昨日は放送大学客員教授の小林先生が、県立図書館で講義をされたので出かけました。テーマは、「作文の中の柳ヶ瀬」。大正15年の小学生の作文から、時代背景が読み取れました。また昭和29年の小学生の作文も教材となりました。作文が語り部になります。
大正時代、揖斐川町の人が柳ヶ瀬に行こうとすると、まず市電に乗り、忠節橋のたもとで下車。歩いて忠節橋を渡ります。そこからまた市電に乗り、柳ケ瀬に行くのです。このことは、生きていたら100歳になる伯母から聞いていました。嫁ぎ先の揖斐川町から実家に帰るとき、忠節橋は歩いて渡ったことを話していました。頑強な橋に架け替えられたのは昭和23年のことでした。
早くから揖斐川町まで市電が開通していたのは、終点に西国33カ所の結びの寺・谷汲山華厳寺があるからです。ここの秘仏の十一面観音のご開帳が行われ、その当時は一躍市電の乗降客が伸びたようです。
文体は当然旧仮名使い。方言も出て来ます。昭和29年の岐阜市内の小学生の作文も、やはり柳ヶ瀬。当時のアンケートも残っていて、行きたいところは、東京、名古屋、柳ケ瀬、アメリカ、と来るのです。当時は柳ケ瀬とアメリカは同じ価値でした。柳ヶ瀬の目的は映画館と丸物百貨店。丸物の屋上の遊園地も人気コースでした。見晴らしもよかったのでしょう。
同じころの大正三年、東京の小学生の作文には、買い物は銀座の松屋と書いてあります。松屋呉服店の屋上から見ると何もなくて見晴らしがよかったそうです。宮城だけ見えたようです。昭和16年頃、両親が新婚生活を送っていた東京で、母の自慢は三越での買い物でした。私は三越が最古と思っていました。松屋は今も健在ですが、丸物はその後近鉄百貨店となり、今は中日ビルです。
揖斐川町の小学生の作文
東京都の小学生の作文
9/21付け中日新聞