つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

宝暦の治水

2005-06-01 | 岐阜県
 1755年の「宝暦の治水」と言っても岐阜と鹿児島以外の人には関係がないかもしれません。今夜のNHKTV「その時、歴史は残った」で、ようやく薩摩藩の平田靱負(ゆきえ)という家老にスポットが当てられました。この家老は大勢の反対を押し切って、妻子を残して、1200kmも離れた鹿児島より、1000人も岐阜まで引き連れ、苦難の木曽三川分流工事を成し遂げたのです。苛酷さに耐えきれず、28人も切腹したのに、幕府を恐れて内密とし、明治維新がすんでようやく記念碑が建てられました。
 家老自身も工事が完了したとき、辞世の歌を残して切腹します。資金調達の苦労、義士の切腹、病死でぼろぼろになりながらも、岐阜のために尽くしてくれた家老に感謝と敬意を表し、岐阜では銅像を作り、治水神社では毎年お祭りをしています。幕府は琉球貿易と黒砂糖で潤っている薩摩藩にお金を使わせようという謀略もあったと聞くとやりきれない思いです。
 理不尽な工事を押し付けた幕府はやがて薩摩と長州によって倒されることになるわけです。
 (追記・鹿児島では家老の平田殿が罪人扱いと聞き、驚いています。)
コメント (2)
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