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哲学者は分かっている

コンビニの選択基準

 いくちゃんのスーパーカップはなぜ、コンビニから消えたのか。

 賞味期限ぎりぎりにならないと出てこない、お菓子の配給。「通りもん」ということは、先月、北九州で買ってきたんでしょう。

ICレコーダーを使わなくなった

 ICレコーダーを使わなくなった。現役で3台あるのに。書き起こしの手間の問題か。

 歩きながら、頭に浮かんだものは、スティックの方がやりやすい。だから、スティックとキュービックは常時携行している。

4年前の記述

 4年前も同じこと考えてたんだ。呆れてくる。FBの思い出記述「意志の力はなくなった。存在の力に移行する。」

 存在の力を考えないで、なぜ137億年の時を過ごしてきたのか。なぜ存在するのか、なぜディスクリートなのか。

パートナーからのアクセス不通

 メールの突然の遮断。それが効いてくるのは半年後です。20年前もそうだった。その時の教訓としては、相手の事情を思わないことです。結果から原因は遡れない。結果は結果でしかない。

未唯空間第10章のメモ

 未唯空間第10章が頭に入ってこない 私は私の世界の完結編なのに。ひたすら布団の中に潜ってFBでつぶやきを開始することに下。

10.1「他者の世界」

 自分のために作られた「他者の世界」それがなぜ存在するのか。なぜ彼らの幸せを祈らなきゃいけないのか。これだけ本で探しても、他者のの本音は見つからない 本当にあるのか。

14歳の頃に思ったこと

 他者はいるのか 全て私なんじゃないのか。多重した世界で演じている。初恋の女性を除いては。同じであるはずがない。

 「誰もが私」という感覚。これは中学の時に感じたものです。

時間の過ぎていくのは早い?

 バナナマンの放送を聞いてると、時間の過ぎていくのは早い!とよく言っている。137億年の時の流れからすると<今>というのはあまりにも長い。なぜこんなにゆったりしているのか。そこにどんな意味があるのか。

Googleの音声入力は会話レベル

 Googleの音声入力は本当に面白い。脳から直接出力できる。ずっと、ICレコーダーを使ってきた。そこでは書き下ろし時に余分なフィルターが入り込りこむ。それがよかったり、悪かったりする。最後まで残る他者は Googleなのかな。

 ICレコーダーと異なり、FBでの入力は、若干かっこつけれる。

朝の時間の過ごし方

 紫は乃木坂の色 黄色はいくちゃんの色 ピンクはひめたんの色。ずっと、1時間以上、乃木坂情報を見ている。なんか眠たくなってきた。こうして午前中過ごすことが多くなってきた。布団に潜ってゆっくり喋れば、Googleは応えてくれる。

乃木坂のことを話す相手が欲しい

 コミュニティとしての乃木坂のことを話したい。相手は玲子さんぐらいしかいない。 唯一と言っていいでしょう。帰国した半年に一回の楽しみです。

 それも、日向ぼっこしながら。年寄りは嫌いです。

 横流しにした飛鳥はとっても、アジアン! アジアン・ビューティ。

そろそろ、海外に行きたい

 海外に行きたい。頭を空っぽにできるから。デルフォイと赤ピラミッドでは啓示を受けた。「行動するな考えよ!」「世界は変わる!」。その後を聞いてない。

哲学者は分かっている

 哲学者には存在に対する答えができている。だけど、哲学者はそれを言えない状況にある。池田晶子さんを見ていて、とそんな気がした。ハイアラーキーの力が哲学者の言動を妨げている 人類の未来のために、素直なわかりやすい心で言うべきです。その時には、いくちゃんみたいな人がハルージャの役割を果たしてくれる。

 第二次世界大戦、原子爆弾、それらのヒントを人類に与えたのに 未だに答えが見出せていない。哲学者はその答えを堂々と言い出す権利を持つ。

家族制度の変革

 哲学者がまず向き合わなきゃいけないのは家族制度でしょう。池田晶子さんは父親と向き合った。あまりにも不合理な世界がそこにあった。意味のない権力を否定した。これこそ、根本を突き進めある哲学者の態度。

 駅前のスタバではよく赤ん坊を連れた女性を見かける。豊田市ってこんなに赤ん坊いるんだという気になります。この意味を時々考えてしまう。あえて、子の風景をみさせているんでしょう。

 家族という名の国家。国家のため、家族のため。国家の位置付けを変えるならば、家族の位置付けも変わる。最小単位は自分。そこにはドラマは何もない。それらは多様化、グローバル化のカタチです。家族は 最低限のコミュニティになる。

スタバでのコンサル

 定年後に何をするかということでIさんから言われたことを時々思い出します。スタバでコンサルしたらどうですか。悩んでる人が多くいるし、スタバもお客様からのアイデアが必要なときです。座っていて話し相手になるだけでも十分なんです。

教育制度の変革

 一番難しいのは教育制度でしょうね。仕事は 家族制度が変われば マーケティングそのものが変わるから仕事の内容は当然変わる。教育制度はそうはいかない。

Google音声入力の変換コンテスト

 Google音声入力の変換コンテストがあれば面白そう。とてつもない変換が起こる。その因果関係。それを共有化して、入力の効率化を図っていく。これ自体で、M-1のネタができる。

孤独死の問題

 孤独死の問題として、後処理が大変となってる。それって問題か。
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1日5000人の学生が集まる明治大学図書館

『あの明治大学が、なぜ女子高生が選ぶNo.1になったのか?』より

 1日5000人の学生が集まる図書館

  こうした一連の取り組みのベースにあるのが、「学生目線」だ。土屋学長がインタビューで語っていた「すべては学生のため」を貫いてきたのである。だからこそ、一連の変革は可能になったのだともいえる。

  その象徴ともいえる存在が、和泉キャンパスにある。2007年度の終わりに計画され、2012年に開館し、全国の大学関係者からの見学が絶えない「和泉図書館」だ。徹底的な学生目線に立つことによって、大学図書館としての「あり方」を大きく変えてしまった。

  実際、いまの大学図書館はこんなにすごいのか、と驚かされてしまった。4階建て、約8800平米の図書館は、日本図書館協会建築賞、東京建築賞など、たくさんの賞を受賞している。

  約1万人が学生生活を過ごす和泉キャンパスだが、入館者数は実に1日5000人ほどになるという。試験期ともなれば、7000人を超えることもあるのだそうだ。図書館では、ノートPCを無料で借りることができる。

  実際、図書館の入り口に立っていると、学生がひっきりなしに入っていく。恥ずかしながら私など、大学時代に大学の図書館にほとんど行ったことがなかった。ところが、当たり前のように学生が図書館に入っていくのだ。明治大学の職員で学術・社会連携部和泉図書館事務長の折戸晶子氏は言う。

   「本を借りに来たり、資料を調べに来たり、勉強するために図書館を利用している学生はもちろん多いですが、そもそも居場所になっているんです。キャンパスの中に、居場所になる、いい場所がなかった。そこで、図書館を学生の居場所にしたかったんです」

  キャンパスに入って右手に図書館はあるが、全国から見学者が来る、というほどに外観にインパクトがあるわけではない。しかし、これもあえて狙ったことだったのだという。

   「カッコ良すぎてもダメ、貧弱でもダメ。高校から明治大学に入ってきたばかりの学生の目線に合った建物にしたかったんです」

  だからこそ、ひとつ、図書館の建て替えにあたって特徴的なことがあった。〝普通の図書館〟をつくる気はさらさらなかった。大学側の意向をよくわかってつくってくれる業者を選定したのだ。

   「誰が利用者なのか、という利用者に合わせた建物づくりにこだわりました。それは学生です。では、明治大学の学生を一番よく知っているのは誰か。職員である私だちなんです。そこで、私たちが感じていることと、設計会社の素敵なデザインをバランスよく融合しながら、つくっていったんです」

  2008年に建設委員会がつくられ、14ヵ月の設計期間と18ヵ月の工事期間を経て完成した新しい図書館は、以前とはまったく違ったものになった。

   「老朽化など、いろいろな理由はありますが、端的にいえば、いまの学習環境にそぐわなかったんです。昔の図書館は、いわゆる平たい机があって、椅子があって、本が並んでいるだけ、でした」

  明治大学の職員がっくりたかったのは、もっと学生が主体的に学べるような、学生たちがワクワクするような、そんな学習空間だった。

   「そうでないと、明治大学の学生は勉強しないんじやないか、と。でもいまは本当に学生さんがよく来てくれます。明治の学生は、よく勉強しますよ」

 いまの大学図書館はこんなにすごいのか!

  工夫は随所に散りばめられている。エントランスをガラス張りにすることで、明るく、入りやすい建物になっている。入り口の上は吹き抜けになっていて、空間の広がりが感じられる。全体の見晴らしがよく、奥まで見通せるのも、学生には入りやすさにつながる。

  ICの入った学生証でゲートを通ると、まず右手にあるのが、カウンター。

   「入ってすぐにカウンターがあって、人がいると安心できますよね」

  カウンターの裏手に事務室があるが、壁で仕切られずにガラスになっている。中からも、学生の様子が見られるように、という考え方からだ。

   「カウンターでの対応で、もし人数が足りなければ、すぐに応援に入ります」

  入ってすぐ、見上げて吹き抜けスペースの上に見えるのは、やはりガラスの向こうにいる大勢の学生たちがカラフルなインテリアに囲まれて会話している姿だ。

   「いまの学生には、1人で静かに勉強できる空間と、学生がコミュニケーションしたり、ディスカッションしたりする空間。2つの要素が必要なんです。だからこの図書館は、入り口から離れるほど静かな空間になるようつくられています。1階もエントランスは賑やかですが、奥に行くにつれて緩やかに音が静かになっていくよう設計されています。ソーニングを強く意識しているということです」

  実際、1階は奥に行くほど静かだ。そして2階、3階、4階と階を重ねるごとに、さらに静かなフロアになっていく。音が広がりそうな場所は、すべて二重ドアになっている。特に、「静かに」といった貼り紙が貼られているわけではない。勝手に静かになっているのだ。思わず、だんだん静かにしてしまうようなつくりになっているのである。

  そして入り口に近いコミュニケーションやディスカッションのゾーンでは、学生たちが賑やかに談笑したりしている。プロジェクターが完備された会議室のようなスペースが用意されており、予約すると学生たちはミーティングやディスカッションの場として使える。

  ちょうど、4人の2年生が部屋でミーティングをしていたので声をかけてみたら、情報コミュニケーション学部の次の授業でチームによるプレゼンテーションがあるのだという。そのための準備を、チームで行っていたのだ。

  パワーポイントを映し出せたり、より本番に近い感じで使えるので、活用しているという。授業の合間には、1人で勉強に来ることもあるそうだ。

  3、4階はじっくり勉強するスペース。直射日光ができるだけ入らないよう、ルーバーで日光を拡散させ、ほのかな日光が入るようになっている。

  居心地のいい空間をつくるためのライトの使い方にもこだわった。蛍光灯が使われているのは、書架の天板の上のライトとリーディングの下向きのライトだけ。天板の上のアッパーフイトで上を照らし、それが跳ね返ってきて空間全体をほんのり明るくしている。

  インテリアも、ホップな家具が置かれた1、2階から階を上がるごとにだんだんシックなものに変わっていく。中には、オリジナル設計のデスクもあるという。

  1人用の閲覧席にはきちんとパーテーションが設けられている。

   「実は上層階に行くほど、インテリアは四角くなっているんです。もしかすると、四角い形は、なんとなくここは静かなところだよ、と視覚でメッセージできているのかもしれません」

  2階から4階にかけての突き当たりには、積層集密書庫がある。ガラス張りにして、中の本が見えるようになっている。

   「昔の図書館では、この書庫は地下にあったんです。学生さんはなかなか地下に本があることは気づかないんですね。見学ツアーに連れて行ったりすると、こんなにたくさん本があるのか、と驚かれていて。そんな話を設計者にすると、じゃあこれはガラス張りにしたら、というアイディアが出てきたんです」

  ユニークなのは、図書館内がアシンメトリーになっていることだ。左右対称ではないのである。各フロアの書庫も、建物正面から見ると斜めに配置されている。だから、歩くと背表紙が目に入ってきて、本を探しやすい。これは、建物の形が偶然、そうさせたのだという。

  2階の奥には、戦前の文芸書の初版本など、貴重な本が保管されていた。学生も見ることができるという。

  現在の蔵書は35万冊。60万冊までは収容できるようになっている。館内はメールはOKだが、通話は禁止。なので、通話をするときのためのボックスがつくられていた。電卓を使って勉強をする学生用の部屋も別に用意されていた。

  コミュニケーションができるスペースを除いては、館内はとても静かで快適だった。本を読むためのものだろう。ゆったり座れる椅子も、いろいろな形のものが置かれていたが、ぐっすり眠り込んでいる学生もいた。光の加減といい、空調といい、静けさといい、ちょっと昼寝して休憩するのも、最適な場所になるのだ。

  もちろん勉強する場として、友達とコミュニケーションしたり、グループで討議したりするには、とてもいい環境だ。学生がひっきりなしに訪れるのも、合点がいく。

  開館は午前8時30分。閉館は夜10時。都市型大学だけに、この時間帯まで開館しているのだという。ちなみに、受験生の見学でも、この図書館はとても注目度が高いのだそうだ。

  和泉図書館ができて、実は多くの大学が図書館のリニューアルプロジェクトに乗り出した。これは図書館に限らずだが、明治大学はとにかくいろいろな大学にベンチマークされている。これぞ、というものはパクられるのだ。しかし、意に介している様子はない。もとより、積極的に情報を公開している。図書館も、もっといいものをどんどんつくっていってほしい、という。

   「大事なことは、誰のための図書館なのか、ということなんです。もし、駿河台に図書館をつくるなら、こうはならなかったと思います。3、4年生が過ごすキャンパスですから。ここは、文系の1、2年生が過ごす和泉キャンパスだから、こうなったんですね。その意味では、真似ることに意味はないんです。そういう話もよくします」

   とにかく利用者目線に立つ。和泉キャンパスの学生目線に立つ。こうして、驚きの図書館は、できあがったのである。
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ソーシャルメディアと政治参加

『入門メディア/コミュニケーション』より ソーシャルメディアと政治参加

何が人々をつなぐのか

 こうした事例では、ソーシャルメディアが市民の情報交換の場となり、討論の場を提供していた。一見するとソーシャルメディアが運動の原動力であるかのように映るが、実際のところソーシャルメディアは運動の潤滑油であった。

 一部の例ではあるものの前節で概観したように、ソーシャルメディアが定着する過程で、ネット上の言論を媒介し、ネットでの呼びかけが社会的な運動になるという事態が頻発するようになった。ソーシャルメディアが市民の情報交換の場となり、討論の場を提供していた。

 同時に抗議運動が発生すると、それに賛同する市民と反対する市民が形成されることも事実である。ソーシャルメディアがつなぐ抗議運動あるいはソーシャルメディアでの言論そのものが、社会における分断や分化を映し出す鏡となっている。社会の不安定性が増加し、政治的には将来に対する不確実性が高まるという傾向が見られるようになった。

 このように整理してみると、一見するとソーシャルメディアが運動の原動力であるかのように映るが、ソーシャルメディアには運動の潤滑油である面と社会を不安定にさせる面とがあることが分かる。本節では、ソーシャルメディアはどのような潤滑油なのかについて、やや抽象的な議論を行う。この作業は、本章のテーマである「ソーシャルメディアと政治参加」を考察する上で避けて通ることはできないと考えるからである。

 社会生活の中のメディア

  社会生活の中のメディアに着目して理論的な考察を加えた学者にニック・クドリーがいる。彼が2012年に出版した著作『メディア・社会・世界一社会理論とデジタル・メディアの実践』は、メディア利用者の日常的な行動とメディア利用の分析にあたり、社会的な文脈を重視するメディア理論の構築を試みている。

  クドリーは読者に疑問を投げかける。「人々は日常的な行動を起こす文脈の中で、メディアをどのように利用しているのだろうか」と。その上でクドリーは、日常生活ではメディアに関わるさまざまな意味構築があるという点を指摘している。そのために当たり前のことではあるが、日常生活には多様な「声」が存在しているのである。

  とりわけクドリーが注目するのは、1980年代以降に導入された新自由主義政策のもとで、社会、政治、経済の価値が市場原理に基づく価値として再定義されてきている実態である。新自由主義政策のもとで社会的な格差が拡大し、社会生活のさまざまな場面で競争、透明性、説明責任など新自由主義的な物差しが当たり前のように機能し始めている。一方で、そうした新しい物差しや価値に対して反対や抵抗する「声」が形成されてきていることも事実である。

  こうした状況で起こっているのは、新自由主義的な価値とそれに対抗する価値とのせめぎ合いである。そのせめぎ合いにソーシャルメディアに代表される新しいメディア環境が加わった。新七いメディアが多様な「声」を表明する場を提供したのである。

 感情と参加

  そうした多様な「声」が発現される場の一つとしてソーシャルメディアは位置づけられる。そうした「声」を市民の「感情」として捉えたのが、チチ・パパチャリッシの『感情的な人々』である。本書の中でパパチャリッシは、ソーシャルメディアがどのように市民にとって自らの意見や感情を表現する新しい方法となっているのかに関心を寄せ、その解明に努めている。彼女はそのことを「感情のソフトな構造」と名づけているが、そこでは次のようなことが起こる。すなわち、①ソーシャルメディアでの情報に接することで、現在起きている出来事の物語に自分も関係していると「感じる」、そして②TwitterやFacebookなどのソーシャルメディア上で入手可能な言葉、写真、ビデオに感情移入することで、自分が物語の一部に「なる」。

  このように私たちはマスメディアでのニュースやソーシャルメディアでの情報に接すると、「いま」身近なところで起こっている事案のことを知る。その事案に対して嫌悪感を感じても共感を持っても、身近痙出来事として「感じる」ことが第一歩となる。その次に、事案に対して共感する場合には、関連情報をソーシャルメディアで設定したり探したりするようになる。そうなると出来事が展開する物語を理解し、自ずと感情移入する。この状態が物語の一部に「なる」ということであり、そこでは自分も物語を構成する要素となるのである。

  パパチャリッシは、社会運動の展開の連鎖をもたらしているのは通信技術の発展ではなく、それぞれの運動についての語りと物語である、とする。ソーシャルメディアには、人々の感情を政治的な対話や行動に結びつける機能がある。ソーシャルメディアを通じて、個人的な感情が運動に関連するネットワーク化されたコミュニケーションの輪の中に取り込まれる、ということである。そのために、抗議運動などに関する対話を目にしたり耳にしたりしてそれに感情的に反応すること自体が政治的な発話となる。

  パパチャリッシはいう。オンラインの対話に参加し、そこでの対話の展開を追う行為自体が、運動の作る物語の中に入り込む行為であり、それによって人々に運動に参加している、つまり「政治に参加していると感じさせる」のである。

 歪なつながり

  ところが、政治に参加しているという感覚は、自由民主主義的な思想が想定したような市民の統合を生み出さなかった。オックスフォード英語辞典が2016年の言葉として「ポスト・トゥルース(post-truth)」を選んだ事実は象徴的であった。その定義は、客観的な事実よりも、感情や個人的信念に訴えるものが影響力を持つ状況とされている。この定義はソーシャルメディアと私たちの政治意識を考える際にも重くのしかかる。

  運動に共感し、オンラインを媒介にして運動の作る物語に参加するという行為は、一つの方向へ向かって人々をまとめる場合もあれば、逆にそこで作られた物語に共感できない人々を排除するという作用もある。これがソーシャルメディアを媒介にした社会や世界の分断状況を生み出すことも否定できない。

  つとに指摘されてきているように、インターネットの普及によってインターネットの世界に閉じこもる市民も増加している。そうした市民はネットを介しての他者とのつながりはあっても、それは自分の好みに合わせてカスタマイズされたつながりであるかもしれない。カスタマイズされた情報は、イーライ・パリサーの言葉を借りるとパーソナライズされた情報となる。インターネット上では自分が見たい情報だけをフィルタリングしてみせる環境が整っている。これによって情報がパーソナライズされるのだが、そうしたパーソナライゼーションによって(我々にういてコード1)が知っていることが我々のメディア環境を作り、そのメディア環境が未来における我々の好みを形成する」。

  そうなると私たちはネット上で情報を検索すればするほど、既知の情報の上に近い未来を見るということになってしまうという危険性が含まれることになる。そして自ずと自分の興味のある情報のみに接する状況に身を置くことになり、ネット上で見かける情報は自分の好みや主張に近いものばかりとなり、視野が狭くなっていく。それは自身の意見の先鋭化を生み出す。それだけではなく、自分とは異なる意見や主張には耳を傾けず、謙虚に学ぶ姿勢が失われていくことも意味する。

  このような個人の姿勢は異なる他者の排除につながることは指摘するまでもない。その結果、2016年には先進民主主義国家で社会の分断が鮮明になる事案が発生した。それは、イギリスでの欧州連合からの離脱を問う国民投票、同年アメリカでの大統領選挙でのトランプ候補の勝利である。そこでは市民の間での対話が成立しにくくなり、他者を理解するのではなく他者の意見に耳を傾けようともしない頑なな市民の姿が浮かび上がった。

  2016年のイギリスとアメリカの場合は、投票という民主主義制度にのっとった政治参加である。本来ならば手続き的には何の薩髄もなく選挙の結果を有権者たる市民は受け入れるべきである。ところが投票結果に不満を持つ市民の声は高まった。それが政府や政治に対する抗議運動を誘発する感情を強めた。そして民主社会があたかも分断されたかのような様相を呈したことは否定できない。そこには、ソーシャルメディアやネットを通じて互いを非難し、他者の意見を理解しようとしない市民の姿もあった。

  このように、歪なつながりもソーシャルメディアのもたらす政治参加の一つの帰結であるともいえる。自由な意見表明ができる場としてのソーシャルメディアの普及が、理性的な市民というよりも感情に左右されやすい市民を醸成しているという現実は重い。

新たな「我々」の構築へ向けて

 本章で見てきたように、ソーシャルメディアを通じて市民の政治参加の幅が広がったことは事実である。しかし同時に、ソーシャルメディアとインターネットは社会や世界の分断を助長している。

 いずれの場合も、それぞれの場では感情に基づいて行動する市民の姿がある。その感情が抗議運動に向かう場合もあれば、他者への差別と排除となることもある。そこには集合的なアイデンティティに関して、「友と敵」あるいは「我々と彼ら」という分類がある。それが現在の私たちの民主主義の姿である。

 しかしだからといって、暗く不安な未来が待っているわけではない。シャンタル・ムフが指摘するように、「我々」なる集合的なアイデンティティとは本質的なものではなく、政治的な実践を通して形成される。そう考えると、ソーシャルメディアが媒介となる政治参加の多様化と活性化は、他者との新しい関係を模索し、新しい「我々」を構築する契機となる。私たちの未来は私たち一人ひとりの意識と行動にかかっているのである。
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読みたくなる「地図」って何?

『読みたくなる「地図」』より

豊田

 段丘上の平坦面に巨大な車両組立工場が立地し、無数の自動車関連工場がそれを取り囲む。車両工場と部品工場とは幹線道路網によって相互に直結され、それに沿って大型店舗や集合住宅が配置される。このような場所が集まって、日本最大の「クルマのまち」を形作っているエ

 しかし多くの近代工業都市と同じように、100年前ここ、その面影はほとんどない。発端は1938年(昭和13)に遡る、その前年に豊田自動織機製作所から独立したトヨタ自動車工業が、当時の挙母町南部に広がる通称「論地ケ原」に、本格的な自動車量産工場(挙母工場、後の本社工場)の建設用地として約58万坪の土地を取得したことに始まる。

 この場所は、現在トヨタ町と呼ばれる。世界中で1年間にグループ全体で1千万台の自動車を生産し、25兆円以上を売り上げるトヨタ自動車の本拠地である。生産の拠点は他地域にも広がったが、本社・本社工場・トヨタ会館といった生産・管理の拠点と、トヨタ自動車労働組合会館・トヨタ生活協同組合・トヨタ記念病院といった重要な生活関連施設はいまでもこの付近に集積する。

 一方、トヨタ町から3kmほど北の矢作川右岸の沖積地に、豊田市役所の位置する挙母市街地がある。ここには、舟運を背景に17世紀初頭に陣屋が設置され、18世紀半ばから幕末まで挙母藩を治めた内藤氏2万石の居城があった。明治期以降は、流域の養蚕業を背景に繭の取引業や製糸業が興ったが、昭和初期には養蚕不況で経済的な活気を失っていたという。

 挙母町は、自動車産業に活路を見出し、その成長に伴って合併を繰り返しながら拡大してきた。

 1951年(昭和26)には市制を施行し、1959年に豊田市となった。2005年(平成17)には、大合併によって愛知県の5分の1の面積と42万人の人口を抱えるようになった。この間、低地と台地の2つの中心地をめぐっては、それぞれにマチとカイシャの物語がある。

 挙母市街地といえば、1970年代から80年代に、名古屋市に直通する名鉄豊田線や愛知環状鉄道が開通した。また、大規模な再開発か行われ、図書館・コンサートホール・オフィスなどを収めた複合ビルが建てられ、ホテルや百貨店が開業した。この再開発には紆余曲折が続いたが、ともかくも、新しいマチの顔を作ろうとする試みは始まった。

熊本

 京町台地の南端に、加藤清正が熊本城を築いてから、2007年で400年を迎えた。図39-1の南西に二本木という地名がみえるが、清正はここにあった商家や寺院を、白川と坪井川の間の地に移し、町づくりを始めた。この地は「古町」と称され、地図には唐人町通、細工町通、米屋町通、紺屋今町などの町名がみられる。古町は熊本城下特有の、方1町(60間)の区画に寺院を置く町割り(一町一寺制)が施されている。また、現在の古城町の西側にも、職人町通りの名がついた新たな町屋が見られるが、ここは「新町」と呼ばれ、いずれも、城下の重要な商いや取引、物づくりなどを生業とする人たちの住む町であった。

 細川氏入国後、54万石の城下町熊本は武家の数も増え、北部の京町や出町、北東部の坪井にも新たな町屋がつくられた。侍町は城内の二の丸のほか、城周辺の京町、内坪井、寺原、子飼、千反畑、高田原(現下通2丁目付近)、山崎、新町の一部など、城を囲むように配され、藩主邸は坪井川左岸の御花畑に置かれた。熊本城の東、白川対岸の新屋敷は、幕末に新しく形成された町並みである。

 城下町熊本は、1871年(明治4)に鎮西鎮台(本営は旧花畑藩邸)が設置されたことで、都市の機能や景観も軍都へと一変していく。 1873年に鎮西鎮台は熊本鎮台と改められ、その翌年には本営を熊本城の本丸に移している。また、1875年に歩兵が聯隊制をとると、歩兵第13聯隊が二の丸に、1876年には千葉城町に工兵第6小隊、桜馬場に砲兵第6大隊、二の丸に予備砲兵第3大隊、花畑町には歩兵第13聯隊が配置され、山崎町の旧武家屋敷地の大部分も練兵場に変わっていった。

 西南戦争(1877年)で城下の大半を焼失したが、翌年の「三新法」の制定で、従来の大区・小区制が廃止され、これにともない1879年1月20日に市街地の南、白川左岸の迎町と新屋敷町を加え、人口4.4万人の熊本区が誕生した。このとき、今日の中心市街地の輪郭が、ほぽ出来上がったといえよう。

 1889年(明治22)4月1日に熊本市(人口4.9万人)が誕生するが、熊本はこの後も軍都としての性格を強めていく。この前年に熊本鎮台は第6師団に改編され、城内と都心部の山崎町一帯は、軍の施設に占拠されることになった。当時の地元紙を見ると、「全市の中央、最も繁盛の見込みある地に於いて、広漠の練兵場をもうけ」と、これを皮肉り移転を促している、この1年前、古城にあった県庁と警察署が南干反畑に移転している。

 周辺に目を移してみると、九州鉄道が1891年(明治24)に熊本まで開通し、池田(現上熊本)と春日(現熊本)の両駅が営業を始めている。教育施設では、1889年に古城の第五高等中学校が、市街地北東端の飽田郡黒髪村に移転している。同校は1894年に第五高等学校となり、現在は熊本大学となっている。

 当時の市長、辛島格が市街地の東郊、大江村渡鹿に換地を取得し、批判の的となっていた練兵場の移転を完了したのは1900年(明治33)のことであった。この後、練兵場跡地の開発が進み、辛島市長の功績を讃えた辛島町をはじめ、練兵町、桜町、花畑町など、新しい町名も生まれている。しかし、山崎町の北側には、まだ市の都合で移転させることができなかった、歩兵第23聯隊が、広い面積を占有していた。なお。大江・渡鹿方面への兵営の移転は、1889年の千葉城町にあった工兵隊が最初で、以後、砲兵聯隊、騎兵第6聯隊と続いた。図39-1から、当時の状況が読み取れる。

 熊本市が近代都市として歩み出すのは、1921年の飽託郡11カ町村(黒髪・池田・花園・島崎・横手・古町・本山・本荘・春竹・大江村と春日町)との合併以後のことである。合併時の人口は12.5万人で、長崎市の人口17.7万人に次いで、九州第2の都市となった。さらに、4年後には出水村を編入し、人口も約13.9万人を数えた。熊本市は都市近代化の「三大事業」として、第23聯隊の移転と上水道の敷設、市電の開通を掲げ、新たな都市づくりに取り組んだ。1924年(大正13)には聯隊の渡鹿への移転が実現し、同年に市電も熊本駅~浄行寺間、水道町~水前寺間が開通、上水道の給水も始まった。軍の施設は、熊本城内を除けば市街地から姿を消し、都心部の整備が急速に進捗していった。この1年前、市役所の庁舎も旧監獄署跡に新しく建設されている。図39-3は、当時の状況を示したものである。

 昭和初期、託麻原台地が広がる熊本市の東部、とりわけ、市電の開通をみた水前寺方面への都市化は著しかった。郊外の発展にあわせるように、1931年~36年には白坪、画津、健軍、清水、力合、日吉、川尻などとの合併・編入で、さらに市域を拡張している。

 第二次世界大戦後、都市的土地利用の大きな変化に、軍施設跡地の転用がある。大江・渡鹿方面に広大な面積を有していた軍の跡地は、引き揚げ者や戦災者用の住宅地、熊本学園、日本たばこ産業の工場(当時)、警察学校、それに国立電波高等学校(現熊本大学大江総合運動場)にまた、広大な練兵場は開拓団の入植や公務員宿舎、県・市営の住宅団地などに転用されていった(図39-4)。 1953年6月26日の「熊本大水害」を契機に、健軍から水前寺にかけて住宅地化が一段と進み、熊本市の東部地区の変化は著しかった。

 1950年代半ば以降、日本が高度経済成長の時代を迎えると、東部地区の景観は大きく変貌していく。図39-2図幅の範囲外ではあるが、1965年には国道57号線東バイパスの工事が始まったり、67年には蚕糸試験場の跡地に県の新しい庁舎の完成をみている。 1980年代半ば以降の変化も著しく、1985年には出水2丁目に県立図書館が開設され、都心の千葉城町から移転している。翌年には、この隣接地に熊本総合体育館・熊本市総合青年会館(日本酒類工場跡地)も建設され、さらに周辺の住宅地化も進んでいった。

 市街地周辺部の発展だけでなく、都心地区の変化も目を見張るものがあった。1965年には、県庁跡に熊本交通センターがオープンし、バスターミナルのほか、地下商店街の熊本交通センタープラザやホテル、大型店舗の進出など、高次な商業・サービス機能の集積が著しかった。また、新市街から下通、手取本町、上通など、都心商店街の形成も格段に進んだ。県都熊本の成長は、熊本城内や周辺の整備にも及び、熊本合同庁舎、市民会館、県立美術館、市立博物館、県立総合体育館など、都心地区の構造的な骨格ができあがっていった。1977年には50万都市に成長し、81年には現在の市庁舎の完成をみている。都心商業地では、県外大型店の進出で、一時、地場資本との間で激しい抗争もみられたが、新市街から下通、手取本町、上通など、都心商店街の形成が一段と進んだ時期でもあった。

 1990年代以降、熊本都市圏(通勤・通学率が15%以上の市町村)も拡大の一途をたどっていった。郊外地域が発展する一方で、都心地区では人口の流出が続き、かつての商人・職人の町であった古町・新町では、空き地や駐車場、マンションなどが増え、空洞化が進むなかで歴史的な町並みも大きく変わりつつある。都心商業地は郊外化の影響を受け安泰とはいえないが、一方で、郊外のショッピングセンターにはない、アメニティや活力を持った場所である。熊本の都心商業地に目を向けると、1992年に駕町通りのアーケードが完成し、翌年、鶴屋ウイング館が開店している。シャワー通りはオシャレを演出し、個性的な上乃裏通りは多くのタウン情報を発信する。98年には上通商店街の新アーケードが完成をみ、2002年には、ぴぶれす熊日会館もオープンした。

 熊本市は2012年4月に、九州では福岡、北九州に次いで3番目の政令市となり、現在、人口は74.1万(2015年国勢調査)である。2011年3月に九州新幹線鹿児島ルートが全線開通し、これを契棲に駅前整備や熊本駅の再開発が進められている、また、熊本市中心部では、2019年を目処に大規模な複合施設を核とする桜町地区市街地再開発事業が進行している。

富山

 富山は、神通川が大きく蛇行する右岸に形成された城下町であった。対岸には愛宕町が町立てされ、北陸線富山駅が桜谷村牛島に設置されたため、明治以降、富山市街地は神通川の両岸にまたがって広がった。神通川はこの蛇行部でしばしば洪水をおこしたため、1901年(明治34)に神通川の直線化工事が始まった。この工事では現河道部分に細い水路を設け、洪水の力を利用して川幅を徐々に広げる工法がとられた。新河道が十分に広がった1921年(大正10)には蛇行部分は完全に閉め切られた。市街地を流れる松川は旧河道の痕跡を現在も残している。

 低湿な旧河道は未利用のまま、都市の発展を阻害した。これを活用するため、富山県初の都市計画事業が1930~35年(昭和5~10)に実施された。この計画では富山駅以北における旧河道部から神通川河口の東岩瀬まで富岩運河を掘削し、その掘削土で市街地中心部の旧河道を埋め立て、街区を整備した。新たに造成された街区には、県庁・銀行・電力会社をはじめとする中枢管理機能が立地し、県庁所在地のCBDとなると同時に、分断されていた市街地が一体化された。

 一方、富岩運河の開通は、沿岸への重化学工業の集積をもたらし、日本海側随一の工業地域が形成された。ここに立地したアルミニウムなどの非鉄金属工業は水力発電による安価な電力を立地因子とし、化学工業は近世以来の製薬業を基盤としていた。高度経済成長期において輸送の主力が道路に移行し、運河の機能は低下すると同時に水質の悪化が問題視された。しかし1980年代以降は親水空間として、運河の整備が進んだ。また、1998年には運河に設置された中島閘門が産業遺産として国の有形文化財に指定された。

 高度経済成長期以降、郊外では大型店舗の立地や住宅地の造成がなされた一方、市街地の空洞化が進展した。市街地人口は1960年代以降半減し、10校あった小学校は5校に統廃合された。また、住宅から転用された駐車場が全面積の10.6%を占めた、富山市で;よ市街地を良好な居住空間として再生する「まちなか居住推進計画]を2005年から推進中である。同計画は、コンパクトシティの理念に基づき、職住近接型型つ移動負荷の少ない市街地形成を目ざしている、そのため、市街地を走る路面電車を環状線化し、JR富山巷線を引き継いだ富山ライトレールと接続し、効率的な市内交通網を形成する予定である。
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