環境社会の歴史哲学
20世紀の真ん中に生まれて、変革の時代を生きてきた。それからすると、当然、変わるはずだという感覚はあります。だけど、身の回りを見ると、ほとんど、何も変わっていない、変えたくない、ツールだけが変わっている、そういう時代です。
それが故に、閉塞感に埋まっている。個人的なレベルで勝手に方向を決めている。もっと、大きな流れでどうしていくのかは、表に出てこない。
それを考えるのが、多分、歴史哲学でしょう。その歴史哲学の一つのキーワードは環境社会でしょう。有限を前提とした社会で、皆が従う社会ではなく、考える社会です。それをイメージして、先人は道具を作り上げてきた。道具とネットワークだけではおもちゃになるだけです。環境哲学から考えていくしかないでしょう。
それを知りたくて、ずっと考えてきた。16000冊の本、哲学にも行ってしまった。そこで、色々なキーワードを見つけてきたり、作ったりしています。それらを集めて、一つの体系にしていく。
一つの体系がいいのは、それができれば、色々起こってくることをその中に位置づけして、体系を変えるなり、取り込むなり、捨てることができます。自分の目、そのモノになります。目をなるべく、シンプルのさせるためには、全てを蓄えないといけない。だから、ストックの情報も必要になってきます。必要なのは、全体を見えるようにする。
国民国家の破たん
国民国家としてやってきたものは、それは国と国民の契約という側面と民族的に自分たちを自立させることであった。社会主義の終焉において、グローバリズムとナショナリズムという二つでもって、国民国家は変質してきた。
国家ありきと部分が、国家と国民の契約の部分が変わってきた。国が契約に基づいて、分配することが不可能になってきた。グローバリズムというのは、国という単位がいかに、あやふやなモノかを示した。ナショナリズムからすると、国という単位で押し切れない状態になってきた。アフリカなどでは部族でまとまるのが一番いい。
日本のように、一億人が同じだと思っている、幻想の世界だけではない。東ヨーロッパの集まりは、偶々なカタチになっている。移民も含めて、色々な形態が出てきた。
国民国家の空間
数学で行くと、空間上に次元の呪いが出ている。一つのところは、小さくまとまるが、大きくすると、それぞれ、次元の異なるものがバラバラにあって、そこでの常識が異なっているという世界です。これは国民国家という、デカルト平面では考えることができない世界です。
その意味では、20世紀はナチの国家社会主義も含めて、国民国家という単位で、ナショナリズムで国家という形態でまとめてきた。国民はその枠の中で、自分たちを発揮させてきた。座標系が一番、重要である。
その典型が組織というものです。メンバーを自分たちで決めて、その中で組織化していく。座標系に従って、上から下への命令形にしていく。その座標系では、幸せよりも効率化が優先される。効率で出てきた利益をメンバーに分配させる。分配の仕方が社会主義と資本主義で分かれる。
国家は人権を保障するという契約の元に成り立っている。国家が衰退すれば、人権も侵される。逆に、自分たちが戦って、国が豊かになる。
ナショナリズムと一緒でないところは、それで明確にできる。日本のようにナショナリズムと一緒になっているところは、国と国民が一蓮托生に世界を作り上げていく。ナチズムがその典型になっている。人が土着性を持っているので、移民が国と国民の関係を変えていく。
国と国民の契約形態が荒くなってきている。国家の枠を変えていく、バーチャル化に向かうことになる。そうなると、国家はいくつも出来てくる。国家の分化です。制御を上からでなく、下からやっていって、それを契約という関数で表していく。それによって、東ヨーロッパの諸国が制御できます。EUにそれだけの想像力があるかどうかわからないけど。東ヨーロッパは民族を後付けするしかない。偶々住んでいるところではなく、帰属意識を持っている民族性をバーチャルなキーにしていく。
国家が解体することと、地域が解体することは別です。地域はいくらでも、新しいつながりができます。ギリシャも都市国家の集まりとすることです。ギリシャという共同体を作った上で、EUに帰属するのか、トルコを中心として地中海連合にのっかかるかを決めていけばいい。都市国家にしても、アテネとスパルタでは大きく異なります。ペロポネソス戦争がそれを表している。ペルシャという、共通の敵がいなくなった途端に、戦いが勃発している。そして、カルタゴのように、攻撃される前にローマを攻撃して、そして、滅ぼされた。地中海そのものを共同体にした方がはるかに平和になります。
それぞれの役割を持って、その役割を決めるのは、ローカルの人たち、バーチャルを含めた人たちが決めていくしかない。人権を守ると同時に、生活を守るために。
20世紀の真ん中に生まれて、変革の時代を生きてきた。それからすると、当然、変わるはずだという感覚はあります。だけど、身の回りを見ると、ほとんど、何も変わっていない、変えたくない、ツールだけが変わっている、そういう時代です。
それが故に、閉塞感に埋まっている。個人的なレベルで勝手に方向を決めている。もっと、大きな流れでどうしていくのかは、表に出てこない。
それを考えるのが、多分、歴史哲学でしょう。その歴史哲学の一つのキーワードは環境社会でしょう。有限を前提とした社会で、皆が従う社会ではなく、考える社会です。それをイメージして、先人は道具を作り上げてきた。道具とネットワークだけではおもちゃになるだけです。環境哲学から考えていくしかないでしょう。
それを知りたくて、ずっと考えてきた。16000冊の本、哲学にも行ってしまった。そこで、色々なキーワードを見つけてきたり、作ったりしています。それらを集めて、一つの体系にしていく。
一つの体系がいいのは、それができれば、色々起こってくることをその中に位置づけして、体系を変えるなり、取り込むなり、捨てることができます。自分の目、そのモノになります。目をなるべく、シンプルのさせるためには、全てを蓄えないといけない。だから、ストックの情報も必要になってきます。必要なのは、全体を見えるようにする。
国民国家の破たん
国民国家としてやってきたものは、それは国と国民の契約という側面と民族的に自分たちを自立させることであった。社会主義の終焉において、グローバリズムとナショナリズムという二つでもって、国民国家は変質してきた。
国家ありきと部分が、国家と国民の契約の部分が変わってきた。国が契約に基づいて、分配することが不可能になってきた。グローバリズムというのは、国という単位がいかに、あやふやなモノかを示した。ナショナリズムからすると、国という単位で押し切れない状態になってきた。アフリカなどでは部族でまとまるのが一番いい。
日本のように、一億人が同じだと思っている、幻想の世界だけではない。東ヨーロッパの集まりは、偶々なカタチになっている。移民も含めて、色々な形態が出てきた。
国民国家の空間
数学で行くと、空間上に次元の呪いが出ている。一つのところは、小さくまとまるが、大きくすると、それぞれ、次元の異なるものがバラバラにあって、そこでの常識が異なっているという世界です。これは国民国家という、デカルト平面では考えることができない世界です。
その意味では、20世紀はナチの国家社会主義も含めて、国民国家という単位で、ナショナリズムで国家という形態でまとめてきた。国民はその枠の中で、自分たちを発揮させてきた。座標系が一番、重要である。
その典型が組織というものです。メンバーを自分たちで決めて、その中で組織化していく。座標系に従って、上から下への命令形にしていく。その座標系では、幸せよりも効率化が優先される。効率で出てきた利益をメンバーに分配させる。分配の仕方が社会主義と資本主義で分かれる。
国家は人権を保障するという契約の元に成り立っている。国家が衰退すれば、人権も侵される。逆に、自分たちが戦って、国が豊かになる。
ナショナリズムと一緒でないところは、それで明確にできる。日本のようにナショナリズムと一緒になっているところは、国と国民が一蓮托生に世界を作り上げていく。ナチズムがその典型になっている。人が土着性を持っているので、移民が国と国民の関係を変えていく。
国と国民の契約形態が荒くなってきている。国家の枠を変えていく、バーチャル化に向かうことになる。そうなると、国家はいくつも出来てくる。国家の分化です。制御を上からでなく、下からやっていって、それを契約という関数で表していく。それによって、東ヨーロッパの諸国が制御できます。EUにそれだけの想像力があるかどうかわからないけど。東ヨーロッパは民族を後付けするしかない。偶々住んでいるところではなく、帰属意識を持っている民族性をバーチャルなキーにしていく。
国家が解体することと、地域が解体することは別です。地域はいくらでも、新しいつながりができます。ギリシャも都市国家の集まりとすることです。ギリシャという共同体を作った上で、EUに帰属するのか、トルコを中心として地中海連合にのっかかるかを決めていけばいい。都市国家にしても、アテネとスパルタでは大きく異なります。ペロポネソス戦争がそれを表している。ペルシャという、共通の敵がいなくなった途端に、戦いが勃発している。そして、カルタゴのように、攻撃される前にローマを攻撃して、そして、滅ぼされた。地中海そのものを共同体にした方がはるかに平和になります。
それぞれの役割を持って、その役割を決めるのは、ローカルの人たち、バーチャルを含めた人たちが決めていくしかない。人権を守ると同時に、生活を守るために。