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未唯への手紙

未唯への手紙

ソクラテス・プラトン年譜

2013年10月04日 | 1.私
『饗宴』より ⇒ ソクラテスとアテネの盛衰は一致しますね

紀元前四六九年

 ソクラテス、アテネのアロペケ区に生まれる。父ソーフロニスコスは石工あるいは彫刻家であったと伝えられる。母ファイナレテは助産師であった。若いころのソクラテスの姿を伝える証言は少ない。一説では、自然哲学の研究に関心を持っていたという。やがて、デルフォイ神殿の神託が下ったことをきっかけに対話活動を開始するが、これがいつごろのことなのかは不明。

紀元前四六一年 ソクラテス八歳

 前年に政敵キモンの追放に成功した政治家ペリクレスは、この年からアテネの政治の実権を掌握する。ベリクレスは平和政策を実施するとともに、パルテノン神殿をはじめとする数々の建築物を完成させ、都市整備をすすめた。また、芸術と文化を振興した。これらの政策により、アテネは黄金期を迎える。

紀元前四四九年 ソクラテス二○歳

 アテネがペルシャ帝国と和睦を結び、ぺルシャ戦争が終結する。

紀元前四三二年 ソクラテス三七歳

 ソクラテス、デロス同盟を破ったポテイダイアの包囲戦に参加する。

紀元前四三一年 ソクラテス三八歳

 スパルタとの間にペロポネソス戦争が勃発。翌前四三〇年には、アテネに疫病が流行する。ディオティマが一〇年もの間、食い止めたと言われている疫病である。ベリクレスもこの疫病で死去する。このころから、アテネは次第に衰退に向かっていった。

紀元前四二七年 ソクラテス四二歳

 プラトン、アテネに生まれる。父はアリストン、母はペリクティオネ。父母ともにアテネの名門出身であった。

紀元前四二四年 ソクラテス四五歳 プラトン三歳

 ソクラテス、ボイオティア地方デリオンでの戦闘に参加する。この戦いにおけるソクラテスの様子は、本書一八三~一八四頁に描写されている。

紀元前四二三年 ソクラテス四六歳 プラトン四歳

 アリストファネスの喜劇『雲』が上演される。この作品はソクラテスをソフィストとして揶揄する内容であり、この頃には、ソクラテスはすでに、保守的な人々から警戒されていたと考えられる。

紀元前四二二年 ソクラテス四七歳 プラトン五歳

 ソクラテス、スパルタ軍に占領されたアンピポリス奪還のための遠征軍に参加する。

紀元前四一五年 ソクラテス五四歳 プラトン一二歳

 この年の夏、ヘルメス神の石柱像が酔っ払いの集団によって壊される事件が発生。アルキビアデスに疑惑の目が向けられる。その後、アルキビアデスは、艦隊の指揮官としてシシリー島遠征に出発するが、到着後、帰国命令が出たことから、スパルタに亡命する。アテネは、その後、数年にわたり遠征を継続するが、敗北し、前四一三年に撤退する。

紀元前四〇七年 ソクラテス六二歳 プラトン二○歳

 この頃、プラトンがソクラテスに弟子入りしたといわれる。一説では、プラトンは、悲劇のコンテストに参加しようとしていたが、ソクラテスの言葉に感動して、自分の作品をすべて焼き捨てたという。ただし、じっさいには、プラトンの親戚や兄がソクラテスと親しく交際していたことから、プラトンも、これ以前からソクラテスを知っていたと考えられる。

紀元前四〇四年 ソクラテス六五歳 プラトン二三歳

 この年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終結する。プラトンの親戚のクリティアスやカルミデスらにより、独裁政権が樹立される(翌年に崩壊)。このとき、ソクラテスは独裁政権に、サラミスのレオンという人物を逮捕するように命じられるが、これを拒否する。また、アルキビアデスが、小アジアで暗殺される。

紀元前三九九年 ソクラテス七〇歳 プラトン二八歳

 ソクラテス、民主派のアニュトスを後ろ盾とするメレトスなる若者に、不敬罪および青年に害を及ぼした罪で告発される。裁判が行なわれ、死刑判決が下される。二月あるいは三月頃に刑死する。

 その後、プラトンはアテネを逃れ、各地を遍歴した。この間に初期対話篇が執筆されたと考えられる。

持続において思考する例(その四:言葉)

2013年10月04日 | 1.私
『ベルクソン哲学の遺言』より 哲学の目的

知性は、物質に対して有用に働きかける能力だから、それに必要な態度なら何でも取る。動きのなかに静止を、変化のなかに不動を、時間のなかに空虚な空間を、持続のなかに状態の並置を持ち込むのは、言わば知性の真面目な仕事である。その知性は、精神のなかにある。精神が、精神自身を振り返って観る時にはどうだろう。その時も、精神はやはり知性なのだろうか。ベルクソンは言う。「人は、自分が望む名を、ものに与えることができる。繰り返して言うが、精神による精神の認識を、もし人がその名に執着するのなら、相変わらず知性と呼ぶことに、私は大した不便を感じない」と。

けれども、その場合には、互いに反対の向きにあるふたつの知的機能があることを、はっきりさせなくてはならない。ひとつの機能は、物質に向かい、もうひとつは精神に向かう。ひとつが物質を利用するために取る思考方法を、もうひとつは逆向きに遡っていかなくてはならない。後者の働きを「知性」と呼ぶことは、習慣上なされてこなかったから、私はこれを「直観」と呼ぶことにした。ただ、それだけのことだ、とベルクソンは言う。精神は、いやでも物質を追う。が、物質を追うその精神を、やはり精神自身が追うということがあるのだ。ふたつは、逆向きの歩みを辿るほかない。

〈物質を追う知性〉は、運動や変化を、そうでないものに置き換えることで、ものを考える。〈精神を追う知性〉、つまり直観は、〈物質を追う知性〉が普段実行し続けていることを、いつも前提にし、明確にし、しかも、それを逆向きに辿る。だから、そのような直観は、言わば「追加的注意」となって働くしかないとも言える。[この追加的注意は、方法的に耕すことも、発展させることもできる。こうして精神の科学が、宣]の形而上学が、形成されるだろう。これは、私たちが物質について知っていることすべてを、ただ精神に関しては単に否定するのではない。精神は積極的に定義されるだろう」。

物質的ならざるものが精神だと言ったところで、何の意味もない。が、過去の形而上学は、しばしば、これ以上のことを精神について述べていないのである。恪の、あるいは不正確な形而上学は、否定の論理しか持っていない。当然のことだろう。〈物質を追う知性〉が精神を追えば、そこには物質の性質がくない〉ことを、あれこれ込み入った理屈で言っしかない。そこで働いているのは、依然として物質向きの知性である。

精神を積極的に定義すれば、どういうことになるか。たとえば、私たちはベルクソンが「記憶」や「記憶内容」をどのように定義したかを見た。この定義のためには、当時の精神生理学や精神病理学の実験的な照明は、不可欠なものだった。彼は、この照明を、言わば光源に向かって遡り、その光源の向こうにまで跳躍したのである。ここから、知的な諸機能の実際の究明が次々に為された。「観念連合」、「抽象作用」、「一般化作用」、「解釈作用」、「注意作用」などの検討が、一貫した方法で、はっきりと為された。また、潜在的な「記憶」の実在は、精神科医フロイトが、臨床的に提出した「無意識」の実在、という仮説と、やがて驚くべき対応を見ることになった。

まさにベルクソンの「直観」という方法、「持続において思考する」方法は、純粋な科学や知性の方法に向かって見事な対称形を描きながら、一貫していた。

精神に向かう精神の注意を、ふたつめの「知性」と呼ぼうが「直観」と呼ぼうが、そういうことはどうでもいい、とベルクソンは言っていた。彼は、本気でそう言っているのである。ここには、〈哲学の言葉〉というものに対するベルクソンの根本の態度がある。彼は、自分が使う用語を、著書のなかであれこれ定義してみせるが、そんな定義は彼自身によってさほど重んじられてはいない。求められるから、一応の説明をする、そんなことに過ぎなかった。すると、ベルクソンの使う「直観」という用語には、何通りの意味があるとかないとか、またそこには矛盾があるとかないとか、そんな専門家ふうの議論になる。彼が最も嫌った言葉の遊びである。

はっきりしているのは、言葉の在り方もまた「持続において思考する」のでなくては、決して捉えられないということだ。話すことは、単語にある語義を足し合わせて文の意味に行き着くことではない。単語とか、その語義とかいうものは、話す行為それ自体にとっては、ほんとうは存在していない。語や語義は、話し終わったあとの言葉の分析から引き出されてくる。ベルクソンにとっては、言葉とは一種の運動であり、運動が持つリズムの力それ自体と言ってもいいものだ。

LINE的なコミュニケーション

2013年10月04日 | 5.その他
LINE的なコミュニケーション

 メールをラインのように使っています。一行ぐらいしか書きません。「やはり、現在の状況を教えてください。」⇒「15:30までであれば大丈夫です。」⇒「では、行ってます。」/「とりあえず送ります。」⇒「ありがとうございます。印刷はしません。」/「14時から15分ほど時間ありますか?」⇒「状況はわかりました。手伝えることはありますか?」

 多分、LINEの良さは、短いということです。メールのような余分なものは要らない。リテラシーもエチケットもいらない。

 ブログとか、ツイッターでは、コミュニティにならない。ポータルのChatterでLINE的なコミュニティをグループ設定とテーマで行えるかの実験を行っていきます。

 その時に、同じ意思を持った、グループが必要だが、現在のメンバーにそれを理解させるのに、時間はかけられない。個人の分化により、3人ぐらいにして、その間でのChatterを試します。本当はSFDCにも参画してもらい、LINEを超える、情報共有のサンプルにしてほしい。

 今のChatterがコミュニティとして、役に立つのか、SNSが本当に、情報共有として、コラボレーションとして使えるのか、使えるSNSの要件は何なのか。そのための仕掛けをどうするのか。

 販売店に提示するレベルまでにしておきます。そう考えると、パートナーのような強力なファシリテーターが必要です。

日本での位相化革命

 企業も、今やっている努力が、環境社会では有害であることを認識したうえで、そちらの集まりに賛同する。軍隊よりもはるかに強力な力を持っています。人・モノ・金・情報を持っています。

 それをデモなどの生身で賛同するのは難しい。だから、論理的なところからやっていくカタチになるでしょう。東京でデモすればいいということではない。東京はゴミの集まりです。地方から、自分たちの独立を求める力の方が、位相化には必要です。

 その時に、コミュニティと情報共有は大きな武器になります。それと個人の分化です。個人が参画する意思と自由を持たないといけません。

 革命を2015年までに準備することです。2030年まで掛けて、成就すれば、2050年の変節までに間に合います。

個人の分化が出発点

 歴史を学ぶと同時に、哲学を学ぶことで、自分たちの自由度を確保できる。今あるものが、いかにつくられたものかどうか。それらは、壊しうることであり、壊していいモノであり、壊すものであることが個人の分化の出発点です。それが環境社会の哲学、現象学、そして、存在の力を発揮するものです。

全体の枠組み

 パートナーの全体の枠組みを見ていても、自分の考えにも、言葉にもなっていない。環境社会が先にあるということ、社会保障と税金の関係、そして、公平性とか公共性を含めてやるだけでも、もう少し具体的なロジックはできてきます。あくまでも、これは具体性だけであって、真の部分は違います。

 真の分はロジカルとして、哲学として、数学としてやります。そこから出てきたのは、社会の位相化です。

無責任体制の中の個人

2013年10月03日 | 7.生活
『いまを生きるための政治学』より 政治はどのように展開されるのか 目の前の不条理と戦う

組織において外形的な忠誠が強調され、同調主義が広がると、内側からの自己変革を押し殺すことを説明した。そのような組織においては、丸山笑男の言う「無責任体制」が蔓延する。無責任体制とは、丸山が満州事変以降の日本の戦争遂行の過程を分析する中で考之出した概念である。日本において戦争責任の追及が困難な理由として、当時の指導部には計画性と指導力が欠如していたことがあげられる。大きな策略もなければ、決定した主体もいないという状態のまま、日本は戦争の深みにはまっていった。丸山は、なぜそんなことが起こったのかを考察した。

丸山は、日本の軍国主義指導者の特徴として、既成事実への屈服と権限への逃避の二つをあげる。前者については、すでにエセ現実主義という態度を説明する中で触れた。つまり、出来上がった現実を不動の前提として、それ自体には手を触れないという態度である。仮にそれが誤った現実でも、それを是正するという主体的な作為の契機は存在しない。たとえば、満州事変以降の大陸侵略は、段階的に進められた。侵攻が深まれば、その都度それが現実とみなされ、その上に次の政策が考えられる。事態を巻き戻して、平和の状態に戻るとか、戦争の拡大を回避するという政策は、そこから生まれてこない。

指導者が既成事実に屈服するということは、形式的な指揮命令権を持つ支配者が、実際には権力を行使できない、あるいはしないことを意味する。既成事実を作りだすのは、戦争の場合で言えば、現場、末端の士官である。下剋上を抑えきれないまま、指導部は現場の無法者が作り出す新しい現実に引きずられ、事態は悪化の一途をたどる。故に、指導力不在の空間で、戦争という事実が拡大していった。

権限への逃避とは、役人根性とも言い換えられる。これは、能動性の欠如、主体性の放棄という点で、既成事実への屈服とつながっている。軍国日本の指導者は、形式上権力者でありながら、政策の選択肢について考え、最終的に自分で決定するという主体性を持だない。外形上決定する地位にいる指導者も、下の人間が用意した決裁の書類に捺印するという手続的、形式的な作業として、決定という作業をとらえている。そして、政策決定の結果が大失敗に終わっても、形の上で決定に参与したので、自分には実質的な責任はないと抗弁する。これが、権限への逃避である。

政治家と官僚の関係に関連させて考えれば、権限への逃避とは政治家の自己否定と言うこともできる。政策の選択肢について考えをめぐらせ、決定の準備をするのは官僚の仕事である。官僚の仕事はそこまでなので、政策決定について責任を問われることはない。政治家は本来、政策の選択肢を自分なりに比較、検討し、最終的に一つの選択肢を選ぶ、決定するという作業を担うとされてきた。その結果が成功に終われば、政治家は称賛を受け、国民から感謝される。失敗に終われば、責任を追及され、国民から制裁を受ける。それが政治家たる者の宿命である。政治家が権限に逃避するとは、決定という最も重要な作業を放棄し、自分を飾り、あるいは操り人形に既めることを意味する。

丸山によれば、軍国日本は、小心翼々たる役人根性しか持たない軍人が、国家の上層部にひしめき、国を動かした体制であった。国が破滅したのち、そのことに対する責任を問われて、日本では誰ひとり自分の判断によってこのような帰結をもたらしたと認める者は現れなかった。その点がナチスドイツの指導者との大きな違いであった。もっとも、ドイツでも役人根性をむき出しにして責任を逃れようとした戦犯は存在した。強制収容所にユダヤ人を鉄道輸送する作業の責任者であったアドルフーアイヒマンは、戦後、逃亡先のアルゼンチンで捕えられ、イスラエルで裁判にかけられた。この時、自分は命令に従っただけだと抗弁した。権限への逃避は、責任を逃れようとする人間の常套手段である。ドイツの哲学者ギュンター・アンダースは、アイヒマンの息子に公開書簡を送り、アイヒマン問題を次のように定式化している。ここで言う彼らとは、アイヒマンに代表される巨大な罪を犯した小心な官吏である。

 彼らが自分自身をもはや機械の部品としてしか見なかった。

 彼らは機械の存在とすぐれた機能を機械を正当化するものだと誤解した。

 彼らは幾重もの壁によって最終的効果から隔てられ、自分の専門職の「囚人」であり続けた。

 彼らはこの最終的効果が法外な大きさであるために効果を想像することができず、また自分の仕事の間接性のために、自分がその抹殺にかかわっている大量の人間を知覚できないようになっていた。

多数とは誰のことか

2013年10月03日 | 1.私
『いまを生きるための政治学』より 政治に参加するということ

政策を決定するのは多数決によるとして、では人々はどのようにして多数と少数に分かれるのであろうか。あるいは、多数派というまとまりは、どのようにして形成されるのであろうか。

政治における多数のまとまりは、社会における利害や立場の分化に対応することがある。ヨーロッパであれば、カトリックとプロテスタントという宗教的分岐や言語、民族といった単位でまとまりができることもある。一九世紀以降、資本主義経済の発達とともに貧富の格差が拡大してくると、先進国では経済的な力の大小が、まとまりを規定するようになった。労働者は、労働組合を結成し、それを基盤とした左派政党を作り、再分配を求めた。他方、経営者や富裕層は保守的政党を支持した。そして、この二つの勢力が多数を求めて競争するようになった。これが二大政党制あるいは二極的政党システムの基本形である。

しかし、富裕層の人数と労働者の人数が政治の世界でそのまま多数決に反映されるわけではない。いつの時代にも、常に富裕層は少数であり、労働者は多数である。しかし、どこの国でも保守的政党が支配する時代の方が長い。人は、所得水準によって政治的なまとまりを作るとは限らない。

その一つの理由としては、二〇世紀後半という時代には、各国で中間層が形成され、単純な階級対立の図式が崩れたことが挙げられる。中間層に属する人々の中には、ある程度の財産を持ち、富裕層と同じような政治意識を持つ者も出てきた。

では、グローバル金融資本主義の展開によって、格差が再び拡大し、中間層が分解するようになった二〇世紀末から二一世紀初頭にかけてはどうであろう。一般の労働者の賃金は下がる一方で、金融機関の経営幹部は日本円で数十億円の報酬を得て、その上彼らが投機に失敗して金融危機が発生すると、国民の税金によって金融機関は救済される。金融経済の暴走に抗議するアメリカの市民運動、ウォールストリート占拠では、「九九対一」というスローガンが叫ばれた[『オキュパイ? ガゼット』編集部二〇一二]。グローバル金融資本主義の中で富を得るのは国民の一%で、九九%は犠牲を強いられるという意味である。実際に統計が示すとおり、上位階層への富の集中は進んでいる(図2-1)。この運動は、二○一二年の大統領選挙で再選を目指したオバマに大きな影響を与えた。そして、オバマは中関層の復活を公約に掲げた。しかし、同時に選挙が行われた下院では、共和党が多数を占めている。共和党は金持ち優遇減税の廃止に強硬に反対し、財政赤字削減をめぐる議論はデッドロックに陥っている。

九九%の人々が現状を理解し、富の集中に怒り、金融の暴走に規制をかける政策に賛成すれば、政治の世界では圧倒的に勝利できるはずである。では、なぜ実際にはそうならないのであろうか。客観的な階層所属と、主観的な自己認識の間にずれがあるということは一つの説明である。実際には貧しくても、富裕層になれるという幻想を持っている人もいるであろう。

より大きな問題は、金融機関の無軌道、無責任に怒るという共通の前提から出発しても、九九%の中で異なる主張に分化するという現象が起こる点である。民主党リペラル派の政治家は、金融機関に対する規制の強化と、社会保障を通じた労働者への再分配を主張する。これに対して共和党は、金融機関救済のための公的支出の拡大を批判する。そして、社会保障の縮小や減税を主張する。

人間は自分の置かれている経済的状況を正確に理解することは困難であり、それを改善するための理路は複数あって、どれが正しいかはすぐにわからない。日本の例を取るなら、一九九〇年ごろから生活者というシンボルがしばしば使われるようになり、生産、供給者に対する保護を撤廃することが、価格の低下をもたらし、生活者の利益を増進すると言われてきた。確かに、規制緩和や投資の自由化で、安い製品が国内市場にあふれるようになった。しかし、同時に賃金も下落している。生活者のための政策が、必ずしも生活を楽にしているわけではないのである。「官と民」、「生産者と消費者」、「高齢者と若年層」など、同じように生活をしている人々を分けるシンボルが政治の中で飛び交う。そうした言葉の中からどれかを選んで、人は自分の所属するまとまりを決める。

だから、九九%を一つの政治的主張にまとめることは実は困難な作業である。また、自由で競争的な民主政治の中では、様々な主張、集団が、多数の支持を求めて出現するものである。それは民主政治の宿命である。それを前提としたうえで、政策的主張をするときには、少しでも多くの人々の共感を獲得できるような言葉と運動のスタイルを見つけることが必要となる。

ポータル検討での疑問点

2013年10月03日 | 5.その他
キーワードについて

 国民国家は従来の体制のキーワードですね。キーワードだけで、要約が理解できることを定義にしましょう。キーワードが一緒なら、項目のイメージは同じはずです。キーワードを原因なのか、結果なのか、要素なのか。

パートナーの問題意識

 問題が伝わっていないのと、意識が伝わっていないのと、その証明が中途半端です。だから、いくらでも突っ込まれるけど、何も言えない状態だということです。言えないのが問題です。

 自信がないなら、自信がないで、どうやって行くかを決めないといけない。

ポータル検討

 ESBの機能で、従来システムとつなげるが、内容と制約がわからない。

 パートナーからの指摘事項としては、ロールという言葉は使わない方がいい。

 コラボレーションでは、グループの設定が重要。チャッターとお知らせの使い分けがどうなるのか。

 Iフレームは既存の情報系以外に何に使うのか。使う時に設定だけでは済まない。むしろ、移行をどうするかです。

 「SFDC標準画面のために、デフォルトで表示されているボタンの非表示が不可」ここをどうするのか。なるべく、シンプルで分かり易いものにしていく。

 検索するためのコンテンツの範囲。どういうケースがあるのか。検索エンジンはChatterと同じレベルなのか。具体的なモノが見えない。範囲の絞込みがどうなっているのか。

 検索時に、ファイルの題名でもってくるが、メッセージのテキストは対象にできているのか。

 アップロードの整理の仕方。クラウドだから、ファイルだけでしかできないというのは、言い訳にもなっていない。Chatterにアップロードされているファイルを選択する場合、Chatterはグループ単位です。

 グループ単位のものと全体のものをどう関係づけていくのか。これが、サファイア循環と同じ問題になる。ということは、ここで具体的に対策出来れば、サファイア全体に展開できる。

 Chatterでグループを設定したものと、全体との整合性をどう持って行くのか。Chatterはライブラリとメッセージが一緒になっています。ポータルはライブラリは別になっています。どのように、ライブラリから、お知らせとかChatterにつなげるか。

 お知らせの「カテゴリー」の観点も分かっているのか。表面だけでは機能しない。どうしたら、目的にかなったポータルができるのか。まだまだ、足りない。とりあえず、現状をやっただけです。知識と意識のコミュニティにも、情報共有のイメージが見えてこない。

ICレコーダーの指向性マイク

 このICレコーダーの志向性マイクはかなり、上等です。もっと、静かなら、使えます。

エクソダスという言葉

 エクソダス、昔、これに憧れました。モーゼの出エジプト記、毛沢東の長征、そして、イスラエルへの帰還の船の名前です。

 研究開発部署で使った、MACとUNIXをつなげてしまうソフトの名前です。Exodus。

ネット社会と「顔の見える地域社会」

2013年10月02日 | 3.社会
『ネット時代の地方自治』より

ネットが浸透する現代社会は、常に、しかもすさまじいスピードで自己変革を遂げており、誰もその変化の先を予測できない。「LINE」は、携帯電話を軸とした24時間、いつでも、どこでも、無料で好きなだけ通話やメールが楽しめる新しいコミュニケーションアプリだ。この「LINE」が最近急速に利用者を増やし、フェイスブックを脅かすまでになっているのはよい例だろう。これまでも見たように、ネットコミュニティは、人々の社会関係資本に正の影響を与え、地理的制約を超えた助け合いを促すこともあれば、人間関係に影を落とし、ネット上のいじめのように、被害者をとことん追い詰め、破局に導くこともある。

ネットコミュニティは、匿名でバーチャルな世界であるという本質を変えることはできないだろう。人間は、生身の肉体を持ち、五感を統合しながら世界と向き合っている存在だ。そうであれば、ネットコミュニティにのみ身を置くことは、人間という存在にかなり深刻な影響を与えるのではないだろうか。

顔見知りの間で行われている日常的コミュニケーションは、やはりかけがえのないものである。そのことの価値を今一度再評価し、回復させていくことが求められている。地域の中のある場所で、実際に会い、言葉を交わす世界はリアルなものだ。だから、地域におけるコミュニケーションを活発にすることは、バーチャルな世界からリアルな世界への回帰を意味する。自治体が、自分からサービスを提供してほしいと名乗り出てくる人々のみを相手にするのではなく、古くから期待されてきたように、地域内に「生活の本拠」を有するすべての住民に対して誠実に向き合おうとするなら、自治体のトップと職員は、個人と他者との関係性やコミュニケーションのあり方に常に関心を払っておく必要があろう。広い意味でのコミュニティのありようがどのような様相を呈しているのか、どのように変貌しようとしているのかについてのイメージを持っておくことは、地方自治の重要なアクターである自治体の関係者にとり、とても大切なことだと私は思う。

ネット時代の日本の地域社会は、現実の世界においては、地域、職場、社会的目標、哲学、価値観、趣味、嗜好などを単位とするコミュニティがあり、その一方でネット上では、現実のコミュニティと関係があり、あるいは全く無関係なネットコミュニティが無数に存在し、変容し続けていると言うことができる。大事なことは、全体を見ることだ。ネットコミュニティや「ネット世論」の動向ばかりに気を取られていると、現実から遠ざかるおそれがある。ネット社会が将来破滅的な災厄を人類に与え、あるいは極端な復古主義者が権力を握ってネットワークをことごとく破壊し尽くすようなことがない限り、全面的に「顔の見える世界」が復権することはないだろう。逆に、ネット社会が「顔の見える地域社会」をかなり追い詰めてきているのが現状であり、両者のバランスが問われているのではないだろうか。

ネット社会と「顔の見える地域社会」は、必ずしも背反するものではない。共存し、補完し今っものにしなければならない。「顔の見える地域社会」が、ネット社会の負の側面をどのように和らげるのか、それぞれが持つ特性と、関わり合いの形について知恵を絞っていかなければならない。

ネットツールは、社会関係資本を増やしもし、減らしもする。大切なことは、ネットツールの特性を正確に理解し、うまく使いこなすことだ。私たちは、ネット世界の利点を最大限に活用する一方、ネット世界の影の部分をできるだけ減らしていく努力が求められている。ネットツールをうまく活用して「顔の見える地域社会」を内部から再生させ、さらに、それぞれの「顔の見える地域社会」をネットワーク化して、コミュニティが緩やかに連携した基礎自治体を構築することが考えられてもよいのではないだろうか。

現実の世界とネット世界の両方にまたがる、コミュニティの瞭乱のありようを冷静に見つめ、自治体がトップの明確なリーダーシップのもとに、組織の総合力を発揮し、生き生きとしたコミュニケーションに根ざした自治体経営といかに関連づけるかが問われていると思う。

日本の伝統的社会からネットコミュニティヘ

2013年10月02日 | 3.社会
『ネット時代の地方自治』より

グローバル化か進んだとはいえ、日本社会には日本的な特質がある。そのような日本的特質を持った地域社会とネット社会はどのような関係に立つのだろうか。

1983年、政治学者の京極純一は、著書『日本の政治』の中で、日本人社会においては、個人は親疎遠近の順序により四重の同心円の中に生きている、と論じた。

まず自分を取り囲む一番中心に「『身内』の世界」がある。最も小さい場合は母子であり、自分と一体化した家族がある。伝統的なイエ集合体となる場合もある。「『身内』の世界」の外側には「『仲間』の世界」がある。兄弟、親戚のほか、他人の中でも「狭い世間」に属する人々がこの仲間に該当する。ムラ集合体や同じ町内など地縁の上で近い人々、同じ職場の仲間、同業者、業界などの気心の知れた人々である。この「『仲間』の世界」の外側には「赤の他人」の「広い世間」が広がる。クニ、天下、日本全体の世界であるが、それは同時に「狭い日本」であり、その外側に「広い世界」がある。言語不通、文化断絶の異境である。


京極によれば、日本人の行動基準は、この四つの世界毎に明確に区別されてきたという。身内の世界は、「同じ釜の飯」を食う世界であり、融合一体を規準とする世界である。ここでは「暖かい人情」が支配し、完全信頼があるから、安らぎ、休息、寛ぎがあり、甘えと寛ぎが結合する結果、我借、無遠慮、無作法が現れる。

これに対して、「狭い世間」の交際は、互いに身元が分かっており、礼儀作法と遠慮を基調とする「お堅い」交際である。当事者の自前と対等を前提とする義理の交換であるが、それをあからさまにすることは好まれず、義理の交際に人情の裏打ちを求め、義理と人情の一致を理想とする強い集合体志向がある。この外にある「広い世間」では、人間同士は「赤の他人」であり、旅の恥はかき捨てでよい。「渡る世間に鬼はない」という一面もあるが、基本的には功名と出世を争う競争の戦場であり、人を人とは思わず、呑んでかかれというのが戦場の処世訓である。

最後の「広い世界」に対しては、日本人はこれまで自己矛盾に陥ってきた。それは自分たちとは異なる、所詮理解できない世界である一方、「文明」の源泉、憧憬の対象である。その結果、外国からの高名な短期滞在者に対しては歓迎、接待、歓送するが、長期滞在者については、「ガイジン」として扱い、また海外における現地採用者は、「同じ釜の飯」の世界には決して入れては貰えない。

また、京極は、タテマエ(建前)とホンネ(本音)についても触れ、両者を集団ないし個人における公益と私益の調整制度だと論じている。「日本の集合体とそのなかで支配する側の個人ないし集団は、イエ、ムラ、勤め先、クニ、すべてにおいて、タテマエを擁して服従を求め、服従を要求される側のホンネに拠る抵抗に直面することとなった」と述べ、タテマエとホンネの対抗関係の中に日本社会があるとした。

1983年、京極が著書『日本の政治』において日本人にとっての秩序とカオスを論じて以降、このような同心円的な社会モデルは、次第に空洞化してくる。「自分と一体化した家族」像は一般的なものではなくなろうとしている。そのような家族像が理想とされ、なお存在していることは確かであろうが、家族や家庭の空洞化が進んでいることはまぎれもない事実だ。また、職場の代表であったカイシャは、前近代のエートスと近代産業社会、ある意昧でのゲゼルシャフトが奇妙に結合したような様相を呈していたと思われるが、次第に輝きを失っていった。またグローバリズムの進展は、「ガイジン」という言葉すらも死語にしつつある。京極純一がモデル化した同心円構造は、部分的な存在になっているというべきだろうか。

他方で、京極(1983)の言う「タテマエとホンネの対抗関係」はネット社会でも観察することができる。例えば、匿名性こ情報発信源という武器をネット上で手に入れた個人は、支配する側に抵抗するためにホンネをネットにぶちまけており、その好例が2ちゃんねるであろう。巨大電子掲示板サイト「2ちゃんねる」では、タテマエとホンネを使い分ける日本社会において、匿名性という盾に守られた個人が、タテマエに縛られることなく、そして、ホンネをさらしても社会的に潰されることがない。1999年のサービス開始以来、現在でも1000万人を超える利用者数がいると言われているが、日本的なタテマエとホンネの関係の発露の場として、日本人にとって欠かせないものになっている。

キーワード空間のハンドリング

2013年10月02日 | 1.私
全てを知ること

 全てを知るということは、項目を知るだけでなく、それらの関係付けを把握し、上から見た時に、論理的にどうなっているかを知るということです。

 その意味では、個人の分化、分化の意味を別のコミュニティとどうなるかを、この中で関係づけられます。これは現実の空間に非常に近い形になります。

 組織のような単層なカタチではなく、多層なカタチでつながって、カバーリングしていく。それをどのように見える化していく。

日本は共有化ができない

 今までも、ネットワークの考えもないし、情報共有もないし、共有化の考え方は、ローカル中心の藩から中央集権化する時点で、日本は確実に退化しました。

 ヨーロッパの場合は、国が近接しているので、色々な実験をそれぞれのところで行って、いいとこ取りしたり、影響を与え合って、やっています。独善的にならずに、依存せずに、自分たちで決めていきます。

 日本の場合は、それが全然できていません。たとえば、原発にしても、あんなものを隣国に垂れ流したら、国自体が攻撃されます。下手したら、NATO軍が攻めてきます。それレベルのことです。日本は平気でやっています。

 この感性を変えていくにはどうするか。自分たちが立派になっていくしかない。それをやっていくには、日本の力としては、企業から変えていくしかない。

 社会保障にしても、企業が行っています。国とか行政ではやられていない。税金で社会保証していないから、当たり前と言えば、当たり前です。

 だから、皆は企業に入ろうとします。今は、入ったからと言って、それだけのことはできない。だかえあ、非正規社員になっていくのです。企業は利益というものが主になっているからです。一応、CSはあるけど、実際、そんなことは考えていない。地域が一律の社会保障すれば、構図が変わります。

キーワード空間のハンドリング

 いいハンドリング法が見当たらないから、とりあえず、見ながら考えることにしました。人間の脳を使うことで、答えを見つけましょう。

 存在の力に対する、現在の意思の力をどういうキーワードで表現しようか。組織とかリーダーシップぐらいは分かるけど、ポータル、コミュニティ、情報共有以前の秩序は不明。

 意思の力と存在の力の使い分けは業種ではない。作る・売るものは意志の力で、使うものは存在の力です。

 キーワードは難しいものです。「思考過程」と言った時に、「思考」と「過程」なのか。

 「どこでも」「知の共有」は何のキーワードなのか。とりあえず、人間の感覚で判断していきます。「分化」は「個人の分化」「市民の分化」「組織の分化」などを集約したものです。「仕事の変化」と「社会の変革」も前を変えることで、内容が変わってきます。単なる集合論ではダメです。

 キーワードをどういう風に一つのカタチにするのかは、AIの助けがいる。

意思の力を表現する

 売るというやり方、作るというやり方に、意思の力が働きます。作るためには、意思の力は必要です。全体のエネルギーを作るのは必要です。それを一般の人に展開せずに、一部の人のところに留めておきます。その辺のバランスが、次の世界では必要なる。それをどう表現するのか。

言葉のハンドリング技術

 データのハンドリングに比べると、言葉のハンドリングははるかに難しい。というよりも、道具が揃っていない。部品表の時に、あれほど、簡単にできたことが、言葉を対象にするだけで、体系ができていない。それをハンドリングするための道具がない。

 研究開発部署では、人工知能言語で、ハンドリングできたのに、ここではエクセルしかない。このフィールドにAIが展開されていくはずです。今後のITの使い方はこちらになります。それで人類にどう貢献するかです。

 コミュニケーションの立場で、集合知をやるためには、言語のハンドリング技術は必要です。それに向けて、色々な道具が出てきているのは、確かです。グーグル・Facebook、アマゾンに期待しましょう。

 ただ、ライブラリ系が出てきていない。ナレッジ化したものをどのように集合知にしていくのか。人間のリテラシーを要求せずに、できるようにすることです。

キーワード空間

2013年10月02日 | 1.私
キーワード空間

 未唯空間のキーワードで使用部位に関するファイルを作りましょう。それに合わせて、腰の部分を決めます。キーワード空間とは、論理的な、バーチャルな空間を作ることなんでしょう。

 その意味では、個人の分化と対比できます。実際、バーチャルな空間から、動かすことになります。社会の位相化というキーワードで、未唯空間の項目から集めてくることになる。

 ややこしいのは、それに対して、バーチャルの空間がどういう関係になるのか、その組み合わせによって、また異なります。組合せというよりも、集合関係なのか、関係づけなのかわかりません。

 学校図書館のマニュアルにしても、一つのジャンル、キーワードに対して、何を配置するのかというのと同じような発想になります。だから、インスピレーションのカタチを取ります。少し前だから、曼荼羅です。

言葉のハンドリング

 とりあえず、手でのハンドリングするけど、これらの手法が機械的に、システム的にできれば、大量のデータ処理の部分、メッセージ系のハンドリング部分で結論をどう持ってくるのか、コミュニティをどういうカタチが見えてくる。要するに、情報共有のところの関係が出来上がります。

 本来の第7章生活編は、自分の生活を通して、全体の構造、部分が全体よりも大きいことの証明を行っています。これらは今のシステム設計を超えるものになります。全てを知ることに対しては武器になります。

 民主主義はこういうことができないので、結局、多数決の論理で単層化してしまった。多層化したところでどうしていくのか。ネットワークとコンピュータとライブラリをどう使っていくのか。どういう関係にしていくのか。下から、カバーリングしていく時には、全体必要な機能になります。

 それが昨日から感じた、存在の無からの結論だとすると、あまりにも、前向きすぎます。

多層的な環境社会

 環境社会も単純にCO2削減ではダメです。色々なものをやっていかないといけない。色々なコミュニティが必要です。そこに分散するのではなく、市民が分化して、それぞれに関わって行動するカタチになる。

 ましてや、家庭をかえていかないといけない。色々なファクターを持たないといけない。自分たちが出来ることと、他がやること、行政がやること、政府がやること、産業に任せること。それを自分たちの頭の中でやるとしても、どのようなカタチで整理すればいいのか。

 図書館だけで、知識と意識だけではダメです。それらを駆使できる、システムの支援が必要です。ライブラリに対するサポートです。それをするためには、上からのポインターだけでなく、下からのポインター、部品表で言うならば、使用部位的な発想です。

 これは人間の能力を超えています。人間は、自分の近くしか見えていません。それがどういう影響を与えるかが見えない。時間軸も見えていない。環境社会にとっては、自分の狭い範囲の中でも何をしたらいいのか分からないので、結局は政府とかマスコミに言いなりになって、お金を出すだけです。

社会の位相化の役割

 自分が主体的に動くと言っても、何を動けばいいのか、それがどういう関係になるのか、全然見えません。それらが見えるロジックをどう作っていくのか。それがトポロジーに課せられた役割です。社会の位相化の役割です。

 クルマを売るとか、使うということも、同じようなことになります。環境社会だけでは、自分だけで使っていればいいというものではない。かといって、プリウスだからというのも答えではない。

 もっと、複雑なモノから、いかに単純にして、答えを出すのか。それを自分の身近で行うことを、全てがつながっていく関係図ができること。