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本の最大の欠点

ということは、奥さんはは64か

 4年前 この日の思い出を見る。奥さんが還暦っていうのは、変な感じですね。

本の最大の欠点

 本の最大の欠点は一冊になってること。作者にとっては一冊かもしれんけど、読む方にとってはバラバラ。トルストイのように、作者の全てを知りたいと言うなら、それでもいいけど、本の「作者」はほとんど存在しない。作者が広いところから集めてきたものを展開してるだけ。それが後ろめたい人は、参考文献として表してる。ページ数まで表記している。だれも検証しないのに、意味のないことをしている。

 電子書籍の最大の利点です。それは電子書籍をいかにバラバラにするか、いかに統合するエンジンを作るか。ただし、統合は多様化です。その人にとっての統合であるべきです。

本の引用に対する二つの考え方

 本の引用に関しては、二つの考え方がある。一つはテッドネルソンの「ザナドゥ空間」。ビルゲイツがMicrosoftを作った頃に発表された空間。全ての著作物の内容の因果関係を著す。もう一つはGoogleを起こしたペイジが参照関係で、検索の意味をシステム化した。図書館学からヒントを得た素晴らしいロジックです。

 二人のイメージしている本はリアルではない。電子書籍でバラバラにされたもの。それを自分たちなりに統合できるシステム、それで知を表そうとするもの。音楽も哲学も思い出も、皆、分化と統合でできてる。

多様な人間が社会を作る

 次にその多様な人間をどのように統合して、どのような社会を作るのか。

奥さんの誕生日ケーキ

 さて、奥さんの誕生日ケーキを買いに行きましょう。苺のクリスマスケーキだけは避けないと。ややこしい日に生まれたもんです。文句を言ったら60年以上、コレでやってきたと言われた。

いくちゃんがソロコンが気になる

 いくちゃんがソロコンで何をするのかな。それが一番の関心事。まさかフィンランド民謡ってやんないよね。クリスマスだからやるかもしれんな。ロバニエミには本物のサンタさんがいるから。私は写真代が高かったから、握手しなかったけど。

 マスクをした、サンタコスのいくちゃん 多分大きなマスクで、目だけが見える感じでしょう。目だけで全てが表現できる人だから、サンタとそんな会話できるのは楽しいでしょう。

ロバニエミのサンタクロース村の郵便局

 サンタクロースの村の郵便局から出したクリスマスカードは未だにアテネの玲ちゃんには届いていない。ちゃんと配って下さい。

真っ正面から転けた

 スーパーの駐車場の車止めに正面からこけた。衝撃に対して、怪我が少ない。たぶん後から出てくるでしょうね。車があるから車止めがあるんだ。そう考えると「車は悪」です。胸ポケットに入れた、スマホが壊れなくて本当よかった。奥さんは「次がない」と言われている。すべてのコンテンツはこの中に入れているので、「知の入口」を閉じるわけにはいかない。

年末年始の本の扱い

 3週間図書館がない。その間を利用して、自分のジャンルを漁ります。図書館システムには、15年ぐらいは渡って、抜き出した本がNDC順に並んでいる。

 図書館に行くのは火曜日か水曜日ですね。借りれるだけ借りましょう。目標はその棚の一部が明確になくなること。その中から魅力的な棚を見つけます。来週の水曜日で40冊確保します。図書館のリアルさの活用です。

ブログコメント数

 2日前のひめたんブログコメント数は5555。昨日のまりっかのブログコメント数は4800。ともに一つ一つのコメントが長い。思いを全て出している。ひめたんが休止した時は1万を超えていた。運営の検閲が入って、この量はすごい。
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インフラとしてのデジタル情報ネットワーク

『情報リテラシーのための図書館』より 情報リテラシーの回路

知のネットワークとレファレンス

 第3章で見た情報リテラシーの過程に戻ってみよう。書物や雑誌、あるいはネット上に含まれるコンテンツはデータとか情報とか知識と呼ばれるが、情報リテラシー過程においてはこれらが「事実」「情報」「理解」「知識」「知恵」として階層的過程の要素のひとつひとつとなっていた。あるコンテンツがどれに当たるかは、受け取る方がそれをどのように受け止め、どのように用いるのかによって決定されるということだった。

 情報リテラシーの構図で考えておくべきことは、知のコンテンツは相互に参照すべきネットワークになっていることの確認である。学術論文では必ず参照したり引用したりした文献(先行研究)や資料をリスト化して示す。これは、学術的な知が先行研究を土台にして自分の研究成果や知見を加えるものであるという相互了解があるからである。情報リテラシーの階層において、何らかの素材(コンテンツ)をもとに次の階梯に上ることにより、そのコンテンツをきちんと参照したり引用したりすることで、それが互いにどのような階梯に置かれたものであるのかが見えるようになり、知の構造が透けて見えやすいものになる。前に見たように、ウィキペディアはそれを前提に一つの大きな百科事典をつくる仕組みだ。同様に、学術論文に限らず日常的な知的作業はすべてこういうレファレンスのネットワークを目に見えるようにすることが原則である。

 日本民俗学の開拓者とされる柳田國男は、大学を卒業し農商務省に任官して以来、全国の農村を歩きながら自分の学問の基礎をつくっていった。私的に郷土会を立ち上げた1910年に、彼は内閣書記官記録課長を兼務し内閣文庫の担当になる。内閣文庫は先に触れたように、江戸城の紅葉山文庫本をはじめとして、政府が所有する図書を集めて政府図書館をつくることを意図したものである。ここで書籍資料を管理し、また、自らも利用する体験は彼のその後の知的世界の構築に大きな影響を与えた。

 柳田は、自らが足で歩いて見聞したものを書きとめたフィールドワークの記録の組織化を重視するだけでなく、そうした資料を蓄積して相互利用するための学術的な装置の重要性を早くから指摘していた。『定本柳田國男集』(全31巻・別巻5巻、筑摩書房、1962-1971年)は彼の膨大な著作全体を総覧できる全集であるが、最終巻(別巻5)は500ページにわたる全著作の総索引となっている。これを使うことによって、彼の著作の個々の部分にアク七スすることが可能になる。彼は、日本の学術が、その成果を競い、学説や学派をまとめて出版するということには力を入れていても、資料の共有や利用についてはあまり関心をもっていないことを批判した。総索引は彼の学問方法の基本に関わるものを目に見える形にしたものである。

 歴史社会学者佐藤健二は、この柳田の書物や資料に対する見方の検討をもとにして、次のように述べる。ひとはなぜ、自らの記憶とそれをつかいこなすために、それぞれに固有の索引をつくりあげなければならないのか。知がもつ本源的な力が、そうした関係性のなかにしか宿りようがないからである。つまり経験を引用する索引の構築過程こそが、分類わけであると同時に関係づけの実践であり、記憶とここで呼ぶ知の本体である。記されたもの、書かれたものとしての実在は、知るという実践を意味しない、その痕跡にすぎず効果にすぎない。むしろ、記すこと、書くこと、いや、読むことの形式こそ、知るという実践にとって本源的である。

 情報リテラシーは、このような知の相互関係を示す索引(本書ではレファレンス=参照行為)を利用し、痕跡にすぎないコンテンツをいかにひとりひとりの学び手が自分のものとして読み、書き、語るかを問題にしている。柳田國男は、その意味で日本的な知の世界が業績主義と啓蒙主義に浸っているのを見て、江戸以来の知のレファレンスによる実証主義を復権させようとした人ということができるだろう。彼の索引や引用の思想は、屋代弘賢『古今要覧稿』や塙保己『群書類従』の系譜に連なるものである。

 学習指導要領に基づく教育課程や国民的教養のように、伝えるべき知識の枠組みがあらかじめ決定されているという立場をとらず、これが柔軟に相互関係のなかでっくり出されるというのが情報リテラシーの考え方である。だからこそ、情報リテラシーを支援するための、図書館を中心とするコンテンツ利用のための知的装置の位置付けが重要になってくる。図書館は、国民的教養や学習指導要領の構図に取って代わるものとして、批判的思考を前提とした情報リテラシーを実現する装置である。

 第5章で述べたように、日本での公立図書館の発展は1960年代以降にもちこされた。それから半世紀が過ぎて図書館はようやく社会において認知され始めている。これは、教育文化が社会に定着するのにかなりのタイムラグを伴うことを示している。とすれば、学校教育に図書館を組み込む過程にまた数十年の月日がかかることも覚悟しなければならない。

著作権という制度

 日本の著作権法32条には「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」と明記してある。コンテンツのうち公表された著作物を利用するには慣行で行われている範囲においてしかできない。ここにある報道、批評、研究は決して専門家が行う行為に限定されているわけではなく、ネットでの発信、教室での発表や議論、サークルや会合の場などにおいてもあてはまるものである。引用は、それが著作物の一部からの引用であることが分かるように表示することが慣行になっている。著作物に書かれた表現や主張を要約して示す、参照についても引用にあたると考えられる。つまり、著作権法には、他者の知的コンテンツを利用する際のルールを規定しているという意味で、情報リテラシーの考え方が最初から含まれていたのである。

 知的創造物である著作物は万人がアクセスできるようにすべきであるというのが情報リテラシーの前提にあった。しかしながら、著作物もまたビジネス取り引きの対象になる社会において、著作者の権利である複製権や貸与権、上映権、演奏権などは尊重される。とはいえ、それだとコンテンツ利用にあたってあまりにも窮屈であることから、法的に著作権が発生しない著作物があったり、著作権を制限する場合があったりする。著作物の引用や著作物の私的使用を目的とした複製、図書館における複製といったものがそれにあたるが、これらも一定の条件のもとに可能になる。

 近年、ネット上のキュレーション・サイトと呼ばれる、情報を集めてまとめて示すサイトの無責任な運営が批判され、いくつかの問題が指摘された。一つは、それがネット上のさまざまなコンテンツを無断引用あるいは参照していたことである。これは著作権法上の違法行為になる。また、内容についての責任の問題もある。健康や医療、福祉などのコンテンツの編集において何らの専門知識も検証もなしに示すことで無用の誤解を与える可能性があったということである。コンテンツによってはスポンサーがついていて、特定の商品に導かれる可能性があった。つまり、情報リテラシーの考え方からいえば、まったくそれに反するものであったということである。

 前にみたウィキペディアでも、項目によっては著作権侵害の可能性や誤った記述などのさまざまな問題を抱えているが、これには自らそれを修正していく仕組みが備わっている。しかしながらキュレーションの手法はそうした過程を省いて知を濫用する可能性をはらんでいた。ネット上の情報の信頼性は常に自らの情報リテラシー能力を最大に発揮して判断することでしか得られない。

紙の書籍と電子書籍の違い

 15世紀に金属活字による活版印刷術が開始されて以降、大量部数出版がリテラシーの重要な要件になっていたことは確かである。書物および雑誌や新聞等が普及し、同一内容のものが多数印刷され、それが輸送網によって広い範囲で比較的安価に手に入ることになった。それに加えて、紙の印刷本のすぐれた点として、持ち運びの七やすさ、見開きによる一覧性と読みやすさ、ページを繰る行為によるコンテンツヘのランダムアクセス性、保存性の高さ、精細な印刷技術による表現性などを挙げることができる。

 これらの性質の一部はネット環境の発達によって電子書籍として実現されることになった。身近な機器で読めるという利便性は高く、配送のためのコストと速度に関しては紙の書籍には及びもつかないものがある。また、検索を通じて個々のコンテンツの部分に対するアクセス性も高い。だが、それ以外の性質については、紙のものを電子的なものに置き換えることは簡単ではない。

 たとえば保存性は、普通に用いられているデジタルのファイル形式によって電子的に蓄積することができれば実現できそうに見えるが、ファイル形式や、磁気や電子メモリによる媒体にどれだけの寿命があるのかは疑問である。それもハードだけでなくソフトの寿命もある。時代が変わるとどちらも変化していくので古い形式のものを新しいものに変換したり、古い媒体から新しい媒体へ複製したりすることが必要になる。過去、音声や映像を記録した磁気テープやフィルムベースのメディアが新しく開発されるはしから古いものが使えなくなっていったことを考えてみればよい。

 表現性、一覧性と読みやすさ、そして、ランダムアクセス性なども技術的に克服できそうにも見える。しかしながら、仮に可能になったとしてソフトウェア、ハードウェアの違いから紙の書籍が提供するものとは異なったものにならざるをえない。紙の本をパラパラめくって好きなページを眺めることは擬似的にシミュレートできるようになるかもしれないが、紙の質感をそのまま表現することは決してできない。

 本に書き込まれているテキストは文字の集合体であり、直線的な連なりをもっている。しかしながら、読みは必ずしも直線的ではない。あるところまで読んで、もうコ度前の関連する記述に戻って確認することがある。同時に複数のページを読み比べたいと思うこともある。結論部分やあとがきを最初に読んで、本文を読み始めることがある。知はコンテンツとコンテンツをつなぐネットワーク構造をもっていると述べたが、私たちが本を読むときにはこのネットワーク構造を意識的無意識的に利用しているのである。

 読むことは著者との対話であり、書く行為とは自分がもつ知のネットワークを直線的に表現することである。だから、書く際には自分が書いたものを常に参照している。まして未知の書き手のネットワークと対峙する読書においては、読み手は、著者の知のネットワークを再現するために参照行為を繰り返すことが必要になるわけだ。一貫したストーリー性をもったフィクションなら読みは直線的かといえばそうではない。いちいち前に戻らなくとも、物語的空間を自分のなかにネットワークとしてもちながらそれを参照しているのだ。

 だからこそ参照する際にページをめくるという行為は何よりも重要になる。それがぱらぱらと思ったようなページにいければよい。これがスムースにいかないとネットワークをつくることができない。もちろん目次や索引はこうした読みを支援するための工夫である。今のところ電子書籍は、連続的な版面を提供し、目次や索引を用いたアク七ス機能には優れているが、そうした身体的な参照行為をシミュレートすることはできていない。このように、電子書籍と紙の書籍は似て非なるものである。

デジタル時代における「本」

 印刷本はすでに700年の歴史をもつメディアであるのに対して、電子書籍はできたばかりのものであり、それも本の部分的なシミュレーションにすぎないのだ。今後もコンテンツと市場に合わせて、電子書籍だけのものと紙の書籍だけのもの、そして両方が出るものが併存する状況が続くだろう。それは、パッケージビデオやネットワークビデオが現れてどこででも映画作品が見られるからといって、映画館での映画鑑賞行為がなくなってはいないことと類似のことである。

 電子書籍で重要なのは誰でもが発信者になれることである。以前にも自費出版はあったのだがその流通範囲は狭く、一般的に書籍出版は編集者があいだに入ることで行われてきた。紙の出版には一定の費用がかかるから、そのコンテンツとしての質と市場的価値を見極めて投資するのが編集者および出版者の役割である。他方、電子書籍は多くの費用をかけずとも、著者が直接、発信することが可能である。

 それにより、ネット上に無数の電子書籍が生み出されることになった。ネット上に発信されるコンテンツはすべて電子出版物と言ってよい。オンライン小説やブログ、ソーシャル・ネットワーキング・サービス、電子掲示板、写真、音楽、動画の共有サイトなどである。そこにおいては、種類(テキスト、画像、音声、動画、そしてそれらの組み合わせ。さらにそれぞれ複数のファイル形式があり、提供形式(ファイルのダウンロードかストリーミングか)、長いか短いか、名義(実名・ペンネーム、匿名)、有料・無料、閲覧方法などにかかわらず、きわめて多様なコンテンツがある。これらを書籍という人はいないが、書き言葉の塊である書籍と他の表現によるコンテンツのあいだに明確な境目はなくなりつつある。

 書籍のコンテンツがデジタル情報空間に溶け出したのだとも言えるが、それでも紙の書籍と対応する電子書籍は存在している。そうした電子書籍を読むためのハードウェアは、スマートフォン、電子タブレット、PC、そして専用端末であるが、いずれも一長一短があってどれが主流になるのかはっきりしない段階である。こうしたことを考えると、電子的な商業出版物を市場に載せるのはたいへん難しい。

 図書館は商業的な電子書籍出版にとっても一定の市場を形成することになるだろう。紙の出版物は再販制の縛りがあって、図書館のように同一書に複数の読み手の存在が想定されるものでも、同一の市場価格で提供されていた。だから、図書館が複本を置いて無料で大量の貸し出しをすることに批判が向けられた。しかしながら、電子書籍については再販制の縛りがとれてその利用形態(館内利用か、地域の利用者もオンラインで利用可能か)に応じた契約料を課すことができる。これにより、公的あるいは共同的な機関としての図書館は、それなりの購読料を支払って、これを利用者に提供する。図書館が、デジタルネットワーク社会における書籍供給においても一定の役割を果たすわけだ。すでに紙の書籍出版でも、図書館の購入をみこんだ市場が形成されている領域が学術書や児童書などに見られるが、今後、その領域はもっと増えていくのだろう。
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フロー情報とストック情報

『情報リテラシーのための図書館』より 読書大国からネット社会へ

読書大国からネット社会へ

情報シャワー

 現代人は、膨大な情報のシャワーを常に浴び続けている。

 テレビは同時に多チャンネルで多様な番組を24時間送り届けている。新聞は朝刊、夕刊が届けられ、朝刊は20ページ以上あって、そこには多数の折り込み広告が挟み込まれる。

 ネットには、それこそありとあらゆる情報が常に更新されつつ存在している。個人的なコミュニケーションのツールであるメール、IP電話などに加えて、ウェブ、ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)、電子掲示板(BBS)、チャット等々のサービスを通じて情報にアクセスすることができる。

 テレビや新聞のような既成のメディアも同時にネットでウェブページを通じて情報を送っている。スマートフォンはネット情報にさらに手軽にアクセスするための携帯用の機器であって、どこにいても好きな情報を取り出すことができる。

 それらに限らない。街を歩けば、多種多様な看板、広告を目にすることになるし、チラシ配りの人がいて歩く人に広告的な情報を配布している。最近は巨大なデジタル電光掲示板があって目に付く。電車に乗ってもバスに乗っても、吊り広告、ポスター、液晶モニターなどで、その交通機関の情報だけでなく、広告的な情報が流されている。

 家に帰れば、さまざまな郵便物が届けられている。また、町内会や自治会などを通してチラシやニューズレターの類が廻されてくる。何らかの団体に所属していると、そこから送られてくる印刷物(会報、雑誌など)の量はばかにならない。ダイレクトメールの類も多数に上る。

 これらのなかには、紙媒体のものあるいは電波媒体のものと、ネットで送られるものが重複している場合もある。これは送り手からすれば二度手間になるのだが、現在はまだメディアの移行期であってどちらかしか見ない人がいるからである。

 こうした大量の情報のシャワーのなかで、私たちが本気で見たり、読んだりするものはそれほど多くはない。瞬間瞬間に必要かどうかの判断をし、必要なものにはアクセスするが、それ以外は無視する。そうしなければ情報の海におぼれてしまうからだ。だから、多くの情報は垂れ流しの状態にあると言える。

 しかしながら、何をもって必要かそうでないかを判断するのであろうか。日常で行う習慣的行為であるがゆえに、その基準を自分のなかでどのようにつくっていくのかが問われることになる。だが、私たちがこうしたメディア状況の存在を前提にしてそれほど悩まずに暮らしていけるのは、必要なときに、必要な情報を取り出すことはそれほど困難ではないと考えているからである。

検索エンジンの仕組みと限界

 インターネットに必要な情報の多くがあると考えられている現在、それを可能にしているものが、前にも言及したネット検索のための検索エンジンである。その仕組みを考えてみよう。

 そもそも現在のインターネットは World Wide Web(WWW)と呼ばれるソフトウェア技術が発達したことによって爆発的に普及した。WWWはネット上にあるコンピュータ同士が通信する際の手順であるプロトコルをさらに結びつける方法の一つで、hyperText Markup Language(HTML)という記述言語を用いる。HTMLの(イパーテキストというのは、テキストを書き込むだけでなく、そこに他のテキストや画像、映像、音声等のコンテンツヘのリンクを埋め込んだり、見出しや段落といったテキストを表現したり、フォントや文字色などの見た目を指定したりできるものである。WWWでHTMLを用いると、リンクがネットワーク上の他のコンピュータにあるテキストや画像などのコンテンツを指定することができる。そのわかりやすさと汎用性が評価されて標準的なものになったし、世界中のコンテンツを網のように相互に結びつけることを可能にした。

 検索エンジンはこの仕組みを使って、世界中のコンテンツに対して検索をかけるものである。これには主としてロボット型とディレクトリ型の2種類がある。ロボット型とは、まずクローラーと呼ばれるソフトウェアによって、ネット上にあるコンテンツをそのリンクごと事前に網羅的に収集する。このようにして蓄積したものから巨大なデータベースをつくり、これに対して検索をかけるというものである。収集したページは事前に解析して検索用の索引情報(タグという)を付与する。通常、検索エンジンと言えば、キーワードを検索窓に入力すると関連ページが返されるこの方式のことを指す。

 インターネットには無数の情報が蓄積されているが、一般的な使い方として、ホームページに直接アクセスしてそのトップページにある情報を見るか、ロボット型検索エンジンによって任意の情報を取り出すかのいずれかの利用の仕方をするものである。どちらにしても、情報の送り手あるいは検索エンジンが事前に用意した断片的な情報を見ているにすぎない。この過程は一見すると、図書館での資料収集と組織化、提供の過程と似ている。検索エンジンもクローラーでネットサイトにあるページコンテンツを集め、組織化し、検索をかける。だが、長い時間をかけてルールを定めてきた図書館の手法と違って、始まって間もない検索エンジンでは、技術的にも実際的にも困難さがつきまとっている。

 まず、クローラーの収集範囲をどのように定めるか、文字の言語をどのように識別するか、同じ文字でも文字コードが違うものをどのように識別するかといった収集上の問題がある。

 第二に、組織化に関わっては、コンピュータはとってきたコンテンツに対して検索を行うのだが、その際に全文に対して最初から順に検索をかけるのでは効率が悪いので、事前に索引化しておく手法が一般的である。索引作成にはさまざまな手法があるが、いずれも文字情報を機械的に処理するものであるので、さまざまな無駄や誤りがつきまとう。単語をどのように切り出すか、名詞以外の品詞をどこまで含めるか、頻出語を検索対象からはずすか等々の自然言語処理と呼ばれる手法であ  第三には、こうしてできた索引ファイルをどのように検索するかであるが、検索要求が明確な用語で示される場合とあいまいな漠然とした要求に応えようとする場合とがあって、それぞれに対する異なった手法がある。その中心は、複数の文字出現の頻度を計算して共起する確率に基づくものと、リンク構造に基づくものである。

 現在のグーグルやYahoo!などが用意している検索エンジンは、ロボットがとってきたサイト情報のキーワードに対して検索をかける際に、互いの出現頻度やリンク構造などをもとに順位づけしているところに特徴がある。ューザーは世界中からとってこられた情報の全体ではなく、検索結果の上位にあたる部分を見るのにすぎないから、この順位づけがきわめて重要になる。問題は共起頻度やリンク構造を利用するという点である。共起やリンクは多くの利用者にとって重要と考えられるものに対して多くつけられることになるが、この重要と考えられるものの評価が検索エンジンによって行われるとすれば、循環構造が形成される。つまり、同時に現れたりリンクされたりしたものは、次の共起やリンクをつくることにより、さらに共起したりリンクされたりしやすくなる。これにより、特定のサイトに利用が集中することが加速するわけだ。だから最初のリンク構造の仕掛けが重要になるわけで、それがスポンサー広告によって仕掛けられているものが多いとすれば、これは既存のマスメディアの構造と類似のものということができる。

 せっかく検索エンジンによって無限の情報が取り出せるはずなのに、情報ストック全体を見ることはできず、相変わらず断片としての情報(情報フロ-)、それも何らかの操作が行われている情報群を見ているにすぎない。

情報ストックの全体像を見るために

 ロボット型検索エンジンの問題は検索結果がリンク構造によって特定のものに集中することにあるだけではない。最初の検索語の選定そのものいかんで検索結果が大きく変わる可能性がある。ネット上のコンテンツ構造全体が見えないので、自分が適切な検索をしているのかどうかを確認しにくいということだ。これを補うものとして、もう一つの種類の検索エンジンであるディレクトリ型のものがある。

 これは、さまざまな主題やトピックスの下に関連するページの参照情報を掲載するもので、すべて人手で作成するのが特徴となる。つまり人手をかけてウェブページを分類し、それを一定のカテゴリの下に並べるものである。ウェブページが現れた初期には人手で作成することは十分に可能だったが、爆発的に増えた現在、これは検索エンジンの主流とは見なされなくなった。しかしながら、すべてのページを並べることは不可能にせよ、主要なものを選別して、使いやすいように分類して並べることの意義は小さくない。これを行うことによって、図書館の蔵書が十進分類表によって分類されていたり、書店の書棚がカテゴリによって分類されていたりするように、コンテンツの全体像が見えやすくなることがある。

 代表的なディレクトリ型検索エンジンとして、Yahoo!カテゴリがある。図3は、その一部を示している。たくさんのカテゴリが用意されているが、そのなかの「芸術と人文」というカテゴリのなかの最初にある「写真」を選んでみる。すると、「デジタルカメラ」「基礎知識、テクニック」から始まり22の項目が出てくる。さらにこのなかの「カメラ」を選ぶと、「登録サイト」として「カメラナビ」「ダイヤル式カメラを使いなサイー」「銀塩世界」ほか13のサイトの説明とリンクがある。すなわち、「写真」の下には推計で200から300のサイトヘのリンクが用意されているものと思われる。

 この仕組みは書店や図書館で採用されている階層式分類を基にして構築されている。これを使っても必ずしもすべてが見えるわけではない。だがキーワードという不安定なアク七スキーを用いるロボット型と組み合わせることによって、緻密な検索が可能になる。そしてこうした組み合わせはもっと特定化された領域のサイトを対象とした専門ポータルサイトと呼ばれるところでも利用されている。しかしながら、ウェブ上のサイトを何らかの評価の視点を明確にしながら公平に評価して掲載することはあまりうまくいっていない。これは、ボランタリーにやられているものは信頼性が問題になるし、ビジネスベースでやられているものはそれがどの程度の公平性の下に情報を評価しているかが問題になるからである。

 インターネットに置かれていない情報はどうだろうか。印刷・出版という工程を経て市場を通じて配布される出版物は大手書店やネット書店では情報ストックの全体像を垣間見せてくれる。しかしながらこれも流れのなかの小さなストックにすぎず、一定の時間が過ぎれば新しいものに置き換わってしまう。決して全体を見ることはできない。

 また、出版市場で扱われる情報は部分にすぎない。コンテンツヘの繰り返しのアクセスが求められる情報は市場を経由せずに配布されている。たとえば、官公庁や地方自治体が作成している行政情報、企業が作成しているビジネス情報、研究機関が発信している学術情報等々である。これらのなかにはホームページで発信しているものも少なくないが、印刷物だけというものもきわめて多い。印刷物は、関係者、関係機関に配布されるだけで作成目的を達したことになっているが、そのままだと情報ストックにもならずに終わってしまうのだ。

 読書大国で発展した書店の仕組みと新たに発展したネット検索環境は、性格を異にするが、時代的要請のなかで発展した情報を取り出すための装置である。これらの装置ではカバーできないものも含めて、不完全な情報のフローとストックの両方の特性を補うための第三の装置が図書館である。

 日本最大の図書館である国立国会図書館が提供しているポータルサイト「リサーチ・ナビ」をみておこう。ここは、同館職員が調べものに有用であると判断した図書館資料、ウェブサイト、各種データベース、関係機関情報を、特定のテーマ、資料群別に紹介するものである。図4はそのなかの「調べ方案内」で、印刷物かネット上のものかを問わず、調査のプロが紹介する公開された情報源が体系的に配置されている。また、同館は日本最大のデジタルアーカイブとデジタル行政情報を提供する機関でもあり、ここではデジタルコンテンツに自由にアクセスできる。ここを訪れることで、図書館が調査を支援し、情報リテラシーを学ぶための最良の機関であることを体験できる。
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企画を通じたコミュニティの生成

『図書館員のイベント実践講座』より 企画を通じたコミュニティの生成

まだイベントを実施することが目標となっているかもしれません。しかし、イベントをする目的を考え直したうえで、イベント開催のその先にある、コミュニティの生成について考えていきましょう。

イベントは単なる「スタート」

 イベントを開催することは、ゴールではありません。図書館は、もはや本を借すだけの場ではありません。イベントも、実施することだけが、目的ではありません。イベントを通じて、図書館に人を呼び、その地域や学校の中にコミュニティをつくっていくのが、究極の目標です。

コミュニティとは

 それでは、「コミュニティ」とは何なのでしょうか。極端な話、例えば墨田区は、26万人以上の人口です。墨田区民全員をコミュニティとは呼べないはずです。そう考えると、双方向のコミュニケーションが取れる程度の人数となるかと思われます。

 ちなみに、「ダンバー数」で知られている、ロビン・ダンバーによれば、人間の脳の大きさに見合った社会集団の規模は、150人前後と推定されています。これくらいが一つのコミュニティの上限人数のようです。

 かといって、サークルなど、クローズな団体もコミュニティとは言えないでしょう。誰でも入ることができる、自由な環境ではないでしょうか。

図書館員がコミュニティをつくる

 コミュニティをつくるとは、どういうことでしょうか。図書館員はなぜコミュニティをつくらなければならないのでしょうか。

 アメリカのシラキュース大学アイ・スクール教授のR.David Lankes氏の言葉に、下記のものがあります。

  悪い図書館員は蔵書をつくる、良い図書館員はサービスをっくる、素晴らしい図書館貝はコミュニティをつくる

 おわかりでしょうか、本を用意しておくだけの図書館員は、「Bad」と表現されており、コミュニティをつくれる図書館が「Great」とされています。前者のような図書館員は、今や不要な時代なのです。

 時代の変化によって、図書館・図書館員の存在価値が変わっていることもまた、表しています。まだ人々が本を手に入れるのが難しい時代には、書籍の収集が重要視されていました。物質的に豊かになると、今度はモノではない、サービスが重要になります。そして、物質的に豊かになり過ぎた反動で、失われたコミュニティの再生が、今必要になっているのです。図書館としても、それに対応しなければなりません。

コミュニティ創出は社会課題

 コミュニティをつくる、ということは図書館だけの問題ではなく、社会全体の課題でもあります。この大きな課題を、図書館が解決することができれば、図書館への社会的評価も上がるのではないでしょうか。

 コミュニティを構築するという課題を、図書館が解決することは可能だと言えます。その理由としては、まず、図書館には「場所」があります。筆者は、図書館以外に、子育て支援のボランティアもしています。打ち合わせやイベント、PR活動等,何をするにしても、やはり場所は必要です。人が集まる場として、図書館を使ってもらえれば、図書館を活用することができます。また、人とつながるきっかけにできる、資料があります。例えば、ワークショップの自己紹介時に、参加者のお勧め本や、よく読む本を紹介してもらいます。本をコミュニケーションのきっかけにできます。後は、本と人・人と人とをつなげる人=図書館員がいれば良いのです。ぜひ「コミュニティをつくる」という視点で、図書館運営を行っていってください。なにも、図書館員だけがその責任を負わなくとも、ボランティアや地域と連携していきましょう。

 Lankes氏は、「図書館がコミュニティのプラットフォームになり、資料はむしろ、コミュニティを促進させるツールである」とも述べています。これまでの価値観とは真逆かもしれません。

コミュニティは一日にして成らす

 確かに、一朝一夕にはできないことではあります。それでも、交流型のイベントを開催していくことで、コミュニティは徐々にできていきます。

 筆者たちの運営している「まちライブラリー」では、基本的には、ミニセミナーにこだわっています。「ミニ」なので、定員は8名まで。なぜ少人数かというと、双方向でのコミュニケーションがとれる限界がその程度だからです。

 まちライブラリー提唱者の礒井純充氏は、「100人参加するイペントを1回開催しても、それだけです。それよりも、10人参加するイベントを10回開催した方が良い。10回来てもらえば、その場に愛着が生まれ、そこがコミュニティの場になっていく」と仰っています。

 私はこの考え方に、大変共感しました。ひきふね図書館では、まちライブラリーを月1回開催して、3年以上続けています。区民の中には、常連で参加してくれている人もいます。その方は、毎月第四日曜日の午後には、図書館にいけば何かある、と思ってくれているようです。たまに、本当にふらっと寄ってくれることもあります。そして、今度はミニセミナーの主催者になってもらいました。例えばこういうことが、「コミュニティ」だと言えるのではないかと思います。

 これは一例ですが、それぞれの図書館におけるコミュニティについて考えていかなければなりません。

参加者同士の交流

 イベント開催時には、参加者同士が名刺交換するように促したり、Facebookで友達申請するように促しています。 Facebook上には、「墨田区」というグループもありますので、イペント後も人間関係を続けることができます。これもまた、一つのコミュニティ形成のきっかけと言えます。リアルの場だけがコミュニティというわけではありません。いまやSNS等でバーチャルにつながることも可能なのです。図書館をきっかけにバーチャルコミュニティをつくることだって、できるのです。

 図書館員が、利用者と図書館をつなぐハブになれると良いです。

 イベントに参加してくれた人が、図書館を好きになってくれて、また来たいと思ってくれると理想です。図書館の次のイペントを心待ちにしてくれるような、図書館のファンをつくっていきたいです。「このようなイペントはまたありますか?」「どこで情報を入手したら良いですか?」と聞かれるようになったらしめたもの。そんな時に例えば、「図書館ニュースが毎月1日に発行なので、それを見てください」といった案内ができると良いですね。そう考えると、メルマガやTwitter、LINERのような、プル型の情報発信があることが理想です。

人脈は数珠つなぎ

 イベントに参加してくれた人の中に、特技のある方がいれば、躊躇なくリクルートします。「それを図書館でもやっていただけませんか?」と打診してみると、興味を示してくれる方はたくさんいます。それも聞いてみなければ始まりませんので、積極的にコミュニケーションを取り、尋ねてみましょう。

 イベントを実施するほど、出会いが増えます。例えば、ビブリオバトルを開催した際に、参加してくれた税理士さんに起業セミナーの講師をお願いしました。また、その税理士さんが地元の中小企業診断士さんを紹介してくれ、経営者セミナーを開催できました。このように、イペント参加者に主催者をお願いしていくことで、企画を増やしていくことができます。

 さらに、利用者と利用者がつながれるようになるのが、次の理想です。

 ぜひ素敵なイベントを開催して、あなたが主催者として覚えてもらえるようになってください。「図書館で○○イベントをしている××さん」というのが地域、組織で浸透していくと、さらに良いサイクルに入ります。「○○と言えば、あなたですよね」と声をかけてもらえるようになります。

コミュニティ生成事例「エコノミックガーデニング」

 なかなか、未だ図書館におけるコミュニティ生成の好事例は少ないのですが。「エコノミックガーデニング」に取り・組む千葉県山武市にある「さんぶの森図書館」をご紹介します。エコノミックガーデニングとは、地域経済を「庭」、地元の中小企業を「植物」に見立て、地域という土壌を生かして地元の中小企業を大切に育てることにより地域経済を活性化させる政策です。この政策はアメリカのコロラド州リトルトン市が1980年代後半から実施しており、以来、企業誘致をしていないにもかかわらず雇用と税収が著しく増加し、成果を挙げています。国内においての歴史はまだ浅く、山武市のほか静岡県藤枝市・徳島県鳴門市などで取り組みが始まっています。

エコノミックガーデニングと図書館

 山武市経済環境部わがまち活性課の所管事業ではありますが、図書館も関わっている事例です。『地方経済を救うエコノミックガーデニング』(山本尚史、新建新聞社)の著者で、エコノミックガーデニングの日本の第一人者である山本尚史先生をアドバイザーとしてお呼びしていました。同図書館の司書、豊山希巳江さんは、もともとエコノミックガーデニングが図書館の価値を上げると考え、勉強しており、山本先生とも知り合っていました。山本先生の後押しもあって、図書館も関わることになったそうです。山武市のエコノミックガーデニングでは、五つのワーキンググループに分かれており、その中の一つである「チャットビズ」事業に図書館が関わっています。この事業は、異業種の人たちが集まり、それぞれの視点で、課題解決を目指すものです。現在のテーマは、「図書館の活性化」です。具体的には、図書館で「スキルバンク」という提案があり、プロジェクトが進行していました(その後、法律の問題もあり、現在はビジネス支援図書館勉強会等の別プロジェクトが進行中です)。

実際の活動の様子

 ワーキンググループの活動の見学をさせていただきました。さんぶの森図書館は18時に閉館します。その後、グループのメンバーが図書館に集まります。この日も、地元の会社経営者、建築家、カフェオーナー、信金の支店長、行政職員といった多彩な顔ぶれでした。

 今後の方針や、新たなアイデアを出し合った後、既にスキルバンクのチラシ案ができたということで、全員でデザインを検討していました。

 豊山さんは、資料の印刷が必要であれば、さっと印刷してきたり、フォントの検討段階では、フォント集を持ってきてくれたりします。また、皆の意見を聞き、引き出す、といったファシリテーターをさりげなくしていました。

 参加者の方も、図書館での会議は、必要な資料がすぐに出てきたりするので、大変便利だと言うことでした。

 図書館が地域経済の活性化に役立つ事例です。経済を中心としたコミュニティの場として図書館が活用されています。

図書館におけるコミュニティとは?

 みなさんの図書館でつくることのできるコミュニティには、どんなものが考えられるでしょうか。例えば、図書館が待ち合わせスポットのように利用される。図書館に行けば、いつも来ているあの人に会えるかも、というように使ってもらえる。図書館員に聞けば、詳しい人を紹介してもらえる。サークル? 発表の場? どのような形態でも構いません。柔軟に考えてみてください。

 いずれにせよ、コミュニティをつくっていくのは、皆さんなのです。
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