今更ながら敬意を表しつつ、苦しくても楽しく教育実践を続けていこうと思います。
コミュニケーション能力の高さとは、「相手の使った言葉の背景、つまり、相手の状況や、そこで持つであろう意図を想像して、相手の気持ちに寄り添えるかどうか」だと思います。
言葉には、様々な解釈の可能性があり、相手がどのような立ち位置にあるのか、何を求めているのかを考えようとすることが大切だと思います。
確かに、最近は、そこまで考えたコミュニケーションができる人にお目にかかることが少なくなったように感じます。それは、生活全般があわただしくなっていること、相手の立場に立って物事を考えなくなったこと、言葉に対する感覚が雑になってきたこと、実際の人間関係や実体験という経験値が低くなったこと、などが原因のように私は思います。
例えば、「確認をする」といったときに、上司なりしかるべき人に確認するのはもちろんのこと、待たせている人間の心理状態や時間の過ごし方などについても配慮し、適切な情報を伝えることが大切です。他にも、情報を伝えたり、協力を得ることが必要な人たちがいるかもしれません。そのすべてを瞬時に判断して、聞くこと、話すこと、書くこと、読むことを適切に実行できるかどうかが大切です。
そして、そこには他人に対する心構えや、自分自身への甘さに立ち向かう姿勢も大切です。他人に対する心構えとは、例えば「区別なく敬意を払うこと」であり、自分自身への甘さとは、例えば「ちょっとぐらいいいか」と思うような心持のことです。
伝える側にも、自分の意図を明確に伝える力が必要になります。相手がわかっていないことを読み取る力、勘違いしそうなところを予測し、先回りして言う力も大切です。「相手の理解力が低い」と常に相手に責任があるように思う人も多いのですが、「自分の伝え方の行き届かなさ」を反省する力も必要です。私も行き届かない一人です。
相手の状況をよく把握し、そうした状況が、その人の心理に何を引き起こすのかを予測できるようにならなければ、良きコミュニケーションができている状態とは言い難いのだろうと思います。
最近、AI技術で出撃前の特攻隊員の写真をカラーにし、表情や幾許かの動きもつけるという動画を見ました。だれがどのような意図で作ったかも知らぬままにしていますが、言えることが一つだけありました。
愛と使命感に満ちた人間の表情は、実に凛々しく美しいものだということです。このような顔の人をすっかり見かけなくなってしまいました。私もきっと良い顔をしていない、卑しく貧しい顔つきの日本人の一人なのでしょう。
しかし、何とかそれに抗っていきたいと思います。顔は人間の内面から作られていくものですから、学問を深めていかなければなりません。もっともっと教養も身につけていきたい。
何よりも自分の使命である、日本の教育再興というテーマに向かって、一心不乱に日々を過ごしていきたいと思います。
今日、バッカーズ寺子屋卒塾生たちの「開塾20年インタビュー動画」を見ていて思ったことがありました。それは、10歳から15歳の子どもたちに、本物の教育を提供し続けなければならないということです。
立派な社会人となった卒塾生たちが、口をそろえて言ってくれていたことは、バッカーズ寺子屋の教育は、今の自分の土台となるものを育んでくれたということでした。
子どもたちは、その鋭敏な感覚で、大切なものを吸収してくれていたのです。とても嬉しく思いました。そして、20年という歳月があって、それは初めてわかることなのだなと思いました。
子どもは、ダイヤモンドもガラス玉も同じように「綺麗」と言うかもしれません。区別がついていないように感じられるかもしれません。しかし、心の奥底では正しく感じ取っているのだと思います。だから、大人は、「子どもだからわからないだろう」などといういい加減なことをしてはならないのです。ダイヤモンドを与え続けなければならないのです。
大人の側にこそ、本物の教育を生み出し続ける厳しさが求められているのだと思います。「今どきの子どもたちは…、」などというのは、全くのナンセンスです。厳しい言い方をすれば、大人の側が教育を舐めているからダメなのであり、いい加減な教育をするから、いい加減な大人が大量生産されてきたというだけの話だと思います。
私も「わかりやすく」と思ってはいなかったか、反省させられました。子どもたちは、難しいことも本物であれば、ちゃんとそん本質をつかみとっているのです。それが自覚されたり、開花したりするのには、時間がかかるというだけのことです。
成長という名の、教育の結果を性急に求めるのは愚かなことでしかないのです。それは、大人の側が、自分の評価を高めたいとかいう、教育の本質とは違うどうでもいいことに突き動かされている結果でしかありません。
子どもたちの成長を促す教育には、世俗的なものすべてを捨ててでもやる価値があると思います。
子どもは父母の強い影響を受けて育ちます。だから、私のできることなど、たかが知れているとも思います。しかし、家庭で子どもを甘やかしているであろうことが透けて見えるような時があります。甘やかすだけでなく、放任していることが感じられることもあります。親が自分の自由を、子どもの成長よりも、大切にしたいからです。悲しい気持ちになります。
「甘い教育によって、いろいろの自由を与えられた子供たちは、将来最も不自由な人間に育つであろう。なぜなら、彼らは、自由の最大の基盤である反省力と意力とが奪われるであろうから。」
下村湖人のこうした言葉をお伝えしたいとも思いますが、おそらく、聞く耳はお持ちでないでしょうし、幼時に親としてするべきことをせぬままに過ごしてしまったのだから、時すでに遅しかもしれないと思います。後で、高い授業料を払って正気に戻るしか、道はないのだろうと思います。非難しているのではありません。悲しい気持ちになっているだけです。自分の無力と、社会全体の教育力の低下を嘆いているのです。
結局、親は先に死んでいくのが、基本的な生物の命の在り方ですから。親が死んだ後に、子どもが一人で生きていけるようにするのが教育の使命だと私は思います。
「生命の生長とは自律性の生長であり、自律性の成長とは良心の自由の生長である。そして良心の自由は、生命がそれぞれの個性と環境とに即して不断に自己を創造しつつ、しかもそれがそのまま全一なる世界への貢献を意味する時、最も理想的に生長しているといえるであろう。かくて、生命の生長とは、詮ずるところ、全体に即して独自に生きる力の生長であり、更にいいかえると、愛に背かざらんとする願力と実践力の生長なのである。」
下村胡人の言葉です。
魂を込めた学びの時間を作りたいと思います。子どもにも、大人にも。一人に対しても、千人に対しても。愚直に準備をし、思いを込めて伝え、共に楽しみたいと思います。その先に何があるのかは私の知るところではありません。ただの徒労であるかもしれません。しかし、それでも自分に妥協をし、自分を偽る人生よりは、はるかにマシだろうと思っています。