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ジブラルタル海峡は見てみたい

仏教って宗教なのかな

 経典といえば、トイレに飾ってある短冊。釈迦も自分のことで精一杯だった。本当に世間に広めようとしたのか。

ムスリムはなぜ戦ったのか

 押し潰そうとする勢力に対抗したのか。1万人でメディアを包囲した。

 早いうちに、クルアーンを完成させた。それに対してキリスト教典は寄せ集め。それでも 仏教よりはマシなのか

著作権が認められる条件

 全て自分の思考・言葉で書かれているのであれば、著作権は認められる。だけど、そんなものを読む人はいない。自分を納得するために読むのだから。思っていることと同じことを書かれてなければ読まない。意味がないものでないと読まない。

ポルトガルがなぜ、日本にやってきたのか

 日本の宣教師の歴史の本の中にまさかポルトガルのアフリカ進出の事項があるとは! それとジブラルタル海峡を挟んだイスラムとキリスト教の領土争い。スペインのレコンキスタの240年前にポルトガルはムスリム勢力を押し返していた。これだから歴史の本はやめられない

 ポルトガルがなぜ日本にやって来たのか。アフリカからインド洋、そして日本というパス。ポルトガル人にとっては、それは一種の十字軍。喜望峰経由 だから。ポルトガルなんだ。海から見る地政学なんでしょう。

ジブラルタル海峡は見てみたい

 湖となっていた地中海に流れ込む大西洋からの膨大な水の流れ、ネアンデルタール人の最後の家族が岸壁の洞穴から見た風景、そしてレコンキスタの争い。さらにイギリス領となっている滑走路に降り立つ、地上ギリギリの飛行機。

朝起きて乃木坂情報のチェック

 朝起きて、乃木坂情報のチェックだけで一時間半かかる。そうするとまた眠たくなる。眼の疲れの許容範囲を超える。だから睡眠に入り、昼から出かける。
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釈迦はなぜ他人を救う決意をしたのか

『ごまかさない仏教』より

宮崎 梵天勧請に話を戻すと、「苦労して得た境地を、いま無理をしてまで人に伝える必要があろうか」などと説法を拒むブッダに、梵天は執拗に食い下がります。意訳すると「世には生来、汚れの少ない者が少数ながらおります。あなたが教えをお説きにならなければ、彼らすらも退歩し、おおいなる損失をこうむるでしょう。しかし、もしあなたが教えを授けられるなら、真理を悟ることでしょう」と言って説き伏せようとする。

佐々木 つまり、ブッダの教えによってこの世のあらゆる生き物が救われるということではないけれど、その教えによって苦しみから解放される者もいるのだから、その者たちのために教えを説いてほしいという理屈です。

宮崎 梵天の再三の願いに、釈迦もその意を察し、仏眼(ブッダにそなわる超人的視力)をもって世間を観察します。すると汚れの少ない人、汚れ多き人、怜俐な資質の持ち主、鈍重な資質の持ち主、性格の良さそうな者、性格の悪そうな者、指導しやすい者、指導しにくい者、そして過去に犯した罪とその未来における果報に脅えて暮らす人々……様々な者が、この世にひしめいているのが見えます。それは、まるで蓮池のようだ、と釈迦は思います。花を水面に出すことなく泥水に沈んだままの蓮。水面のギリギリのところで開花してしまう蓮。水の上まで伸びて、泥に汚されることなく見事に蓮華を咲き誇らせる蓮。

 この観察によって、釈迦は世人を教化する決心を固める。そして宣言します。

 「耳ある者たちよ、不死の法門は開かれた。いままで信じていたものを棄てよ」と。こうして仏教という実践的な思想運動が、釈迦を起点に拡がりはじめたのです。

佐々木 「いままで信じていたものを棄てよ」という箇所は、「信頼の気持ちを起こせ」と読むべきだという説もあります。ここに出る「耳ある者たちよ」という呼びかけがおもしろい。つまり仏教は、教えを説き広めることによって、すべての人間を幸せにする義務もなければ、そのような課題も持たず、基本的に釈迦の言うことに反応する人だけを受け入れる。他の宗教のように万人に積極的に布教することはしない。仏教に救いを求めている人がいたら、そこではじめて手助けをするというだけ。釈迦が、「そのような形なら布教してもいいだろう」と納得したというのが、非常におもしろい。ここには仏教という宗教の社会的活動形態を決定する根本理念が見事にあらわされています。

宮崎 蓮の譬えだって、人々を悟りの資質、仏教ではこれを「機根」と呼びますが、その機根の程度で三分割しているともいえる。ブッダが梵天の意を酌んで考え直したのは、万人が甚深微妙な悟りの内容を理解できると希望が持てたからではなく、あくまで少数の「耳を持つ」者ならば理解できるという希望が湧いてきたからです。これは文脈上明らかですね。

 梵天勧請の説話は大乗の経典や論書にも出てきますが、どうも大乗サイドの解釈は、梵天勧請を直接、無媒介的に慈悲や利他に結び付けてしまっていて、初期文献と比較すると論理に綻びが目立ちます。

佐々木 慈悲や利他という考え自体は、とくに大乗的なものだとは私は思いません。大乗であろうが、部派仏教であろうが、結局、ブッダが布教に立ち上がったということは、自分のためだけにつくり上げた仏道の教えを、苦労を背負ってでも人々のために説き広めることを決意したと解釈するしかありません。つまり釈迦は梵天勧請を契機として「世のため人のため」に活動を始めたということです。

宮崎 私は、その「自分のため」と「他者のため」を繋ぐ媒介項が必要だと思うのです。そもそも自他の別を問わず、釈迦の悟りは「主体」において完結しています。

佐々木 それはその通り。釈迦は悟りの境地に入っていたので、もういつ死んでもかまわないと思っていた。おそらく当時の修行者たちの中には、悟りを得ても、その方法を他人に教えないまま死んでいった、いわゆる「独覚」もたくさんいたはずです。それにもかかわらず、釈迦は教えを広める道を選んだ。ここは仏教学においてもホットな論点の一つですね。

 これはあまり理解されていないことだと思うのですが、利他すなわち「他者のための活動」には、異なる二つの形態があるのです。一つは、自分がまずその道を歩いて見せて、後に続く人たちの手本となる。そういう形での利他。もう一つは、相手を直接援助するという形での利他です。たとえて言えば、前者は親鳥が雛たちの前で餌をとって見せて、それで雛たちを教育し、自分でも餌が取れるようにしてやる。いわば、指導者、教育者としての利他。後者は、たとえば親鳥が口移しで餌をひな鳥に食べさせるような対面での利他。そして言うまでもなく釈迦の利他とは指導者としての利他であり、多くの大乗仏教が説くのは後者の利他です。ですから、梵天勧請によって布教の決心をした釈迦は間違いなく利他の人となったのです。

宮崎 では、ここで少し他分野の学知を参照してみましょう。真宗大谷派の僧侶にして臨床心理士の坂井祐円瓦に、梵天勧請説話を題材にケアの思想と仏教との異同を論じた一文があります。ここで坂井氏は、釈迦が「執着を好み、執着を楽しみ、執着を喜んでいる人」には理解できないと断じた「縁起」に注目しています。

 「真理概念のうち、『無分別』『涅槃』『無為』などという表現は、言葉や行為による世界の分節化が立ち消えた沈黙の様態を表しており、静態的であると言える。ところが、『縁起』や『空』といった表現は、必ずしも静態的であるとは限らないのである。すなわち、『縁起』とは、『物事は様々な因縁(原因や条件)に依って起こる』ということであり、世界の関係性のあり方を示している」

 ここは初期仏教の縁起概念とはどういうものであったか、という後に詳しくみる論点にも関わりますが、仮に後の大乗仏教の縁起説に発展する萌芽としての「一切法因縁生の縁起」が、釈迦の教説にも伏在していたと推定すれば、縁起は世界の関係性、相互依存性をも含意するものであったということになります。ちなみに一切法因縁生の縁起とは舟橋一哉の定義によれば「迷いの生にあっては、すべては種々様々な条件によって条件づけられて存在するもの、即ち条件に依存するものばかりであって、条件を離れて、条件と無関係に存在するものは一つもない」という縁起観ですね。

 この縁起説を前提とするならば、本当に成仏を得道し、悟りを完成するのは、「自己」においてではならぬはずなのです。論理的に。悟りは個では完結できない。なぜなら、その自己は、その個は「種々様々な条件によって条件づけられて」仮に存立しているものに過ぎず、他者との関係性において仮に「ある」かにみえるものだから。その真相を如実に知見することこそが悟道であるのだから。

 「この私」という存在が他を前提とし、他との関係において生じるものである以上、悟りが訪れ、住するのは自己とか他者とかの個ではなく、世界でなければならない。そうして自も他も、世界も終わらせることができる。

 梵天勧請における釈迦の転回とは何か、と問われるならば、その本質は「悟りの未完」と答えます。そして釈迦の悟りは、「初転法輪」、そして爾後四十五年の伝道によってさらなる展開を遂げた。

 いささか大乗的に偏向した解釈かもしれませんが、私はそう思っています。

佐々木 釈迦が梵天勧請に応じたのは、単なる慈悲の心だけではなく、完全なる悟りを目指すためだった--そういう解釈も十分にありうると思います。ただ一つだけ、それはとくに大乗的と言わなくてもいいというのが、私の考えです。

 「大乗的」と言ってしまうと、やはり私が気になるのは、「自己犠牲」という考え方が非常に強く出てくるということです。自分が犠牲になってでも、それこそ自分が地獄に落ちようとも、まずは他人を救うんだという思いが強く出る。

 でも、このとき釈迦は「自分が地獄に落ちてもいい」なんて、まったく言ってない。宮崎さんのおっしやるように「完全なる悟り」を目指していたか、あるいは教えを説くことによって人々を救おうという、非常にシンプルな人助けを考えていただけでしょう。だから、梵天勧請というのは、大乗、部派仏教を問わず、仏教が本質的に持っている社会への関わり方を表しているだけだと私は考えています。

宮崎 なるほど。そうすると別の側面、例えば「ジャータカ」にみえる捨身飼虎の説話をどう解釈すべきかが視野に入ってきますね。それから「スッタニパータ」にみえる「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」、「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」といった偈文の解釈。これ「慈経(メッタスッタ)」としてテーフワーダ仏教徒が読誦している偈ですよね。

 現実に「小乗」と大乗側から既称されたテーラワーダ仏教が浸透しているタイやミャンマー、スリランカなどにはすでに阿羅漢果を得られる域に達しているのに、あえて一歩前に踏みとどまり、人々のために力を尽くす僧侶がいるのだそうです。こうなると大乗仏教の菩薩のあり方との大きな違いが見出せない。

佐々木 たしかにそれは大乗的ですね。最近はテーフワーダ仏教も大乗的な要素を取り入れるところが出てきて、たとえばスリランカなどでは在家出家の区別なく仏道修行が同じレベルで可能だということを主張する人もいるようです。そういった流れの一環として大乗菩薩的あり方が入っているのかも知れませんね。少なくとも「慈経」の教えには、釈迦の立場での慈悲の心が過不足なくきれいに表現されていると思われます。
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場所(トポス)の論理

『トポスの知』より ⇒ 中村元さんの哲学は分かりやすい

中村 それから哲学のほうでは、そういう空間的な場所が人間にとってどういう意味を持っているかということが、あまり考えられてこなかった。その問題に対する自覚が遅れたわけですね。

 また、近年の「時間論」への関心も、具体的な場所への関心と結びついているんです。近年の時間論は「場所論」と結びつきながら、かつての歴史論と対立しているんです。かつてわれわれが歴史を考えたとき、どうしても意識的な歴史になってしまった。つまり、意識のつながりのなかで歴史を考えていたわけです。

 そういう点で、少なくとも近代哲学が親近性を持っていたのは、「意識と歴史」だったんですね。時間論がちょっと違うのは、時間というものがすでにかなり具体的な場面にかかわってきているからなんです。ですから最近問題になっている時間というのは、むしろ場所的な空間のなかで起きている具体的な時間であって、それは意識的にではなくて無意識によってとらえられる。われわれの隠された無意識の部分とつながるんです。

 これは河合さんももちろんご存じのことですけれども、ミハエル・エンデの『モモ』(岩波書店)というすばらしい童話がありましたね。「時間泥棒とぬすまれた時間を人間に取り返してくれた女の子の不思議な物語」を描いた……。その『モモ』を私はたまたま読んで、あまりによく時間の問題が扱われていてびっくりしちゃったんです。『モモ』についてはずいぶんいろいろ考えたり書いたりしました。具体的な時間というものは、ほんとにつかまえにくい。エンデも「目でものが見えるように、時間とは心に感じられるものだ」というような言い方をしている。

 それは私流の考え方と関連させていえば、五感の統合としての共通感覚によってはじめてとらえられる。人間の感受性を全部勣員しなければつかめない。だからそういうものは、いままではつかまえにくいものとして退けられていた。同じように退けられていたのが「場所」という非均質的な空間なんですね。計川的な都市なんかで考えられているような、均質的な空間というものはいままで考えられてきたけれど、しかしいまになって考えてみれば、それは本当の生きられる空間ではなくて、ひとつの捨象された抽象的なものにすぎないのじゃなかろうか。

 その点で空間のとらえ直しが、現代哲学の大きな問題になってきているんです。もうちょっと言ってみると、歴史に対しては構造ということが問題になってくる。在来の歴史学に対して文化人類学が、大きくクローズ・アップされるようになったのも、同じ潮流の現われなんですね。

 ところが、われわれが歴史的なものへと関心が向いているときは、意識的なもののとらえ方が重視される。これは特に西洋哲学がそうなんだけれども、たとえば「主体」という考え方、明確な「自我」という考え方、それから歴史へという具合に問題がつながってくる。だから場所というのを均質空間と区別して、具体的な空間というふうに言い換えた場合、その場所というものは、いままでは排除されていたものなんですね。近代的な主体にとっては場所というのは、すごく気味の悪いものなんです。そういうものであるために、永い間排除されていた。

 考えてみると、日本人は明治以後、近代化の流れのなかで一所懸命主体を確立しようとしてきた。そういう努力がされてきて、ある程度それがうまくいったことが、日本の近代化の現実的成功の原因ではあるけれども、実はいつも何か後ろめたいものを感じていたんですね。その「後ろめたさ」というのは、本来の場所的な考え方を抑圧してきたためなんです。日本人の考え方がいかに場所的かということを示すいい例は、実は日本語なんですね。

 面白いのは、たとえば英語では「何々さんは自分のうちでこういうパーティーを開きます」という言い方をする。つまり主体あるいは主語があるパーティーを開くわけです。ところが日本語だと、「何々さんのうちでこういうパーティーが開かれる」となる。だから英語などを直訳すると主語が強調されすぎておかしくきこえる。主語や主体よりも場所を示したほうが日本語の表現としてはピッタリするわけです。

 それから、敬語で、たとえば「後鳥羽上皇におかせられてはどこどこに行幸された」という日本語の言い方がありますね。この「おかせられては」というのも、実は場所を示しているんですね。だから論理的にいえば、後鳥羽上皇という場所で、行幸という出来事が起きたということになるわけですね。たとえば、あるところ(A)からあるところ(B)に行くという場介、西洋語だったら、主体がΛからBへ移動することになるんだけれども、日本語では、自分としては主体が動いているということを言おうと思いながら、実は場所のなかで起きている出来事を言っているわけなんですね。

 その点では、日本語の表現方法のために、日本人は一所懸命、主体の確立をめざしていながらも、どうしても場所を無視できなかったわけですね。日本の哲学者たちのなかでも、自分の頭で考えようとした人たちは、おのずとそのことを考えていたわけです。

 もちろん一番代表的なのは西田幾多郎で、「場所の論理」という問題をあらためて掘り起こした。「場所の論理」というようなことも、おそらくこれまでだったらいっそう理解されなかったにちがいない。西洋人にとっては、場所は非論理であって、論理じゃないとする考え方がずっと根強かったんですね。最近はそのことへの反省がつよまってはいるけれど。

 昨年、私は、三週間ほどフランスに講演をしに行ってきて、いろいろな人に会いました。ヨーロッパというのは厳しい生き方の強いられるところで、たとえばいま建築家とか彫刻家とかいっても、昔のイメージのままじゃないんですね。ジャン=ピエール・レイノーという彫刻家がいまして、話には聞いていたんですが、ある人がぜひ彼を中村さんに会わせたいというんで、会ったりしたんです。

 その人の家の外側はごくふつうでなんでもないんですが、内側は全部白い夕イルで張りめぐらしてあるわけです。つまり床も天井も壁はもちろん、机もベッドも全部白色なんですね。合理主義の極致みたいなもので。奥さんもいたらしいんですが、逃げ出しちゃった(笑)。人間が住める空間じゃないんです(笑)。しかしそういうことを徹底してやるというのはすごいと思った。

 ところが、そのレイノーと話していたら、こういう話になったんです。「フランスに何しに来たか」ということから、「実はジャック・デリダたちのやっている国際哲学研究機構が第一回の公開の講演会をやるというので招かれたんだ」と。それで「場所の論理と共通感覚」というテーマのことを伝えたんですね。このテーマは、西田幾多郎から三木清を通じて自分につながる問題を、日本人が哲学をした場合にどういうことが問題になるかを扱ったんですが、まさに場所の問題なんですね。さすがにレイノーは芸術家だから、そういうときにパッと話が通じて、「あ、それなら自分がこのあいだ出した本の問題だ」って言うんで、「それはなんだ」ときいたら、『場所のシンボルと人問の棲み家』という本だった。

 私もその講演のなかで言ったんですが、ヨーロッパ人、そして近代というのは、主語とか主体とかいうのを強調しすぎた。実際には主体というのは、場所がなければ成り立たないのに、場所がなくてもいいような錯覚をした。逆にいうと、いまヨーロッパ人はすごくそのことを感じはじめているわけですね。日本人は、そこのところがすごくあいまいで、主体が怪しくなるとすぐ場所に逃げ込んだりする。そこがまた非常に日本の面白いところで、あるいはこういう箱庭療法がこれだけ日本で有効で、これだけのレベルに達したのは、そこのややこしさが逆に生きたんじゃないかとさえ思うわけです。

 ところで、その「場所の論理」ということですが、主体に対する場所が再認識されてきたのは、いまになってみると、世界全体がただ主体と主体が権利の言い合いをしているのではとてもだめだということがある。それから「世界性」とか言っても、ただ単一にみんなが同じになったのじゃ面白くない。各地域の特殊性というものを踏まえた上で世界が結びつかなければならない。

 一方では、人類学みたいな学問が発達して、文化の多様性が説かれるようになってきている。これは決して高級な文化、低級な文化というんじゃなくて、それぞれの文化が固有の特徴と有効性を持っているということですね。そういう考え方の大きな潮流のなかで、トポス(場所)の問題が非常に大きく浮かび上がってきたんだと思うんです。

 トポスという考え方は、西洋でもすでにアリストテレスのなかにあったものです。このごろあんまり言わないかもしれないけど、カレント・トピックスとかトピック--ニュース性、話題性--という英語がありますね。それらも、もともとは場所という意味から派生したものなんです。西洋哲学あるいは西洋思想の流れのなかにトポス論の伝統がありましてね。そのトポス論というのは、一口にいえば場所論なんだけれども、その場所というのが実にいろいろな意味を持っている。

 たとえば、ある問題を論議するときに必要な、その問題についてのさまざまな考え方が全部仕舞われたところも、トポスなんですね。それから文学的・芸術的表現にしても、希望なら希望という一つのイメージがあるとすると、それについてどういう言い方がいままでずっとあるかということ、そういうものが蓄積されたところもトポスというわけです。だからトポスというのは、西洋思想の伝統のなかにもかつてはあったんです。それが近代では失われていったんです。

 近代の日本人は、場所についての考え方を抑圧して、後ろめたさを感じつつもI所懸令になんとか「主体主義」になろうとしていた。ところが、いくらそうなろうとしてもなれないし、無理に主体主義になろうとすると、かえって自己と区別された自我ばかりが浮き上がってしまう。小林秀雄なんかが「観念化された自我」を退けて、「真の自己」を求めたのはその現われですね。

 日本人の心のなかで西洋的な自我の観念を成り立たせようとしたけれども、どうもうまくいかない。そこでただ裏返しをするんじゃなくて、いままで見捨ててきたものをとらえ直してみることで、自分たちの心の有りようから出発した哲学ができるのではなかろうか--と。これは別に私一人の独創ではなくて、おのずと問題がそういうところにきている。

 ところが、普通の哲学の議論には、なかなかそれを裏付ける実例、がないわけですね。私なんかが演劇にコミットしたのも、なぜかといえば、そのためなんです。演劇というのはまったく場の世界ですね。つまり劇というのは一見世界や現実の部分を切り取っているように見えるけれど、あそこには全体がある。だから優れた演劇を見ると、そこでは日常生活のなかでは経験しにくい世界が感じられる。

 演劇は、たしかに非常にトポス性の強い芸術ですが、しかし全体芸術として演劇にはありとあらゆる要素がはいっている。劇場がトポスであるとか、舞台がトポスであるということは、言えないことはないけれども、あまりいろいろな要素が入っているために、その問題を考えるのに好都合だとばかりは言えない。そういう点で箱庭というのは、おあつらえ向きに、うまくできている。

河合 もうトポスそのものですね。

中村 矩形の盤のなかにペンキで青く塗って、砂を置く。こんなに簡単にトポスの設定ができるんですからね。

 これで思い出すのは、話がちょっと脱線しますが、インドネシアのバリ島の住居です。バリ島ではいろいろなことに驚かされたんだけれども、一番驚いたことにバリ島の伝統的な生活では、金持ちも貧乏人も、家の敷地と建物の構成が同じであることですね。三百坪ほどの敷地に母屋があったり、納屋があったりする。その配置が同じなんですね。建物のつくりは、金持ちはある程度立派につくっているかもしれない。しかしいくら立派につくっていても、建物の構成と配置は同じなわけですね。彼らのコスモロジー(宇宙論)にとっては、家の配置こそ大事なんです。

 それとちょっと似ていると思うんですけれども、もしかすると、たとえばすごく立派でデラックスな箱庭というものもあり得るかもしれない。お金をかければいくらでもかけられますから。だけど、この場合、お金をそういうかたちでかけても意味がないわけですね。

河合 そうそう。たとえば金縁をつけてきたってね。

中村 そういう金縁のものがあり得るかもしれない。そういう贅沢をしたがる人がいるかもしれないけれども、それはまったく意味がないというのが面白いですね。そういえば、箱庭を見ていると、あんまりあっけらかんとしていて、昔の銭湯のペンキ絵みたいな感じさえする。そういう意味では安っぽいといえば、安っぽい。

 だから物質的な価値という観点だけで見たら、これは実にとるに足りないものといえるけれど、そういうことをまったく意味をなくすだけの力が箱庭にある。そのことが、非常に面白いですね。
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日本の共同体はどうなるか

『日本問答』より ヒエラルキーにならない社会 プリンシプルのない日本 循環型の経済システム

日本の共同体はどうなるか

 松岡 田中さんは、日本の宗教社会はこれからどういうふうになると思いますか。神社があって寺院仏閣があって、少しだけ教会がある。いまは「儒」があるとは言いにくいけれど、そのほか教団としては創価学会や霊友会や立正佼成会といった新宗教もけっこうある。こういう状態は、このままずっとつづいていくと見ていますか。

 田中 宗教という枠組で考えると今後のことはわかりませんが、日本人の信仰というふうに考えると、いまはまだなんとかお祭りや年中行事に組み入れられているものの、どんどん衰退して消滅していくでしょうね。

 松岡 旧来の氏子や檀家は地縁的ではなくなっていますよね。団地やマンションのブーム、市街地再開発が頻繁につづいて、そうなった。墓地も遠くに集団移転して、斎場はとっくに会館化している。寺社の祭祀はがんばってつづいているけれど、少子高齢化にともなって担い手が少なくなっていけば、お祭りは縮小せざるをえないでしょうね。

 田中 いま残っているものが今後発展して大きくなるということは考えられないですねえ。

 松岡 ぼくが大好きな奥能登のアエノコト(田の神を迎え送る祭事)をする農家も、一九八〇年代でめっきり減りました。

 田中 沖縄の小浜島でお盆の祭礼行事を見たんです。お盆といえば沖縄本島ではエイサーなんですが、小浜島ではべつな呼び名のお祭りがあって、小さな島が南と北に分かれ、それぞれの若衆たちによる門付けがあるんです。一晩中門付けして歩いて、夜明けごろになるとこの二つの集団が南と北からやってきて、ある辻で出会うしくみになっている。このとき若衆がみんな女装するんですね。そのまわりを長老たちが取り囲んでいて、もちろん見物人も取り囲む。だんだん近づくにつれてたいへんな喧噪になってくる。そういう演出をするわけです。

  こういうお祭りを見ていると、その共同体がどんなふうに生産を担っているのかが見えてきます。そういうしくみをもっているものが、本来の祭りの原型だと思うんです。祭りというのは生産共同体のしくみをなぞることによって、共同体を再生するものなんですね。沖縄の場合は、神社ではなくて、「司」と呼ばれる女性たちがこれを取り仕切っています。ただ、地元で話を聞いてると、そこかしこに新宗教の人たちが入ってどんどんふえているそうです。

 松岡 そうでしょうねえ。

 田中 そういうふうに、年中行事の信仰と日常生活での信仰とが分離しはじめています。与那国では自衛隊を入れることに賛成している市長が勝ったんですが、いま言った小浜島、竹富島、与那国は八重山諸島のなかにあって、ここが尖閣に一番近いところになる。しかも米軍基地はない。だから自衛隊の募集がだいぶん前からさかんだったそうです。

  こういう情況を見ていると、今後このあたりに出てくるのは、おそらくナショナリズムなんだろうと思う。いままで沖縄ナショナリズムだったものが、沖縄本島とはちがう意味での自衛隊を中心とした日本のナショナリズムが八重山のほうに入っていく可能性があります。そうすると、ますます共同体の祭りの意味が変わっていったり、継承されなくなってしまうことだってあるかもしれない。それとともに、新宗教もいままで以上に出てくるかもしれません。それほど、どんどん日本人の精神的な拠り所がなくなっていくんだろうと思うんです。

 松岡 田中さんが言われた共同体やそこでおこなわれる祭祀を守るには、パトリオット(愛郷心)のところ、郷土愛や風土感性のところでナショナリズム化を止めないとまずいでしょう。いまの日本ではその境界がどんどん破られている。国防とか自衛隊とか日米同盟といった大きなしくみによって、パトリオティズムがどんどん崩れています。こういうときは、八重山は八重山で、能登は能登で、佐渡は佐渡で、福島は福島で、そういうものを止めていかないと、祭りの共同体は守れなくなっていきます。そうやって考えていくと、これから神社と仏閣がもう一度手を握るしかないんじやないかとも思うんです。

 田中 もう一度、新たに神仏習合する?

 松岡 全部が全部、連合してしまうのではなく、その土地の方言、たとえば漬物の呼び方とか風の呼び方なんかと同じように、それぞれのお社の由緒やお寺の由緒をもう一度取り出して、そこから何かある独特の四季の行事などのモジュールを形成していく。そういうものと商店街や地域NPOとがいっしょにやっていく。

  たとえば川筋で栄えた町は、どこもいまは廃れつつあるけれど、どこかに川筋気質みたいなものが残っていたりしますよね。いちばん可能性があるのは街道筋のネットワークだろうと思うんだけど、日本中のロードサイドが一番どうしようもない均一的な状態になっていますからね。幸いにも川筋はまだまだ手がついていないと思うので、せめて神社、仏閣、川筋ぐらいが連動するといいんじやないか。

 田中 私は、共同体というのは生産共同体というあり方を失ってはもたないものだと思うんですね。ところが、どの地域でもその生産共同体が崩壊している。農業の衰退とともにどんどんなくなっている。祭りを維持する理由がなくなるんですね。理由がないところでどうやって祭りを維持するかというと、観光化しかないという話になる。でも観光にしてしまうと、規模がおかしくなってしまう。たくさん観光客が入ったほうがいいんだという話になってくる。

 松岡 爆買いしにやってくる外国人でもいいという話になる。あるいはぼくが大嫌いな〝ゆるキャラ〟のぬいぐるみを大量出動させる(笑)。

 田中 私がずっと学生たちと訪れている佐渡でもそうです。佐渡は一〇八ぐらいの集落がそれぞれの鬼太鼓をもってずっとやってきた。けれどもやっぱり過疎化が進んで、いまはどこも外の人を入れるようになって、会社にしてしまうところも出てくる。ああいう人たちが祭りに来て何かやってくれれば、集客にはいいかもしれないけれど、しょせんは「よそ者」です。でもそういう「よそ者」を頼まないと祭りが成立しなくなっているんです。

  それでも、そういう人たちに頼って観光化を図ってでも伝統を残そうという意欲さえあれば、まだなんとかなる。人生を賭けてでも伝統を守りたいという人がひとりでもいれば、なんとか継承されるかもしれません。ただしそういう人がいるかどうかというのは、これはもうたまたまいるかどうか、ということにしかならない。

 松岡 たまたまいた連中が「よさこいソーラン」をつくっちゃう場合だってある。

 田中 大学生がお祭りを復活しなきやと頑張った結果、よさこい節とソーラン節がいっしょになっちゃう。あれはあれで成功したというふうに言われてますが、私はやっぱり疑問符をつけざるをえない。ああいうのを成功と言うんだろうか。たしかに全国に広がって、全大学にサークルができて、量的拡大という意味では成功しましたけど、なんだか中身のないカーニバルにすぎませんね。

 松岡 刻み生姜はそれで十分においしいけれど、そこにシソを絞っているうちに紅ショウガというべつのものになった。やがて刻んだショウガはほぼすべて紅ショウガに席捲された。さあ、これをどう見るかです。端唄や三味線の名人の本條秀太郎さんは、そもそも民謡や俗曲は各地を流転していて、曲も詞もかなり混淆してきたと言っています。モードというものはそうやって転移したり混淆したりしていく。しかし、よその成功をパクってばかりでやろうとしても、つまらないものがはびこるだけで続かない。

 田中 このままではお祭りのM&Aみたいなことも、おこってくるかもしれない。

 松岡 そうだねえ、そういうこともおこるかもね。

 田中 おこるわよ。

 松岡 すでにスポーツはトライアスロンのような個別競技の加算結合がおこっていますね。ちなみにぼくのまわりでは、為末大君や笹川スポーツ財団とかが、スポーツ共同体で日本を活性化するという構想をもっていて、ちょっと可能性があるかなと思います。亡き平尾誠二君もそうだった(二〇一六年逝去)。ただしそこからオリンピックをめざすというような活動になって、国際的なルールのなかでやるようになってばかりではおもしろくない。それぞれ独自なドメスティックなルールをもたないと、日本の地域を維持したり、何かを残すためのものにはならないんじやないか。

  もうひとつあると思うのは、情報共同体の可能性です。いまのところ、ネット社会にいろんな擬似的な情報共同体が生まれているけど、なかなか地域と結びついていない。いまだにお祭りもない。電子ネットワークというものにもっと地域的な色合いをつけられるようになれば、何かが変わるかもしれない。でもスポーツ共同体も情報共同体も数は多いけど、いまのところまだ地域の再生に有効な日本様式は出ていないように思いますね。

 田中 ものすごい勢いでボーダーとか境がなくなっている時代ですからね。たとえばいま多くの日本企業が外国人を採用し始めていて、これに対して大学も学生も危機感を抱いている。けれどもこれは逆に言うと、日本人が外国で働く機会も開けてきているということです。これが急速に進んでいくと日本人の生産の場そのものが変化する。しかもそれが世界中でおこっていく。となると、日本人を日本につなぎ止めるものとしていったい何か残っているのか。

 松岡 どう考えても「日本でなくてもいいや」というふうになっていきそうだね。

 田中 そこで重要になってくるのは、やっぱり「記憶」ではないかと思うんです。いまの日本を強調しようとすると、戦前の国体みたいなものがまた出てきてしまいかねない。そうではなくて、日本の記憶のほうに戻るべきなんじやないか。それであれば、いまはまだたくさんのものが残っている。そういうものを日本人が共有していくしかないんじやないか。

 松岡 なるほど。ぼくがこれからいろいろ考えてみたいと思っているのも、座の共同体、あるいは学習共同体なんです。ひょっとしたら、いまの日本で唯一可能性があるかもしれない。ただしそのためには、小学校から大学受験のマークシートまで、教育システムごとやり直さないといけない。それにもっと本を読めるようにしないとまずい。

 田中 私は、そのために大事なものは東アジア的なものだと思う。鳩山政権が最初に東アジア共同体と言いはじめたときには、経済共同体のことまで発想していなかった。最初に言いはじめたのは教育共同体のことなんです。私は、これは非常にいい話だと思った。結果的に、ああいうかたちで挫折したというか潰されてしまって、いまでは東アジア共同体なんて口にしただけでバカにされるようなものになってしまった。だからこれからやるのであれば、まったくちがう枠組を用意しないといけないと思いますが、今後の日本学は「東アジアの日本学」にならないかぎり、意味をなさないんです。

 松岡 ぼくも、奈良県の荒井正吾知事が言い出した「日本と東アジアの未来を考える委員会」の監修をやりながら、川勝平太さんや鳩山さんとそういう話をしていたことがある。だいたい五山も蒹葭堂サロンも、いってみれば東アジア文化の研究センターだったわけです。けれどもいまの情勢だと、日本がそれをする前に中国が先にそこまでやっちやうかもしれないね。ただしその場合、アジアすべてに言えることだけれど、言語をどうするか。

 田中 東アジアという視点で日本を見るという発想は、宣長の時代の日本人たちにはすでにあったんです。宣長はすべての発祥の地は日本だと強調したんですが、朝鮮半島のことを抜きにしては日本の歴史にならないということを宣長にぶつける人たちもいた。そういう論争がおこるくらいに、東アジアのことをみんなよく見ていた。

 松岡 近代以降、日清戦争、日露戦争、日韓併合があって、台湾の植民地化も進み、一方では日本主義や国粋主義といわれている動向のなかにも、東アジアにおいての日本ということを本気で考えていた人たちがけっこうたくさんいましたね。右から左まで、頭山満から宮崎泗天まで、中国と日本のあいだで学習共同体のようなグループをつくる連中がさまざまに活動していたし、そこに孫文たちもかかわった。けれどもその後は中国に共産主義運動かおこり、日本も満州国づくりに向かって、結局は日中戦争に突入してしまった。戦後はこのような学習共同体も座の紐帯もあまりできていません。したがって、東アジア共同体的なモデルをつくるというなら、いったんは明治後期・大正期のモデルを参考にすることになる。そうでないとすると、まったく新しいモデルを模索することになる。
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