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ナチスドイツが築いた放送メディアのプロパガンダ体制

『僕らのニュースルーム革命』より 日本の報道メディアが抱える根深い問題

僕が最初に本格的に日本のメディア改革の必要性を意識するようになったのは、大学3年生から4年生にかけてのことだ。ドイツ文学を専攻していたこともあり、第二次世界大戦期にナチスドイツが強力に推し進めたプロパガンダと、大本営発表を流し続けた大日本帝国下の日本放送協会を卒業論文の研究テーマに定めた。

ナチスドイツと同盟関係にあった大日本帝国では、ナチの宣伝担当大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの指示によって、映画、ラジオ、演劇、音楽など様々なメディアを総動員して遂行されていく宣伝戦略を模倣し、愛国心を植え付けるための学校教育と厳しい言論統制や規制を敷くことで大衆の意思を一定の方向に操作していった。究極の狙いは「大衆の国民化」にあったと言われている。ここで言う「国民」とは国家への帰属意識を持った人々を指す。自由に文化を形成してきた大衆をそのまま放っておいても国家を担う「国民」にはなりはしない。ナチスや大日本帝国は、大衆を国民化することが強力で揺るぎない権力と国家を形成する絶対条件だと考えた。第一次世界大戦後、多額の賠償金を背負わされ疲弊したドイツと、明治の富国強兵策以来、欧米列強と伍していくための国づくりを進める日本にとっては、大衆社会からの脱却は急務だったといえる。アドルフ・ヒトラーは1925年に記した自らの著書『わが闘争』で〝大衆の国民化〟についてこう述べている。

 広範な大衆の国民化は、生半可なやり方、いわゆる客観的見地を少々強調する程度のことでは達成されず、一定の目標を目指した、容赦ない、狂信的なまでに偏った態度によって成し遂げられるのだ。(アドルフ・ヒトラー 平野一郎・将積茂訳『わが闘争』 1973)

ナチスドイツの場合、大日本帝国の「皇国民教育」のようなことは盛んに行われなかったが、その時まさにラジオの創成期を迎えており、マスメディアを利用しての大衆操作、いわゆるプロパガンダが緻密に計算され遂行されていった。ゲッペルスは1933年の就任以来、まずラジオ局の人事の粛清に取りかかり、帝国放送協会のディレクターを全員解雇、ほぼすべてをゲッペルス自身の代理人たちに置き換えた。また地方局を法的に解散させ、首都ベルリンからの全国放送の単なる中継局とした。つまり、あらゆる指令や番組が宣伝省から直に国民に送られるものとなった。ゲッペルスがラジオ局の職員に向かって投げかけた言葉が当時の状況を物語っている。

 ラジオ放送は新たな政府が掲げる目的に自らを適合させ、従わなければならない。ラジオ放送の主要な課題の一つは、国民の精神的動員の実現にある。それは、国防省が防衛の分野で果たすのと同様の役割を精神の分野で実現しようとするものである。(中略)私が思うに、ラジオ放送はもっとも現代的かつもっとも重要な大衆操作の道具である。ドイツの放送局は、今なお政府を支持しようとしない一部の国民に対し新たなドイツの意図を啓発し、彼らを我々の隊列の中に組み入れるという重大な課題解決のための第一の手段とならなければならない。(中略)ドイツ国民を100%、地域、宗教、職業、階級にかかわりなく、新たな政府のために統一することにより、ラジオ放送は国民と国家への真の奉仕者となる。(平井正『20世紀の権力とメディア』雄山閣 1995)

1933年はじめの時点ではラジオの普及は400万台弱だったが、政府は聴取者数の大幅な増加をはかるために、廉価なラジオ受信機を国内のメーカーと共同開発し販売。1939年には900万世帯に、さらに1941年には1600万世帯にまで拡大させた。放送を使ったプロパガンダは国民に大きな影響を与えるようになった。
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コメント
 
 
 
Unknown ()
2020-05-05 11:43:38
大衆「ラジオ欲しい」
 
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