『フィリピンを知るための64章』より
東南アジア諸国においては、都市中間層や社会運動体、メディアなどから構成される市民社会の諸集団が、伝統的なエリー卜に対峙する存在として注目されてきた。フィリピンも例外ではなく、キリスト教会から左派組織、社会運動体、NGO、草の根の住民組織、メディアといった多様な市民社会のアクターが、今日まで、大きく二つの役割を担ってきた。
その一つは、サービスの提供である。国家による社会福祉サービスが十分ではない開発途上国では、国内外の民間団体が、政府に代わって社会的弱者への慈善事業を展開する例が多くみられ、こうした団体の多くはいわゆる「非政府組織(NGO)」と呼ばれる。
二つ目は抗議活動などの政治的活動である。毎年2月25日のエドサ革命記念日、5月1日の労働者の日、7月最終月曜日の大統領施政方針演説の日、その他、大規模な国際会議の前後にフィリピンの各地で繰り広げられる大規模な路上デモは、この国の風物詩となっている。
他の東南アジア諸国と比べ、フィリピンでは、「NGO業界(NGO Industry/ NGO Society)」という言葉があるほどNGOの絶対数が多い。フィリピン政府はNGOに対し、政治的にも経済的にも、活動制限を課すことはほとんどない。
フィリピンで「NGO業界」が発達した背景・理由としては二つのことが挙げられる。
第一は人材である。マルコス政権下では、高等教育を受けた20~30代(当時)の若者らがフィリピン共産党を中心とする左派運動と結びついた民主化運動に共鳴し、都市スラムや農村、山岳地帯の僻地に住み込みながら大衆動員の方法論を学んだ。1986年のエドサ革命後、これらの「学生運動世代」が一斉に社会に戻った際に、彼らの受け皿となったのがNGOであった。
第二は資金である。他の東南アジア諸国に先駆けて民主化を達成した1986年以降、欧米のドナーからのフィリピンヘの資金援助は激増した。国際社会の称賛を受けながら社会復帰を果たした「元活動家」らは、洗練された英語でフィリピンの社会問題を世界に向かって発信し、さらなる資金を呼び込んだ。彼らはNGOの幹部や理事に就任し、やがてはフィリピン社会のオピニオンリーダーになった。彼らをリーダーに据え、欧米からの潤沢な資金を受け取ったNGOは、多国籍企業や国際機関での職務経験があり、先進国の大学院で学んだ有能な職員を雇用してきた。フィリピンでは、国家公務員やフィリピン大学の教員よりもNGO職員の給与のほうが高い、という話は現在でもよくきかれる。
このようにフィリピンNGOは日本よりもはるかに人材の層が厚い。それに加えて、アメリカ型大統領制のもとでの官僚制度は、フィリピンのNGOをさらにユニークなものにしている。
アメリカ同様にフィリピンでは、選挙職によって任命される(いわゆる「政治的任命職」の)高級官僚、公務員の割合が高いため、大統領や知事、市町村長の采配によって、NGO経験者が一時的に公務員として採用されるケースは少なくない。エストラーダ政権下で農地改革大臣に任命されたホラシオ・モラレス、アロヨ政権とアキノ政権下で社会福祉開発大臣に任命されたコラソン・〝ディンキー〟・ソリマン、アキノ政権下で国家貧困対策委員長に任命されたジョエル・ロカモラらはいずれもNGO幹部の経験を買われて入閣した。彼らはそれぞれ、各省庁の№2や№3である次官や次官補に腹心のNGO職員を任命する。いうなれば、市民社会の組織が政治社会に一時的に「出向」する形になる。日本では想像しがたいことであるが、これも先述の通り、NGO人材の相対的な優秀さに起因する。NGO職員が突然に閣僚や高級官僚に任命されて行政職をつかさどることができるのだから不思議である。地方自治体レペルでも、「NGO事務局」の長には、市長とかねてから懇意のNGO団体の職員が就任し、そのNGOに近い住民グループがそっくりそのまま、清掃員や警備員として臨時職員として市庁舎で雇われている例は珍しくはない。つまり、政府組織と民間との垣根が低く、6年ごとの大統領選挙、3年に二度の地方選挙のたびに、政府とNGOとの間で人材の交換が行われるのである。
もちろん、こうした人事はしばしば、公平性の観点から批判を受けることもある。「あの大臣は自分がかつて勤務していた系列NGOばかりを優遇する」「某市のNGO事務局に出入りできる『NGO』はもっぱら市長のお抱え団体だ」--NGO業界内では、こうした噂話が日常的に交わされる。NGOが政治力をもつことが可能な社会においては、NGOの命運は、資金や組織力だけでなく、政治家や政府組織への属人的なネットワークに決定的に依拠する。これが、NGOによる政治活動に拍車をかける。選挙が近づくと、日頃の活動はそっちのけで選挙活動に邁進するNGO職員も多い。「あの政党が勝利すれば、我が団体の理事が社会福祉省の次官あたりに任命され、結果的に我が団体の提案も通りやすくなる……」と考えるのである。
こうしたNGOの政治化は、アメリカ型の官僚制度だけでなく、歴史的な左派運動とも大いに関連がある。86年の民主化後にNGOに転向した活動家らは、90年代前半の共産党の分裂を受けて派閥化した。その流れを受け、NGOもまた派閥化していった。もちろん、日本や他の国と同様にフィリピンの左派運動も70年代当時から、一枚岩としての政治的党派を築いていたわけではない。毛沢東主義に啓蒙されて農村でのゲリラ活動によって革命を目指していたグループもあれば、マルコス政権の人権弾圧に異議を唱えるグループ、貧困層に寄り添いながら国家の富の再配分の失敗やひいては社会システムの矛盾を批判するようになったカトリック教会の基礎共同体、そして後年のマルコス大統領の汚職を糾弾するグループまで、左派運動の出自はさまざまであった。そして、そのような経歴をもつNGO幹部らは、左派運動時代の大衆動員の手法をNGOの活動に転用したり、貧しい住民に対して啓蒙的な態度をとったりしがちである。実際にNGOは貧しい人びとの側から、「押しつけがましい」「中立ではない」として批判されることがある。
ここに、フィリピンNGOのジレンマがある。社会正義を標榜し、豊富な人材と人脈を駆使して政策提言を行ってきた彼らだが、政治に参画すればするほど、市民社会のエッセンスであるべき「国家からの中立」や「公正性」が侵犯されるという事態が生じるのである。
欧米の資金を基盤とした組織の絶対数の多さ、NGO業界を支える人材層の厚さ、そしてアメリカ型官僚制度に基づく政府との「人事交流」。民主化後、これらは長らくフィリピン市民社会の強みであった。しかし、フィリピンは世界の中でも東南アジアの中でも「中進国」となりつつあり、ミンダナオの紛争地域を除いては、すでにドナーも撤退しつつある。政治的不偏性や中立性、サービス受益者への説明責任という点において、フィリピンNGOは厳しい監視の目にもさらされている。
こうした政治条件は、NGO間の健全な競争に繋がるのだろうか。あるいは、政治社会と市民社会の両方で経験を蓄積した人材は、異なるセクター間の風通しの良さに貢献できるのだろうか。フィリピンのNGO業界もまた、新しい時代を迎えている。
東南アジア諸国においては、都市中間層や社会運動体、メディアなどから構成される市民社会の諸集団が、伝統的なエリー卜に対峙する存在として注目されてきた。フィリピンも例外ではなく、キリスト教会から左派組織、社会運動体、NGO、草の根の住民組織、メディアといった多様な市民社会のアクターが、今日まで、大きく二つの役割を担ってきた。
その一つは、サービスの提供である。国家による社会福祉サービスが十分ではない開発途上国では、国内外の民間団体が、政府に代わって社会的弱者への慈善事業を展開する例が多くみられ、こうした団体の多くはいわゆる「非政府組織(NGO)」と呼ばれる。
二つ目は抗議活動などの政治的活動である。毎年2月25日のエドサ革命記念日、5月1日の労働者の日、7月最終月曜日の大統領施政方針演説の日、その他、大規模な国際会議の前後にフィリピンの各地で繰り広げられる大規模な路上デモは、この国の風物詩となっている。
他の東南アジア諸国と比べ、フィリピンでは、「NGO業界(NGO Industry/ NGO Society)」という言葉があるほどNGOの絶対数が多い。フィリピン政府はNGOに対し、政治的にも経済的にも、活動制限を課すことはほとんどない。
フィリピンで「NGO業界」が発達した背景・理由としては二つのことが挙げられる。
第一は人材である。マルコス政権下では、高等教育を受けた20~30代(当時)の若者らがフィリピン共産党を中心とする左派運動と結びついた民主化運動に共鳴し、都市スラムや農村、山岳地帯の僻地に住み込みながら大衆動員の方法論を学んだ。1986年のエドサ革命後、これらの「学生運動世代」が一斉に社会に戻った際に、彼らの受け皿となったのがNGOであった。
第二は資金である。他の東南アジア諸国に先駆けて民主化を達成した1986年以降、欧米のドナーからのフィリピンヘの資金援助は激増した。国際社会の称賛を受けながら社会復帰を果たした「元活動家」らは、洗練された英語でフィリピンの社会問題を世界に向かって発信し、さらなる資金を呼び込んだ。彼らはNGOの幹部や理事に就任し、やがてはフィリピン社会のオピニオンリーダーになった。彼らをリーダーに据え、欧米からの潤沢な資金を受け取ったNGOは、多国籍企業や国際機関での職務経験があり、先進国の大学院で学んだ有能な職員を雇用してきた。フィリピンでは、国家公務員やフィリピン大学の教員よりもNGO職員の給与のほうが高い、という話は現在でもよくきかれる。
このようにフィリピンNGOは日本よりもはるかに人材の層が厚い。それに加えて、アメリカ型大統領制のもとでの官僚制度は、フィリピンのNGOをさらにユニークなものにしている。
アメリカ同様にフィリピンでは、選挙職によって任命される(いわゆる「政治的任命職」の)高級官僚、公務員の割合が高いため、大統領や知事、市町村長の采配によって、NGO経験者が一時的に公務員として採用されるケースは少なくない。エストラーダ政権下で農地改革大臣に任命されたホラシオ・モラレス、アロヨ政権とアキノ政権下で社会福祉開発大臣に任命されたコラソン・〝ディンキー〟・ソリマン、アキノ政権下で国家貧困対策委員長に任命されたジョエル・ロカモラらはいずれもNGO幹部の経験を買われて入閣した。彼らはそれぞれ、各省庁の№2や№3である次官や次官補に腹心のNGO職員を任命する。いうなれば、市民社会の組織が政治社会に一時的に「出向」する形になる。日本では想像しがたいことであるが、これも先述の通り、NGO人材の相対的な優秀さに起因する。NGO職員が突然に閣僚や高級官僚に任命されて行政職をつかさどることができるのだから不思議である。地方自治体レペルでも、「NGO事務局」の長には、市長とかねてから懇意のNGO団体の職員が就任し、そのNGOに近い住民グループがそっくりそのまま、清掃員や警備員として臨時職員として市庁舎で雇われている例は珍しくはない。つまり、政府組織と民間との垣根が低く、6年ごとの大統領選挙、3年に二度の地方選挙のたびに、政府とNGOとの間で人材の交換が行われるのである。
もちろん、こうした人事はしばしば、公平性の観点から批判を受けることもある。「あの大臣は自分がかつて勤務していた系列NGOばかりを優遇する」「某市のNGO事務局に出入りできる『NGO』はもっぱら市長のお抱え団体だ」--NGO業界内では、こうした噂話が日常的に交わされる。NGOが政治力をもつことが可能な社会においては、NGOの命運は、資金や組織力だけでなく、政治家や政府組織への属人的なネットワークに決定的に依拠する。これが、NGOによる政治活動に拍車をかける。選挙が近づくと、日頃の活動はそっちのけで選挙活動に邁進するNGO職員も多い。「あの政党が勝利すれば、我が団体の理事が社会福祉省の次官あたりに任命され、結果的に我が団体の提案も通りやすくなる……」と考えるのである。
こうしたNGOの政治化は、アメリカ型の官僚制度だけでなく、歴史的な左派運動とも大いに関連がある。86年の民主化後にNGOに転向した活動家らは、90年代前半の共産党の分裂を受けて派閥化した。その流れを受け、NGOもまた派閥化していった。もちろん、日本や他の国と同様にフィリピンの左派運動も70年代当時から、一枚岩としての政治的党派を築いていたわけではない。毛沢東主義に啓蒙されて農村でのゲリラ活動によって革命を目指していたグループもあれば、マルコス政権の人権弾圧に異議を唱えるグループ、貧困層に寄り添いながら国家の富の再配分の失敗やひいては社会システムの矛盾を批判するようになったカトリック教会の基礎共同体、そして後年のマルコス大統領の汚職を糾弾するグループまで、左派運動の出自はさまざまであった。そして、そのような経歴をもつNGO幹部らは、左派運動時代の大衆動員の手法をNGOの活動に転用したり、貧しい住民に対して啓蒙的な態度をとったりしがちである。実際にNGOは貧しい人びとの側から、「押しつけがましい」「中立ではない」として批判されることがある。
ここに、フィリピンNGOのジレンマがある。社会正義を標榜し、豊富な人材と人脈を駆使して政策提言を行ってきた彼らだが、政治に参画すればするほど、市民社会のエッセンスであるべき「国家からの中立」や「公正性」が侵犯されるという事態が生じるのである。
欧米の資金を基盤とした組織の絶対数の多さ、NGO業界を支える人材層の厚さ、そしてアメリカ型官僚制度に基づく政府との「人事交流」。民主化後、これらは長らくフィリピン市民社会の強みであった。しかし、フィリピンは世界の中でも東南アジアの中でも「中進国」となりつつあり、ミンダナオの紛争地域を除いては、すでにドナーも撤退しつつある。政治的不偏性や中立性、サービス受益者への説明責任という点において、フィリピンNGOは厳しい監視の目にもさらされている。
こうした政治条件は、NGO間の健全な競争に繋がるのだろうか。あるいは、政治社会と市民社会の両方で経験を蓄積した人材は、異なるセクター間の風通しの良さに貢献できるのだろうか。フィリピンのNGO業界もまた、新しい時代を迎えている。