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中国農民にとってのユニクロ

『食いつめものブルース』より

ユニクロの花嫁衣装

 上海では、日本のモノや食品が当たり前のように生活の中に入り込んでいる。二〇一七年現在、私が上海で借りている自宅から徒歩十分圏内に、牛丼のすき家が二軒、讃岐うどんの丸亀製麺、カレーのCOCO壱番屋、イタリアンのサイゼリヤがある。仕事が忙しくなってくると、私の夕食はこの四店のローテーションになる。

 単品だと味気ないし栄養のバランスも悪いので、例えばすき家であれば、とん汁とサラダが付いた定食を選ぶ。丸亀製麺であれば、日本で好物の大根おろしをのせる「おろしふっかけ」や、温泉たまごととろろいもの「温玉ぶっかけ」は残念ながらいずれも上海のメニューにはないので、肉うどんに野菜のかき揚げを付ける。サイゼリヤならチキンのチーズ焼きとルッコラのサラダ。これで、だいたいどの店でも一食三十元(四百九十円)前後になる。

 私を含め日本人の利用も少なくないが、夕食時、食事をしていた十分前後の間、店内にいたのは自分以外は全員中国人の若者や家族連れだった、ということの方がむしろ多い。日本製品というと、値段が高いので富裕層向けに売り込む、というような時代もあったが、日本の外食チェーンは、完全に庶民の食堂として上海で定着した感がある。

中国農民にとってのユニクロ

 外食産業と並んで現地に溶け込んでいるのがュニクロだ。私はあてもなくブラブラと散歩をするのが好きなので、靴下によく穴が開く。そこでユニクロの靴下をよく買う。日本では四足九百九十円+税で売られているお得なあのセットだ。中国も四足セットで販売されているのだが、値段は七十九元。日本引き落としのクレジットカードで購入したところ、一千三百五十円の請求が来た。日本で買うよりも割高だ。

 日本で買った方が安いという考えが働いてしまうので、私が主に買うのは靴下だけ。ただ中国人は当然、いちいち円換算などしないので、日本の外食チェーン同様、家族連れやカップルの買い物客で、いつもそこそこにぎわっている。

 ユニクロ中国のホームページを見ると、上海には二〇一七年六月時点で六十六店舗を展開。ユニクロを運営するファーストリテイリングが二〇一三年九月末、売り場面積約二千坪という同社として世界最大(当時)のグローバル旗艦店を、上海有数の繁華街である淮海中路にオープンしたことから見ても、同社が上海を重要な都市として位置付けていることが分かる。

 上海、北京、広州など中国で「一級都市」と呼ばれる大都会、とりわけ上海で、ユニクロは日本同様、普段使いのカジュアルとして認識されている。ところが、中国の地方都市や農村では、位置付けがいささか異なる。

 中国の農村や出稼ぎの人たちのことに私の目を開かせてくれた若い友人、チョウシュンは、自分の妻に花嫁衣装としてユニクロを着せた。

「ユニクロになら絶対にある」

 さて、なんとかお金のメドもつき、披露宴まであと数日、というところで、チョウシュンの母親が慌てだした。「臨月の体に合うウエディングドレスなどない。あつらえるにしても間に合わない。花嫁の衣装をどうするのよ!」

 中国では花嫁のことを「紅娘」と呼ぶ。最近では西洋式に純白のウエディングドレスを着るのが普通になったが、伝統的には花嫁衣装の色は赤。白のドレスを着ても、お色直しで赤も着る。伝統的な習慣や思想が色濃く残る農村で、お色直しをしないのであれば、花嫁衣装は赤が必須だ。

 だから、チョウシュン一家が考えたのはまず、何よりも色が赤だということ。そして、大きくせり出したお腹を優しく包んでくれ、質が良く、ゆめゆめ安っぽくなど見えず、さらに中国語で「時尚」、すなわち流行も取り入れた衣装はないものか、ということだった。

 ここで、チョウシュンの頭にふと、あるブランドが頭に浮かんだ。「そうだ、ユニクロに行けばあるんじやないか」。それを聞いた彼の母も、「そうか! ユニクロか! あそこにならありそうだ!」と叫んだのだという。

 彼の実家のある村は、その数年前に、蕪湖という市に併合されたのだが、その蕪湖の繁華街に二〇一二年九月、安徽省としては省都の合肥に次ぐ二番目の店としてユニクロがオトフンしていたのだった。

 当時を思い出してチョウシュンは言う。

  「妻に着せる服をどうするかと考えていたとき、上海で休日に遊びに行った繁華街にあったユニクロのことを思い出した。そのときに頭に浮かんだのはまず、ユニクロの服はカラフルだ、ということ。壁の棚いっぱいにカラフルなTシャツやジャケットのような上着をギューギュー詰めにして陳列しているでしょう? それにユニクロには、下着からスーツまで、ありとあらゆる商品がある。だから、ユニクロに行けば、奇麗な赤色をした、妊婦の花嫁が着てもおかしくないような服が見つかるんじやないか、と思った」

 チョウシュンたちが花嫁衣装を探して駆けずり回ったときは、安徽省の蕪湖にュニクロが開店してから約半年が経過したころだったのだが、彼の村でも、ほとんどの人が、ユニクロの存在を知っていたのだという。

  「ボク自身は上海で暮らしているから、ュニクロが日本のブランドだということは知っていた。ただ、ボクの田舎では、蕪湖店でユニクロを初めて知ったという人が大半だったようだが、ユニクロを外国のブランドだと認識している人は、当時も今も多くないよ。披露宴で妻の着ていた赤い服を見た親戚が『あれはどこの服だ』と聞くので、ュニクロだよ、日本のブランドだよと教えたら、『えっ、ユニクロって中国ブランドじゃないのか』って驚いていたから」

寛容な心の限界

 追い出されようとしている農民工が、食いつめものの境遇から脱したのかといえば、むしろ食えなくなっていることについてはここまでに書いてきた。

 為政者である習近平氏ももちろん、そのことに気づいている。


 中国の為政者たちは、スローガン好きだ。直近の三代を振り返ってみても、江沢民時代は「一つの代表」、胡錦濤時代は「科学的発展観」、そして習近平時代の今は「中国の夢」。

 前の二つの政権が打ち出したスローガンは、言葉を見ただけでは、何が言いたいのかがよく分からない。しかし、それでいいのである。十億を超す民を率いるためにはまず、皆が同じ方向を目指して進むための目標になるべき北極星が必要なのだ。理論的後付けは、走りながらやればいい。そして、スローガンの理論的肉付けを図り、最終的にもっともらしく見えるようにするために、国の知性を大量に動員できるところが、私は中国という国の底力だと思っている。

 前の二つの政権に比して、習氏が打ち出した「中華民族の復興」を唱える「中国の夢」というスローガンは、非常に分かりやすい。

  「中国共産党は、社会生産力、先進文化、人民の根本利益を代表するものでなければならない」とした「三つの代表」と、「科学的理論をもって社会の調和を図る」と主張した「科学的発展観」はいずれもインテリ層や権力層を意識していることがうかがえる。

 これに対して習氏の「中国の夢」が中華民族の復興を構成する三つの要素として挙げるのは「国家富強」「民族振興」「人民幸福」とシンプルだ。習氏の時代にあってようやく「強い中国」を語れる国力がついたという側面はあるが、一方で、知識層は、あからさまな中国礼賛に鼻白み冷ややかに見るものだ。

 私は習氏の「中国の夢」は、農民工に向けたものだと思っている。

  「明日は自分の番が来る」という夢から覚めかけている農民工を、今しばらく夢の世界に引き戻すための。

 そしてその狙いはこれまでのところ、有効に働いてきたように見える。

夢から覚め奔流になる農民工

 二十一世紀の新たな世界経済圏「一帯一路」でイニシアチブを取る強い中国。南沙諸島、西沙諸島の領土問題で一歩も引かない強い中国。世界に冠たる経済大国になった中国を目指して、世界に冠たる大企業やエリートが集まる豊かな中国。都会生まれの人間に比べれば自分の懐具合はいまひとつだけれども、それでも昔に比べれば暮らし向きは良くなったし、なにより自分は強い中国の一員なのだ。

 ただ、決して愚痴らず挫けなかった農民工たちが最近、愚痴をこぼすことが増えているのが、私には気がかりだ。明日は自分の番が来るという希望が揺らぎ始めている今、私がかつて感嘆した農民工の強靭なたくましさに鵬りが見え、都会人に比して圧倒的な不平等に耐えてきた無限にも思えた寛容の心も、もちろん無限などではなく限界があるのだということが見え始めた気がしてならない。

 中国の成長と繁栄を支えてきた大きな部分を、農民工たちの寛容が支えてきたのだということを、為政者はもちろん、中国の社会全体が、今以上に自覚的になった方がいい。そして不寛容になった上に、行き場を無くした食いつめものたちが、奔流となって暴れ狂った歴史が中国になかったわけではないことにも。

 「上海にいる農民工の生活が苦しくなっている? あーそうなのかもしれませんね」。都会人は中国に分断などまるで存在しないかのように、あくまでも呑気に言う。しかし、農民工の目に映る中国に分断は確実に存在し、都会人との間にある谷は、深さを増しつつある。社会の分断が欧州ヘアメリカヘとうねりのように世界に広がりつつある時代の潮流も相まって、中国で歴史が繰り返されるのを自らの目で見ることが絶対にないと断言する自信が、私にはなくなっている。そして習氏は言うだろう。「そんなこと、お前に言われなくてもわかっている」と。
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