つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

津田梅子と共に渡米した留学生 2

2024-09-02 | Weblog
■5.瓜生外吉との理想的なカップル

 明治15(1882)年12月、繁子は瓜生外吉と結婚しました。外吉は繁子と同時期にアナポリス海軍兵学校を卒業して帰国し、海軍中尉となっていました。

 外吉はアナポリスでも優等生で、特に英文はアメリカ人の学生よりも優れている、といわれたほどでした。人柄も明朗で社交的、熱心なクリスチャンで、学校内のキリスト教青年組織YMCAの会長にも選ばれていました。

 外吉は自分の学んだ築地の海軍兵学校の教官として、繁子は音楽取調掛のピアノ教師として、共働き夫婦となりました。二人はアメリカの地で学んだ経験と、国費留学生として国家への報恩の志、キリスト教の信仰で結ばれる理想的なカップルでした。

 繁子は翌年に長女・千代を授かり、1年おいて長男・武雄、その翌年には次男・剛と立て続けに子宝に恵まれます。結局、4男3女を生み育てますが、その間に音楽取調掛が発展した東京音楽学校、さらには東京高等女学校の教諭も兼務して、音楽のみならず英語も教えるようになります。

 まさに超人的な活躍と言うべきですが、それも外吉が励まし続けてくれたからでしょう。外吉との結婚も、繁子の幸運の一つでした。


■6.繁子の音楽教育における大きな足跡

 繁子は音楽教師として大きな足跡を残しました。掛長の伊澤修二も、当初はお雇い外人に代わって繁子にピアノ演奏の教授を任せてからは、生徒たちの「進歩も大いに見るべきものある」と称賛しています。

 明治18(1885)年3月の試験では長男・武雄の出産で、同僚が試験官の代理を務めました。出産のぎりぎりまで4年生にはそれぞれの課題曲を与えるなど、個別指導をしていたようです。

 また3ヶ月後の7月には、4年生3人が音楽取調掛で最初の卒業生として、晴れの卒業演奏会に出演します。そのために繁子はそれぞれの個性に合った曲選びと指導をしなければなりませんでした。生まれたばかりの赤ちゃんと1歳半の長女千代を抱えて、どうしてここまでできたのか、その頑張りは、これから祖国の近代西洋音楽の歴史を開くのだという使命感を除いては考えられません。

 3人の卒業生の一人に幸田露伴の妹、幸田延(のぶ)がいました。幸田延は卒業後「第1回文部省派遣留学生」として、アメリカ、ドイツに留学し、日本人初のクラシック音楽作品を作曲しています。帰国後は音楽取調掛が改組された東京音楽学校の助教授となり、その後、首席教授まで上り詰めています。『荒城の月』の滝廉太郎、『赤とんぼ』の山田耕筰などを育てました。

 明治時代の優れた唱歌、童謡は国民の情操を育て、国民国家を築くのに多大な貢献をなしましたが[JOG(715)]、その草分けが繁子だったのです。

 明治29(1896)年、皇后が東京女子師範学校に行啓されました。この時、東京音楽学校はこの女子師範学校に吸収されており、繁子は音楽と共に、英語も教えていました。皇后はかねてからの女子教育発展の思し召しから、女子高等師範学校の設立の際も、多額の御手元金を下賜されていました。

 その学校で、あの時の10歳の幼女が、25年後の今は立派な女性教師として、音楽や英語を教えているのです。皇后は懐かしそうな眼差しで繁子の教授ぶりを参観されました。


■7.日露戦争での奉公

 繁子と同様、外吉も、その無私の性格を天に愛されたかのように、豊かで有意義な人生を送りました。

 日露戦争勃発時には、第4戦隊司令官として仁川沖海戦で緒戦の勝利をあげました。仁川港に陣取っていた2隻のロシア艦を沈めながら、日本側には損害なし、という完勝です。これによって韓国西海岸への上陸が可能となり、その後の戦局を大きく扶けました。

 日露戦争での戦功により、後に男爵の爵位を授けられ、また海軍大将にまで上り詰めます。しかし金鵄(きんし)勲章に付随する年金は、30年にわたってそっくり育英事業に黙って寄付を続けました。

 繁子は銃後で「夫人慰問協会」を結成し、夫が出征した後の貧窮母子家庭を助ける活動を続けました。イギリス公使夫人など各国外交団の夫人たちとともに慈善活動を行い、またアメリカの夫人向け月刊誌に寄稿して、寄付を呼びかけました。帰国後20年以上も経っているのに、留学時代の友人知人から次々と寄付が寄せられました。

 繁子と外吉の唯一の悲劇は、日露戦争の3年後、長男の武雄が海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、少尉候補生として乗り組んでいた練習艦「松島」が台湾近海で火薬庫が爆発し、沈没したことでした。艦の乗組員221名とともに、候補生33名の若い命が失われました。

 繁子は次々と訪れる弔問客に、涙も見せず「多くの兵卒を失ったのは痛惜に堪えません」と語りました。繁子は軍人の妻であり、母でもあったのです。


■8.バッサー・カレッジに寄付した皇后陛下御下賜の銀盃

 日露戦争後、明治39(1906)年にはサンフランシスコ市議会が日本人子弟の公立学校入学を禁止するなど、アメリカでの排日運動が燃え広がりました。これを心配して、アナポリス海軍兵学校卒業の大実業家が、1909(明治42)年に開かれる卒業後25周年の同窓会に、外吉を派遣しては、と駐米日本大使を通じて提案しました。

 日本政府は提案を受け入れ、外吉と繁子を派遣することにしました。二人は非公式ながら国賓待遇で迎えられ、サンフランシスコでも大歓迎を受けました。夫妻は列車で東部に向かいながら、各地で多くの米国民や日系人と親しく言葉を交わしました。

 アナポリス海軍兵学校では、礼砲を轟かせて、夫妻を歓迎しました。同校の1881年の卒業生では、ただ一人、外吉だけが実戦の英雄になったことで、「われわれ海軍士官にとっても大いなる誇り」と称賛しました。ワシントンでの晩餐会では、タフト大統領も出席して、「日米親善は望むところ」と挨拶しました。

 また、夫妻は繁子の卒業したバッサー・カレッジもほぼ30年ぶりに再訪しました。繁子はその際に、菊の紋章入りの銀盃をカレッジに寄付しました。繁子の長年の功労に対して、皇后から賜った銀盃でした。皇后陛下の女子教育への思し召しを担って、その草分けとしての役割を見事に果たしたのが、繁子の一生でした。
(文責 伊勢雅臣)

写真は庭の百日紅





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2 コメント

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外吉との結婚 (峠おやじ)
2024-09-02 19:09:20
いやあ、先走って瓜生外吉とのことをばらしてしまい、申し訳ありませでした。

しかし、現在でも4男3女を生み育てるのは至難の業です。
それでいて創世記の音楽教育もできちゃったのですから
書かれている『外吉との結婚も、繁子の幸運の一つ』
は今の日本に当てはめても
『外吉との結婚が、繁子の幸運の全て』
に近かったのではないでしょうか。

いまだにDV夫や関白亭主がのさばってますものね。
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峠おやじさま (matsubara)
2024-09-03 08:16:46
さすがよくご存じですね。

幸田露伴の妹がピアニストであることは知っていた
のですが、この永井繁子さんとの関連は知らなかった
です。

亭主関白の時代に理想的なご夫婦でしたね。
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