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トレードオフに対するプロの仕事

ベイルートを実際に見てみたい。

 2年前の「この日の思い出」を見る。

 レバノンの国旗にはレバノン杉が描かれている。人類の最初の環境破壊がメソポタミアから地中海沿岸にかけて生い繁っていたレバノン杉がの伐採による消失である。『世界の環境問題 第11巻』

本を探せ!

 『隷属なき道』人間がAIとロボットとの競争に負けると、「中流」は崩壊し、貧富の差は広がる。人々にただでお金を配る、週の労働時間を15時間にする…。オランダの新星ブレグマンが、機械への「隷属なき道」を行くための処方箋を示す。

 『サピエンス全史』アフリカでほそぼそと暮らしていたホモ・サピエンスが、食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。その答えを解く鍵は「虚構」にある-。人類史全体をたどることで、我々はどのような存在なのかを明らかにする。

 『裏切られた自由』第31代アメリカ大統領ハーバート・フーバーが第二次世界大戦の過程を詳細に検証した回顧録。元大統領が告発するアメリカの「責任」とは何か。従来の見方とは真っ向から対立する歴史観をもつ、第一級の史料。

フロント女性とグランパス

 豊田市図書館3階のフロントの女性がグランパスの服を着せられていた。尋ねたら、グランパスの入れ替え戦があるからだそうです。そういえば、去年、降格するときも確か、着せられいた。

日産とトヨタの差は大きい

 豊田スタジアムは乃木坂のいくちゃんが来れば行くんだけど。日産スタジアムではレミゼの歌を歌っていた。これが日産とトヨタの差なんでしょう。

「自由と平等」の関係

 「自由と平等」は、ハイアラキーの世界では、与えられるものとしてはトレードオフの関係です。だけど、自ら発する、配置の世界ではトレードオンです。それらは民主主義というフレームの中のことです。

 フレームを認識するのは哲学の世界で、フレームを変えれるのは数学の世界

トレードオフに対するプロの仕事

 発想の貧しいSEがいうのは、高くていいものがあります。安くて適当なものがあります。どちらにしますか。

 これはプロの言葉ではない。プロは本質的なものを見つけて、成り立つものを持ってきます。彼らだけを私は信頼した。

 エンジンの世界でも同じです。エミッションとドラビリと性能がトレードオフです。技術者はそこから答を見つけ出します。燃費がいいものほど、騒音対策できる。音が少ないものほど、エミッションがイイ。そういう世界です。その時に、ガソリンエンジンに拘ることはない。求めるなら、ベースから変えていけばいい。それがプロです

スターバックス再々生計画

 2011年のリーマンショック後のシュルツのスターバックス再生計画から時間が過ぎている。

 社員番号の頭二桁が「20」以降のスタッフに方向性を徹底する必要がある。君たちが価値を生み出してることを。お客様のために何をしたらいいのか、の知恵を提供してほしい。
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日米開戦の回避可能性を求めて

『戦争調査会』より

軍部の政治介入

 馬場は第四部会が調査すべき項目として、軍部による「言論抑圧とかその他非合法事件」を挙げる。「非合法事件」とは一九三二(昭和七)年の五・一五事件や一九三六年の二・二六事件のことである。同時に馬場は一九三三年の荒木(貞夫)陸相による「軍民離間に関する陸相談話」に言及する。馬場はこの談話の言論抑圧効果をつかのように表現している。「あれで新聞記者はびっくりしてしまった。あれは五・一五事件の翌年だが、それで黙ってしまった」。

 一九三一年九月一八日、中国東北部の奉天郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道を爆破した。この謀略事件をきっかけとして、満州事変は拡大する。翌年三月には傀儡国家=満州国が建国される。このような満州事変の拡大も万里の長城に接する線にまで到達すると、一区切りがつく。一九三三年五月に日中停戦協定が成立する。ここに満州事変にともなう対外危機は沈静に向かう。対外危機の沈静は国内で政党勢力の復活をもたらす。政党は軍事予算の削減を求めて軍部を批判するようになった。

 対する陸軍は、荒木陸相が一二月九日付でさきの談話を発表した。「この種軍民分離の運動は国防の根本をなす人心の和合結束を破壊する企図であって、軍部としては断じて黙視し得ざるところである」。

 馬場はこのように五・一五事件から一九三六年の二・二六事件へと軍部の政治介入が可能になった原因を探ろうとしていた。

国家主義の台頭

 渡辺幾治郎(元京都帝国大学教授、日本史専攻)委員も馬場と同様の観点からつぎのように述べている。「この会では結論は後にして、どうして国粋主義、国家主義のようなものが勃興したかというようなことをあらゆる方面から文書によって調査することを第一にしなければならない」。

 昭和戦前期は国粋主義者や国家主義者によるテロとクーデタ事件が連続する。たとえば一九三二年には「一人一殺」の要人暗殺をめざす国家主義者井上日召の主導の下で、血盟団事件が起きる。二月に前蔵相井上準之助、三月に三井合名会社の団琢磨がそれぞれ暗殺される。同年五月には民間右翼団体の愛郷塾が海軍の青年将校らとともに、テロとクーデタの未遂事件(五・一五事件)を引き起こす。翌年には神兵隊を自称する決起者による政友会と民政党の本部などを襲撃するクーデタ未遂事件が露見する。一九三五年には国家主義者たちが天皇機関説(事実上の政府公認の憲法学説)排撃運動を始める。一九三六年の陸軍部隊の反乱事件(二・二六事件)では国家主義者の北一輝が直接には関与しなかったものの、事件の中心人物として死刑に処せられる。渡辺幾治郎は同時代におけるこれらの事件の目撃者だった。

 青木も渡辺の考えに同調する。各委員の指示のもとで、部会の調査室が資料を集めて読む。青木はこれならばできると答えている。

 各部会の調査室はどのような資料を収集したのか。記録が残っているのは第二部会が収集した資料である。例示的に表題を記す。「十一月事件の全貌」「軍閥の暗躍」「日本右翼運動史(三) 政治的に進出せる軍部」などである。

 中村孝也(元東京帝国大学教授、日本史専攻)委員も、歴史研究者ならではの指摘をしている。「山中に入って山を見ずで、今われわれは山の中にいるから、全貌を見られない。時間的に、場所的に若干距離を隔てると、全貌が見える」。結論は後回しにして、さきに資料を集める。戦争に至る経緯の全体像は、時間と場所を隔てなくては描けない。中村はそう言っている。中村の言うとおりだとすれば、当時から約七〇年を経た今こそ、それらの資料を用いて全体像を描くべきだろう。

二つの日米開戦の回避可能性

 部会どとの検討のほかに、戦争調査会は連合部会を開催している。たとえば五月一三日は、第一・第二・第四部会の連合部会がおこなわれている。斎藤第一部会長に促されて、渡辺幾治郎委員が発言する。渡辺によれば日米開戦の回避可能性が二度あった。

 第一は一九四一年一〇月に近衛(文麿)内閣が倒れた直後である。もしもこの時、「陛下もその方に御傾きあらせられた」ように、東久濃宮(稔彦)内閣が成立していれば、「戦争にはならなかったであろう」。渡辺は伝聞推定を交えて指摘した。

 渡辺の指摘は間違っていない。たしかに近衛の後継に東久邇宮が目された。しかし皇族内閣といえども、対米開戦を回避できるとは限らなかった。対米開戦後、敗北するようなことになれば、累は直接、天皇に及ぶ。皇族内閣が軍部をコントロールできる保証はなかった。実際には東条内閣が成立した。東条は開戦を決意して首相の座に就いたのではなく、和戦両様の構えを示した。今日の研究水準に照らせば、開戦回避の可能性が東条内閣の下で模索されたことは、明らかである。東条は「お上〔天皇〕より日米交渉を白紙にもどしてやり直すこと、成るべく戦争にならぬ様に考慮すること等、仰せ出され、必謹之が実行」に当たる決意を固めている。戦争調査会が調べるべきは、皇族内閣が成立しなかった原因ではなく、東条内閣の対米開戦過程だった。

 渡辺によれば、もう一つの分岐点は、一九三九(昭和一四)年の平沼(騏一郎)内閣の退陣にともなう米内光政海相と山本五十六海軍次官の交代の時だった。平沼内閣の下で日独伊防共協定強化問題が争点になっていた。一九三六年の日独防共協定に翌年イタリアが加わる。この防共協定を同盟へと強化することを求める陸軍に対して、外務省が反対していた。米内海相と山本次官も外務省を支持して防共協定強化に反対の立場だった。このことを踏まえて渡辺は言う。「この海軍の大臣と次官がもう少し続いていたならば日独伊三国同盟は出来なかったと思う。三国同盟が出来なければ米国の感情もあれ程に悪化しないで、戦争を避ける機会があった」。

 渡辺はチャンスを逃したことを悔やむ。「成程山本さんが次官で、米内さんに智慧をつ永ふことけ、それを断行させれば理想的のもので、そのために三国同盟は出来なかったろう。洵に惜しいことであった」。

 なぜチャンスを逃したのか。渡辺は言う。「山本さんが次官になっていれば生命が危かったか。こういうところにいわゆる私共の言う当時の情勢というものがあった」。当時はテロとクーデタの時代だった。たとえば二・二六事件において内大臣で首相経験者の斎藤実(海軍大将)が暗殺されている。斎藤はロンドン海軍軍縮条約に賛成した海軍「穏健派」のひとりである。山本が次官になって三国同盟を阻止しようとすれば、命の危険があったことは容易に想像できる。

 二つのチャンスを逃しても、馬場に言わせれば、戦争回避の可能性は残されていた。馬場は指摘する。「岩畔(豪雄)少将がワシントンで日米交渉試案の成立談判に御尽力なさり、私共はあの試案が本当に真面目に採上げられて談判の基礎となったならば、日米開戦ということは避けられたと思う」。

 以上のように、戦争回避のチャンスは二つあった。それらを逃したあとも、馬場の指摘のとおりだとすれば、日米交渉による戦争回避の可能性があった。戦争調査会の議論では真珠湾攻撃の直前まで戦争回避の可能性があったことになる。ここでは戦争調査会の議論を確認するに留める。本当にぎりぎりの段階まで戦争回避の可能性があったのか否かは、第二部のⅦ章で検討することにしたい。

 この章のおわりに他の部会の議論について補足説明する。第二部会(軍事)は結局のところ一度も開催されなかった。第一部会(政治外交)と第五部会(科学技術)の単独開催の事実は確認できる。しかし残念なことに、戦争調査会の公刊資料全一五冊のなかに発見することはできない。

 それでもこれら二つの部会での議論は、連合部会や総会における各委員の発言から推測することが可能である。あるいは二つの部会の議事録がなくても、連合部会や総会における第一部会と第五部会の委員の発言を手がかりに考えれば、それで補うことができる。本章が第三部会と第四部会の議論の検討に終始したのは、このような理由からである。
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中国農民にとってのユニクロ

『食いつめものブルース』より

ユニクロの花嫁衣装

 上海では、日本のモノや食品が当たり前のように生活の中に入り込んでいる。二〇一七年現在、私が上海で借りている自宅から徒歩十分圏内に、牛丼のすき家が二軒、讃岐うどんの丸亀製麺、カレーのCOCO壱番屋、イタリアンのサイゼリヤがある。仕事が忙しくなってくると、私の夕食はこの四店のローテーションになる。

 単品だと味気ないし栄養のバランスも悪いので、例えばすき家であれば、とん汁とサラダが付いた定食を選ぶ。丸亀製麺であれば、日本で好物の大根おろしをのせる「おろしふっかけ」や、温泉たまごととろろいもの「温玉ぶっかけ」は残念ながらいずれも上海のメニューにはないので、肉うどんに野菜のかき揚げを付ける。サイゼリヤならチキンのチーズ焼きとルッコラのサラダ。これで、だいたいどの店でも一食三十元(四百九十円)前後になる。

 私を含め日本人の利用も少なくないが、夕食時、食事をしていた十分前後の間、店内にいたのは自分以外は全員中国人の若者や家族連れだった、ということの方がむしろ多い。日本製品というと、値段が高いので富裕層向けに売り込む、というような時代もあったが、日本の外食チェーンは、完全に庶民の食堂として上海で定着した感がある。

中国農民にとってのユニクロ

 外食産業と並んで現地に溶け込んでいるのがュニクロだ。私はあてもなくブラブラと散歩をするのが好きなので、靴下によく穴が開く。そこでユニクロの靴下をよく買う。日本では四足九百九十円+税で売られているお得なあのセットだ。中国も四足セットで販売されているのだが、値段は七十九元。日本引き落としのクレジットカードで購入したところ、一千三百五十円の請求が来た。日本で買うよりも割高だ。

 日本で買った方が安いという考えが働いてしまうので、私が主に買うのは靴下だけ。ただ中国人は当然、いちいち円換算などしないので、日本の外食チェーン同様、家族連れやカップルの買い物客で、いつもそこそこにぎわっている。

 ユニクロ中国のホームページを見ると、上海には二〇一七年六月時点で六十六店舗を展開。ユニクロを運営するファーストリテイリングが二〇一三年九月末、売り場面積約二千坪という同社として世界最大(当時)のグローバル旗艦店を、上海有数の繁華街である淮海中路にオープンしたことから見ても、同社が上海を重要な都市として位置付けていることが分かる。

 上海、北京、広州など中国で「一級都市」と呼ばれる大都会、とりわけ上海で、ユニクロは日本同様、普段使いのカジュアルとして認識されている。ところが、中国の地方都市や農村では、位置付けがいささか異なる。

 中国の農村や出稼ぎの人たちのことに私の目を開かせてくれた若い友人、チョウシュンは、自分の妻に花嫁衣装としてユニクロを着せた。

「ユニクロになら絶対にある」

 さて、なんとかお金のメドもつき、披露宴まであと数日、というところで、チョウシュンの母親が慌てだした。「臨月の体に合うウエディングドレスなどない。あつらえるにしても間に合わない。花嫁の衣装をどうするのよ!」

 中国では花嫁のことを「紅娘」と呼ぶ。最近では西洋式に純白のウエディングドレスを着るのが普通になったが、伝統的には花嫁衣装の色は赤。白のドレスを着ても、お色直しで赤も着る。伝統的な習慣や思想が色濃く残る農村で、お色直しをしないのであれば、花嫁衣装は赤が必須だ。

 だから、チョウシュン一家が考えたのはまず、何よりも色が赤だということ。そして、大きくせり出したお腹を優しく包んでくれ、質が良く、ゆめゆめ安っぽくなど見えず、さらに中国語で「時尚」、すなわち流行も取り入れた衣装はないものか、ということだった。

 ここで、チョウシュンの頭にふと、あるブランドが頭に浮かんだ。「そうだ、ユニクロに行けばあるんじやないか」。それを聞いた彼の母も、「そうか! ユニクロか! あそこにならありそうだ!」と叫んだのだという。

 彼の実家のある村は、その数年前に、蕪湖という市に併合されたのだが、その蕪湖の繁華街に二〇一二年九月、安徽省としては省都の合肥に次ぐ二番目の店としてユニクロがオトフンしていたのだった。

 当時を思い出してチョウシュンは言う。

  「妻に着せる服をどうするかと考えていたとき、上海で休日に遊びに行った繁華街にあったユニクロのことを思い出した。そのときに頭に浮かんだのはまず、ユニクロの服はカラフルだ、ということ。壁の棚いっぱいにカラフルなTシャツやジャケットのような上着をギューギュー詰めにして陳列しているでしょう? それにユニクロには、下着からスーツまで、ありとあらゆる商品がある。だから、ユニクロに行けば、奇麗な赤色をした、妊婦の花嫁が着てもおかしくないような服が見つかるんじやないか、と思った」

 チョウシュンたちが花嫁衣装を探して駆けずり回ったときは、安徽省の蕪湖にュニクロが開店してから約半年が経過したころだったのだが、彼の村でも、ほとんどの人が、ユニクロの存在を知っていたのだという。

  「ボク自身は上海で暮らしているから、ュニクロが日本のブランドだということは知っていた。ただ、ボクの田舎では、蕪湖店でユニクロを初めて知ったという人が大半だったようだが、ユニクロを外国のブランドだと認識している人は、当時も今も多くないよ。披露宴で妻の着ていた赤い服を見た親戚が『あれはどこの服だ』と聞くので、ュニクロだよ、日本のブランドだよと教えたら、『えっ、ユニクロって中国ブランドじゃないのか』って驚いていたから」

寛容な心の限界

 追い出されようとしている農民工が、食いつめものの境遇から脱したのかといえば、むしろ食えなくなっていることについてはここまでに書いてきた。

 為政者である習近平氏ももちろん、そのことに気づいている。


 中国の為政者たちは、スローガン好きだ。直近の三代を振り返ってみても、江沢民時代は「一つの代表」、胡錦濤時代は「科学的発展観」、そして習近平時代の今は「中国の夢」。

 前の二つの政権が打ち出したスローガンは、言葉を見ただけでは、何が言いたいのかがよく分からない。しかし、それでいいのである。十億を超す民を率いるためにはまず、皆が同じ方向を目指して進むための目標になるべき北極星が必要なのだ。理論的後付けは、走りながらやればいい。そして、スローガンの理論的肉付けを図り、最終的にもっともらしく見えるようにするために、国の知性を大量に動員できるところが、私は中国という国の底力だと思っている。

 前の二つの政権に比して、習氏が打ち出した「中華民族の復興」を唱える「中国の夢」というスローガンは、非常に分かりやすい。

  「中国共産党は、社会生産力、先進文化、人民の根本利益を代表するものでなければならない」とした「三つの代表」と、「科学的理論をもって社会の調和を図る」と主張した「科学的発展観」はいずれもインテリ層や権力層を意識していることがうかがえる。

 これに対して習氏の「中国の夢」が中華民族の復興を構成する三つの要素として挙げるのは「国家富強」「民族振興」「人民幸福」とシンプルだ。習氏の時代にあってようやく「強い中国」を語れる国力がついたという側面はあるが、一方で、知識層は、あからさまな中国礼賛に鼻白み冷ややかに見るものだ。

 私は習氏の「中国の夢」は、農民工に向けたものだと思っている。

  「明日は自分の番が来る」という夢から覚めかけている農民工を、今しばらく夢の世界に引き戻すための。

 そしてその狙いはこれまでのところ、有効に働いてきたように見える。

夢から覚め奔流になる農民工

 二十一世紀の新たな世界経済圏「一帯一路」でイニシアチブを取る強い中国。南沙諸島、西沙諸島の領土問題で一歩も引かない強い中国。世界に冠たる経済大国になった中国を目指して、世界に冠たる大企業やエリートが集まる豊かな中国。都会生まれの人間に比べれば自分の懐具合はいまひとつだけれども、それでも昔に比べれば暮らし向きは良くなったし、なにより自分は強い中国の一員なのだ。

 ただ、決して愚痴らず挫けなかった農民工たちが最近、愚痴をこぼすことが増えているのが、私には気がかりだ。明日は自分の番が来るという希望が揺らぎ始めている今、私がかつて感嘆した農民工の強靭なたくましさに鵬りが見え、都会人に比して圧倒的な不平等に耐えてきた無限にも思えた寛容の心も、もちろん無限などではなく限界があるのだということが見え始めた気がしてならない。

 中国の成長と繁栄を支えてきた大きな部分を、農民工たちの寛容が支えてきたのだということを、為政者はもちろん、中国の社会全体が、今以上に自覚的になった方がいい。そして不寛容になった上に、行き場を無くした食いつめものたちが、奔流となって暴れ狂った歴史が中国になかったわけではないことにも。

 「上海にいる農民工の生活が苦しくなっている? あーそうなのかもしれませんね」。都会人は中国に分断などまるで存在しないかのように、あくまでも呑気に言う。しかし、農民工の目に映る中国に分断は確実に存在し、都会人との間にある谷は、深さを増しつつある。社会の分断が欧州ヘアメリカヘとうねりのように世界に広がりつつある時代の潮流も相まって、中国で歴史が繰り返されるのを自らの目で見ることが絶対にないと断言する自信が、私にはなくなっている。そして習氏は言うだろう。「そんなこと、お前に言われなくてもわかっている」と。
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労働市場の経験:ヨーロッパ

『マンキュー マクロ経済学』より

労働市場の経験:ヨーロッパ

 ヨーロッパにおける失業の増大

  図7-6は、1960~2012年におけるヨーロッパの4つの大国、すなわちフランス、ドイツ、イタリア、イギリスの失業率を示している。一目みてわかるように、失業率は大きく上昇している。たとえばフランスでは、1960年代には平均して約2%だった失業率が、最近では8%超になっている。

  ヨーロッパの失業率が上昇した理由は何か。確かなことはわからないが、1つの有力な仮説がある。多くの経済学者は、長年にわたる政策と近年のショックが重なったことによって、ヨーロッパの失業率が上昇したと考えている。長年の政策とは、失業者への手厚い給付であり、近年のショックとは、熟練労働者と比較して未熟練労働者の需要が技術進歩によって減少したことである。

  よく知られているように、ヨーロッパ諸国の多くでは、失業者に対して手厚いプログラムが用意されている。そうしたプログラムには、社会保険、福祉国家、あるいは単に“the dole”(「施し」の意)など、いろいろな名前がつけられている。ヨーロッパの多くの国々では、アメリカと違って、失業者は給付をいつまでも受け続けることができる。ある意味では、そうした“the dole”に頼って暮らしている人々は、労働市場に参加していない。就業可能な雇用機会と比べると、失業しているほうが魅力的なのである。しかし、そうした人々も、政府統計においては失業者に算入されることが多い。

  また、未熟練労働者の需要が、熟練労働者の需要と比較して減少していることも明瞭である。この労働需要の変化は、おそらく技術変化によるものである。たとえば、コンピュータは、それを使える労働者の需要を増やしたが、使えない労働者の需要を減少させた。アメリカでは、この需要の変化は、失業数ではなく賃金に反映された。この20年間で、未熟練労働者の賃金は熟練労働者の賃金に比べて大きく低下した。しかし、ヨーロッパでは、福祉国家が未熟練労働者に対して低賃金労働の代替物を提供してきた。未熟練労働者の賃金が低下するにつれて、“the dole”を最適な選択とみなす労働者が増えていったのである。その結果が失業の増大であった。

  ヨーロッパの高失業に対するこの説明からは、単純な解決策はみえてこない。失業者に対する公的給付を減らせば、労働者は“the dole” から脱け出て、低賃金の職を受け入れるだろう。そうなれば、経済的不平等度は悪化する。しかしながら、経済的不平等こそは、福祉国家が対処しようとした根本問題なのである。

 ヨーロッパ内部での失業の相違

  ヨーロッパの労働市場は統一されたものではなく、多くの国ごとの労働市場がある。また、ヨーロッパの労働市場は、国境だけでなく文化や言語の相述によっても分離されている。労働市場に関する政策や制度は国ごとに異なっているので、ヨーロッパ内部における失業の相違からは、失業の原因に関する有益な見通しが得られる。そのため、そうした国際的な相違に関して、数多くの実証研究がなされてきた。

  注目すべき第1の事実は、各国間で失業率が顕著に違うということである。たとえば2014年3月時点で、アメリカの失業率は6.7%だったが、ドイツでは5.1%、スペインでは25.3%であった。近年はヨーロッパのほうがアメリカよりも平均失業率が高いが、アメリカよりも失業率の低い国に住んでいるヨーロッパ人も多い。

  興味深い第2の事実は、失業率の相違の大部分が、長期失業者に起因していることである。失業率は、労働力に対する1年未満の失業者の比率と1年以上の失業者の比率とに分けることができる。短期失業者の比率よりも長期失業者の比率のほうが、国ごとの相違が大きい。

  各国の失業率は、労働市場政策とも関係している。補償率(失業前の賃金に対する失業後の失業保険支払いの比率)が高い失業保険制度を持った国ほど、失業率が高い。さらに、失業保険給付が長期間にわたって受け取れる国ほど、失業率が高く、とくに長期の失業が多い。

  失業保険への政府支出が失業を高めているようにみえる一方で、「積極的な」労働市場政策への政府支出は失業を減らしているようにみえる。そうした積極的労働市場政策の例として、職業訓練や職探しの補助、雇用補助金などがある。たとえばスペインは歴史的に失業率が高い国だが、その事実は失業者への給付が高く、かつ職探しへの補助がきわめて小さいことで説明できる。

  労働組合の役割も、表7-1に示したように各国で異なっている。この事実も、労働市場の状況の相違を説明する一助となる。各国の失業率は、組合の団体交渉によって賃金が決定される労働者の比率と正の相関関係を持っている。しかし、労働組合の失業への影響は、労使の協調度が高い国々では小さい。おそらく、協調によって賃金への上昇圧力を緩和させることができているのだろう.

  念のためいっておくが、相関関係は因果関係を意味しない。したがって、上述のような実証結果の解釈には慎重でなければならない。とはいっても、それらの実証結果は、一国の失業率が不変のものではなく、その国の諸選択の関数であることを示唆しているのである10)

 ヨーロッパにおける余暇の増大

  ヨーロッパの高失業率は、たいていのヨーロッパ人はアメリカ人よりも労働時間が短いという、より大きな現象の一部分でもある。図7-7は、アメリカ、フランス、ドイツの労働者が平均して何時間働いているかを示している。1970年代には、どの国の労働時間もほぼ同じような水準であった。しかし、それ以降、アメリカの労働時間がほぼ一定の水準にとどまっているのに対して、ヨーロッパでは労働時間が顕著に減少した。現在では、平均的なアメリカ人は、ヨーロッパの2カ国の平均的な住人よりも、かなり多くの時間働いている。

  労働時間の相違は、2つの事実を反映している。第1に、アメリカの平均的な就労者は、ヨーロッパの平均的な就労者よりも年間労働時間が長い。たいていのヨーロッパの人の勤労週数は短く、休日も多いからである。第2に、アメリカのほうが、働ける人のなかでより高い割合の人々が就労している。つまり、就労者一人口比率は、ヨーロッパよりもアメリカのほうが高い。高失業率は、ヨーロッパの就労者一人口比率が低いことの一因となっている。もう1つの原因は、ヨーロッパの人の引退時期が早いことであり、結果として高齢者の労働市場参加率が低くなっている。

  そうした就労パターンの相違の根本的原因は何か。経済学者はいくつかの仮説を提示している.

  2004年にノーベル経済学賞を受賞したエドワード・プレスコットは、「アメリカと独仏との間にある労働供給の相違は、ほぼすべてが税制の違いに起因している」と論じた。この仮説は、以下の2つの事実と整合的である。(1)ヨーロッパの人はアメリカ人よりも高い税率に直面している。(2)ヨーロッパの税率は、ここ数十年で大きく引き上げられた。これらの事実を、税金が労働に影響を与えることの有力な証拠であるとみなす経済学者もいる。しかし、こうした主張に賛同しない人々もいて、労働時間の相違を税率だけで説明するには、労働供給の異常に大きな弾力性が必要であると論じている。

  関連する仮説として、観察された労働努力の違いは地下経済に起因するというものもある。税率が高いと、人々は税金を免れるために、「帳簿外で」働くインセンティブが高まる。当然のことだが、地下経済に関するデータは入手が難しい。しかし、このテーマを研究している経済学者たちは、アメリカよりもヨーロッパのほうが地下経済の規模が大きいと考えている。この点を考慮すると、地下経済での就労を含めた実際の労働時間の相違は、計測された労働時間の相違よりも小さいことが示唆される。

  労働組合の役割を強調する仮説もある。本章でもみたように、アメリカよりもヨーロッパの労働市場のほうが、団体交渉の重要性が高い。労働組合は、労使交渉において労働日数の削減を要求することが多いし、休日の新設のようなさまざまな労働市場規制を政府に働きかけることもある。アルベルト・アレシナ、エドワード・グレーサーやブルース・サセルドーテといった経済学者は、「公的な(強制的な)休日の相違が欧米間の勤労週数の相違の80%を説明できるし、両地域間の総労働供給の相違の30%を説明できる」と論じている。国際比較でみると税率と(労組)組織化率は正の相関関係にあり、高税率の影響と高組織化率の影響とを識別することは難しいので、プレスコットは税制の役割を強調しすぎたのだろうと、彼らは示唆している。

  最後の仮説は、選好が異なる可能性を強調するものである。技術進歩と経済成長によってどの先進国も豊かになったので、人々はその豊かさを、より多くの財・サービスの消費という形とより多くの余暇という形の、どちらで享受するかの選択に迫られているというのである。経済学者オリビエ・ブランシャールによると、「ヨーロッパでは生産性の向上を利用して所得よりも余暇を増やし、アメリカではその逆を行ったことが、欧米両大陸間の主要な相違である」。ブランシャールは、ヨーロッパの人はアメリカ人よりも余暇を好むだけだと信じている(アメリカで働くフランス人経済学者として、彼はこうした現象に対して特別な識見を持っているのかもしれない)。もしブランシャールが正しければ、今度は地域によって選好が異なるのはなぜかという、より困難な問題が浮上してくる。

  経済学者は、こうした諸仮説の妥当性について論争を続けている。結局のところ、どの仮説にもそれなりの正当性があるのかもしれない。
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