西鋭夫氏のメルマガより
一昨日、12月25日はクリスマス。
現代日本では、家族や恋人と過ごす、
特別な日として広く親しまれていますが…
実は、終戦からしばらく経った1948年。
その年のクリスマス前には、
日本人が決して忘れてはいけない
「ある出来事」がありました。
本日は、占領史研究の権威である
西鋭夫教授の記事をご紹介いたします。
From:西鋭夫
絞首台の跡はサンシャイン・シティ
東條と他の6名の遺灰は存在すると主張する人もいる。
(佐藤早苗『東條英機の妻勝子の生涯』河出書房新社、1997年を参照)。
7人の最後については、
処刑の行なわれた23日の午後、
花山信勝(はなやましんしょう)博士が、
東京大学印度哲学研究所で行なった
内外記者団との会見に詳しく記述されている
(『朝日新聞』1948年12月24日)。
花山は、7人の最後の3日間を
巣鴨で一緒に過ごした教誨師(きょうかいし)で、
東京帝大の教授でもあった。
巣鴨の絞首台の跡には、
経済大国日本のキラキラと輝く享楽の館
「サンシャイン・シティ」が現在建っている。
A級戦犯を特赦
A級「極悪戦犯」は、まだ19人残っていたが、
マッカーサーは、この7人の処刑の翌日、
12月24日、クリスマス・イブ、
生き残っていた17名を全員釈放した。
熱烈なるキリスト教徒のマッカーサーは、
「やりすぎた」と良心の呵責に耐えられず、
その罪悪感から「己」を解放するために、
これら17人のA級戦犯に特赦を与えたのだろうか。
そうであろう。それ以外、釈放する理由もない。
戦後、首相になった岸信介も
釈放されたその1人。
「日本財団」の創立者の
笹川良一もその1人。
1976(昭和51)年のロッキード事件に
深く関わった児玉誉士夫もその1人。
戦犯はA級だけではない
B・C級戦犯という人たちもいた。
B・C級は、捕虜虐待、民間人の殺害、
略奪などの行為をした罪を問われた。
終戦と同時に、国内および
外地で捕らわれた日本人「戦犯」だ。
1998(平成10)年6月13日に、
50年を経て外務省がやっと公開した資料によれば、
連合軍7カ国がB・C級戦犯5702人を裁判にかけ、
4404名が有罪判決を受け、
その内、984名が死刑にされた
(『産経新聞』1998年6月14日)。
アメリカは、143名の
日本人B・C級戦犯を死刑にした。
イギリスは、223名。オーストラリア、153名。
オランダ、236名。フィリピン、17名。
中国(国民政府)、149名。
外務省はすでに、1950(昭和25)年4月5日現在の
B・C級戦犯につき詳しい統計を発表している
(『毎日年鑑』1951年、110頁)。
1998年に公開された数字とほとんど同じだ。
フランスは52人に死刑を宣告し、20人を処刑した。
ソ連と中国(北京政府)で戦犯として裁かれ、
死刑になった日本人の数は、未だに不明である。
スターリンは、戦犯でなくとも
捕虜なら殺しても問題はないと思っていた。
毛沢東も自国民数100万人を粛清したと言われている。
彼等にとって、日本人は全員戦犯だったのだ。
西鋭夫のフーヴァーレポート
2016年1月上旬号「アメリカの貧困」
現代日本では、家族や恋人と過ごす、
特別な日として広く親しまれていますが…
実は、終戦からしばらく経った1948年。
その年のクリスマス前には、
日本人が決して忘れてはいけない
「ある出来事」がありました。
本日は、占領史研究の権威である
西鋭夫教授の記事をご紹介いたします。
From:西鋭夫
絞首台の跡はサンシャイン・シティ
東條と他の6名の遺灰は存在すると主張する人もいる。
(佐藤早苗『東條英機の妻勝子の生涯』河出書房新社、1997年を参照)。
7人の最後については、
処刑の行なわれた23日の午後、
花山信勝(はなやましんしょう)博士が、
東京大学印度哲学研究所で行なった
内外記者団との会見に詳しく記述されている
(『朝日新聞』1948年12月24日)。
花山は、7人の最後の3日間を
巣鴨で一緒に過ごした教誨師(きょうかいし)で、
東京帝大の教授でもあった。
巣鴨の絞首台の跡には、
経済大国日本のキラキラと輝く享楽の館
「サンシャイン・シティ」が現在建っている。
A級戦犯を特赦
A級「極悪戦犯」は、まだ19人残っていたが、
マッカーサーは、この7人の処刑の翌日、
12月24日、クリスマス・イブ、
生き残っていた17名を全員釈放した。
熱烈なるキリスト教徒のマッカーサーは、
「やりすぎた」と良心の呵責に耐えられず、
その罪悪感から「己」を解放するために、
これら17人のA級戦犯に特赦を与えたのだろうか。
そうであろう。それ以外、釈放する理由もない。
戦後、首相になった岸信介も
釈放されたその1人。
「日本財団」の創立者の
笹川良一もその1人。
1976(昭和51)年のロッキード事件に
深く関わった児玉誉士夫もその1人。
戦犯はA級だけではない
B・C級戦犯という人たちもいた。
B・C級は、捕虜虐待、民間人の殺害、
略奪などの行為をした罪を問われた。
終戦と同時に、国内および
外地で捕らわれた日本人「戦犯」だ。
1998(平成10)年6月13日に、
50年を経て外務省がやっと公開した資料によれば、
連合軍7カ国がB・C級戦犯5702人を裁判にかけ、
4404名が有罪判決を受け、
その内、984名が死刑にされた
(『産経新聞』1998年6月14日)。
アメリカは、143名の
日本人B・C級戦犯を死刑にした。
イギリスは、223名。オーストラリア、153名。
オランダ、236名。フィリピン、17名。
中国(国民政府)、149名。
外務省はすでに、1950(昭和25)年4月5日現在の
B・C級戦犯につき詳しい統計を発表している
(『毎日年鑑』1951年、110頁)。
1998年に公開された数字とほとんど同じだ。
フランスは52人に死刑を宣告し、20人を処刑した。
ソ連と中国(北京政府)で戦犯として裁かれ、
死刑になった日本人の数は、未だに不明である。
スターリンは、戦犯でなくとも
捕虜なら殺しても問題はないと思っていた。
毛沢東も自国民数100万人を粛清したと言われている。
彼等にとって、日本人は全員戦犯だったのだ。
西鋭夫のフーヴァーレポート
2016年1月上旬号「アメリカの貧困」
写真はある日娘が差し入れしてくれた昼食
当時の火葬場長の回想(抜粋)
久保山火葬場は昭和20年10月に連合軍に接収されたが、場長以下は接収期間中もそのまま勤務を続け、
昭和23年10月から昭和25年4月までの間に行われた巣鴨関係の刑死者の火葬には、火葬が終わるまで米軍人が監視した。
昭和23年12月23日に死刑執行された東京裁判7人についても、その遺体はここで火葬に付せられたが、
厳重な警戒のうちに遺骨は米軍が持ち去り、残灰は米軍人から急き立てられ、私達職員の手でその場で残灰を捨てる穴に埋めた。
しかし、翌日小磯国昭元首相の担当弁護士がこれを取り出し、後に伊豆山(三ヶ根山)に埋葬したということである。
レイテ班の旅に参拝しました「殉国七士の墓」は山の下でホテルを経営しております社長が建立されたとガイドさんから伺いました。
こういうことは全く報道されていませんので、
知りませんでした。
もっと報道関係者は詳しく知らせる義務がありますにの
怠っています。
占領下と言うことを理由にむこうはやいたい放題でした。
遺骨をもぞんざいに扱っていたとは許せない国です。