つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

金印のなぞ

2024-09-06 | Weblog
田中英道先生のメルマガより

今回お話するのは、
歴史の教科書に必ずといってよいほど
登場する金印にまつわる、
3つの謎についてです。



古代日本と中国の関係を
証明したといわれる、

この漢委奴国王印

(かんのわのなのこくおういん)は、

日本の歴史を示す重要な史料として
国宝に指定されています。

この金印は『後漢書』という
中国の歴史書に記述されていたもので、

「朝貢をおこなっていた日本が、
中国から贈られたもの」とされています。

しかし、この金印がほんとうに
中国から日本に渡ったものだとすれば、

いくつか説明ができない事実が
存在することをご存知ですか?

実際に、江戸時代以降、
「金印は偽物ではないか」という論争が
絶えず起こっているのです。

今回はその論争の争点となっている、
3つの不可解な点をご紹介します。

①綺麗すぎる金印

1784年、
農民の甚兵衛という人物が
水田で作業をしている際に、
石の隙間から金印を発見しました。

発見された際の記録によると、
金印は水田の溝で石を持ち上げたところ、
キラリと光ったために見つかったのだといいます。

これは、金印が水にさらされ
土中に埋まっていたにもかかわらず、

表面が削り取られたり
変色したりすることがいっさいなく、
発見時には光を放っていたことを意味します。

現在、福岡市博物館で
常設展示されている実物の金印は、
なぜかほぼ傷がなく、

約2000年前に作成されたものであるはずなのに、
きれいな状態を保っているのです。

②金印以外の出土品がいっさいない

金印は、福岡県の北部に位置する
志賀島という島で見つかりました。

この金印が本当に
1700年前に中国から
送られた貴重なものなのであれば、

古代日本の人々にとってとてつもなく
意味のあるものだったはずです。

であれば、金印が発掘された際に、
志賀島が歴史的に重要な地であったことを示す
なんらかの遺跡や出土品が
同時に見つかっていたとしてもおかしくありません。

しかし、発掘された志賀島ではなぜか、
金印と同時代の出土品は
見つかっていないのです。

③古代の常識と一致しない形状

そもそも、この金印には
古代の記述と
異なる点が確認できます。

当時、この金印の持ち手部分の形式は、
中国に訪れた使者が、
どこから来たのかによって
形が分かれていました。

北から来ている場合はラクダ、
南から来ている場合は蛇がかたどられます。

日本は中国から見て南部にあたるので、
金印の持ち手が蛇であることは
問題ありません。

しかし、この金印の持ち手部分は、

一度ラクダとして
作り始められていたことが
研究により判明しており、

その影響で、持ち手が蛇であるとは
わかりづらい形になっています。

本当に隋が権威の証として
日本に渡したものであるならば、

はたしてそのような失敗作が
使われるのでしょうか?

いかがでしたか?

ほかにも疑問はありますが、
以上が金印に関する論争の
争点の一部です。

古代の日本が中国から、
教科書にも出てくるあの金印を
受け取ったことは事実なのか。

写真は頂き物の中国みやげ

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