『最後の「天朝」』より 中国人民義勇軍の参戦 早期の出兵を望んだ毛沢東
モスクワの思惑の影響を受けてか、朝鮮の指導者は中国大使館に対し情報を封鎖するというやり方をとった。柴成文の証言によると、彼がピョンヤンに到着した後、金日成から厚い待遇で迎えられ、金は「今後必要な時、いつでも私を訪ねてよい」と彼に伝え、さらに人民軍総政治局副局長徐輝を指名し、毎日一回、中国の武官に戦場の情勢を説明するよう指示した。しかしまもなく、中国大使館は、徐輝か伝えた戦況の大半は朝鮮側が当日夜のラジオで放送した内容であることに気づいた。柴が朝鮮の最高指導者と何度も面会することも不可能だった。中国大使館が提案した、副武官を人民軍の部隊に派遣して見学と学習をするという打診についても、朝鮮側からずっと返事がなかった。朝鮮側のほかの幹部との接触を通じて、柴は、軍事情報の中国への説明は事実上、タブーとされていることを感じた。かつて肩を並べて戦った延安派の幹部にすら、厳しい絨口令が敷かれ、柴に対して戦場の詳しい状況を絶対語らなかった。中国軍が情勢を確かめるために朝鮮へ参謀チームを派遣したいとの打診も、断られた。
戦局は八月に入って、洛東江を挟んで膠着状態に陥り、このことで中国の指導者は参戦準備の強化に対する緊迫性を一段と認識した。八月十一日、東北に集結した第13兵団は毛沢東の指示に従って所属する各軍団、師団の幹部会議を招集した。東北軍区司令官兼政治委員高尚は会議で演説し、参戦を準備する目的と意義を詳しく説明し、積極的に朝鮮人民を支援する必要があると強調、「義勇軍の名義で出動し、朝鮮服を着用し、人民軍の番号を使い、人民軍の旗を掲げ、主要幹部は朝鮮人の名前を使う」と具体的に指示し、各方面の準備にはすべて担当責任者をつけ、厳格に検査し、期限内に完成するよう要求した。
八月十九日と二十八日、毛沢東は二度にわたって、『毛沢東選集』の編集と出版に協力するためにやってきたユーシン(後の中国駐在大使)と懇談し、その中で特に、米軍が兵力増強を続けるなら、北朝鮮だけでは対処できず、彼らは中国の直接の援助を必要とするだろう、最新情報によれば米国は在朝鮮の兵力を大幅に増強することをすでに決定した、と言及した。毛沢東はさらに、中国の指導者は朝鮮側に対し、戦争の行方について最悪の事態への準備をする必要もある、と直接注意を与えているとユーシンに説明した。毛沢東は中国の参戦について明言を避けたものの、それに関する暗示は明確なものだった。毛沢束は八月と九月の初めに、朝鮮側代表李相朝との二回にわたる会見でも戦況について討議し、人民軍の誤りは十分な予備軍を用意せず、すべての戦線に均等に兵力を分散したことと、敵の殲滅よりただ敵を撃退して領土を奪取すればよいとの考えにあると評した。毛沢東はまた特に、仁川-ソウルと、南浦-ピョンヤンというような要衝地域は敵からの襲撃を受ける可能性があり、今後の退却と兵力配備調整の問題を今から検討すべきだと提起した。劉少奇も、戦争が長引き、すぐには終わらないことがありうるという心構えを人民に持たせる必要があると指摘した。
九月初め、毛沢東の再三の督促を経て、東北辺防軍は、兵力を七十万人に拡張し、ほかに二十万人の兵員準備と武器装備の強化に関する計画を作成した。この段階で毛沢東が参戦準備に積極的に取り組んだのは、主に軍事面の配慮によるもので、すなわち米国がとりうる急襲攻撃に備えるためであった。いずれにせよ、朝鮮戦争を早く終結させることは、どのような角度から見ても、中国にとってプラスなのだ。
戦況がますます不利に転じる中、金日成は中国軍の出動要請を検討すべきだと内心では認識していたが、かといってスターリンの意に反する行動もとれない。そこでモスクワに打診することを決意し、八月二十六日、金日成は電話を通じてシトゥイコフ・ソ連大使に対し、彼らが入手した情報によれば、アメリカ人は仁川地区と水原地区で上陸作戦を実施する計画で、朝鮮側は必要な措置をとってこれらの地域の防御を強化したいと申し入れた。同日夜、金の秘書文日は事実上、金日成の依頼を受けて大使に次のように話した。目下前線にある人民軍の状況はあまりにも困難であり、我々はやはり、中国の同志が朝鮮を援助するために派兵することを要請したい、これに関するモスクワの見解を知りたい、金日成はこの問題を労働党政治委員会の討論にもかけたい考えだ、と。しかしシトゥイコフがこの話題について触れたくない様子を見て文日は慌てて、以上のことはみな自分が勝手に述べたもので、金日成からは依頼されていないと言い直した。シトゥイコフ大使はそれを受けてモスクワに対し、近頃の金日成は自分の力で戦争の勝利を勝ち取ることについてますます自信を失くしており、そのため何度もソ連大使館から、中国軍による朝鮮支援の要請に対する同意を取り付けたいというアプローチをしており、ただ文日を通じて探りを入れた後は、金日成はこの問題にこれ以上触れていない、と報告した。
スターリンの心の中では、金日成さえ頑張り通すことができれば、東アジア情勢がいっそう複雑化し、朝鮮に対する支配が弱体化することを避けるためにも、中国軍を朝鮮戦争に巻き込みたくなかった。そのため、金日成からの再三の打診を受けて、スターリンはついに、国際援助に関する朝鮮の要求を明確に拒否することにした。八月二十八日付の金日成宛の電報でスターリンはまず、「ソ連共産党中央は、外国の千渉者が早いうちに朝鮮から追い出されることにいささかも疑いをもっていない」と伝え、その上で、「外国の干渉者との戦いで連続的な勝利を収めていないからといって、不安に陥る必要はなく、勝利の中でも一部の挫折ないし局地的な敗北を伴うものだ」と慰め、電報の最後に、「必要であれば、我々はさらに朝鮮空軍に攻撃機と戦闘機を提供する用意がある」と約束した。スターリンの意見を聞いた金日成は「非常に喜び、何度も感謝の意を表し」、この書簡は非常に重要で、政治委員会委員にも伝達すべきだと語り、また、金日成は、あたかも責任逃れをするかのように、「一部の政治委員会委員がやや動揺しているが、この書簡の内容を知らせれば彼らにとってプラスになるだろう」と釈明したという。スターリンの意図を確認した金日成はそれ以後、中国からの支援を要請するなどと口にしなくなり、すべての希望をモスクワに託すことにした。
モスクワの支持と約束を得て、朝鮮の指導者はまた自信を取り戻したようだ。中国軍の支援を得られず、人民軍を北部に撤収することも事実上できないため、金日成は南部での戦争に乾坤一擲の決意をした。九月四日、柴成文は金日成との面会で、戦争は膠着局面に入ったと指摘したが、それに対し、金日成は自信満々に、釜山作戦はすでに始まっており、勇敢な突撃部隊が攻撃すれば局面は打開されるだろうと答えた。柴成文はさらに、米軍が朝鮮軍の後方で上陸作戦を実施する可能性はないかと質問したが、金日成は、「米軍は当面反攻に転じることが不可能であり、大兵力の増援がなければ、我々の後方の港で上陸することは困難だと我々は判断している」と断定的に答えた。この段階に入ると、金日成の冒険主義的傾向がいっそう強まった。柴成文はその変化を次のように分析した。朝鮮の指導者は最初は米軍の出兵を予想せず、∇刀月で戦争が終わると考えたが、米軍の参戦後、八月十五日までに問題を片付け、八月を勝利の月にしようとのスローガンを打ち出した。大量の技術者や学生を軍に入隊させ、人力と財力のおびただしい無駄遣いなどの状況から見れば、完全にばくちを打つような構えだった、という。九月十日、柴成文が一時帰国してその後ピョンヤンに戻った日、周恩来の指示に従って金日成と緊急に面会し、朝鮮軍は戦略的退却の問題を検討すべきだと申し入れたのに対し、金日成の答えは「私は一度たりとも後退を考えたことがない」というものだった。
この経緯について、筆者は機密解除されたロシア公文書中に裏付けの資料を見つけた。一九五六年十月五日、朝鮮のモスクワ駐在大使李相朝はソ連の外務次官フェドレンコを通じてソ連共産党中央に、彼個人が朝鮮労働党中央委員会宛に送った公開書簡を渡したが、書簡は次のような事実を明らかにした。朝鮮戦争が始まって間もなく、李相朝は金日成の私的代表として北京に滞在したが、八月、朝鮮人民軍が洛東江まで攻めたとき、毛沢東は彼との長時間にわたる会談の中で、人民軍は補給路が敵軍に切断される危険性があるので、朝鮮の指導者は戦略的撤退を検討するように、と提案した。李は金日成に毛沢東との会談内容を詳しく報告したが、金日成は毛沢東の提案を退け、このことは外部に漏らすなと彼に警告した。
金日成は内心では、中国からの援助が喉から手が出るほど欲しかった筈だ。しかし彼はモスクワの指揮棒に従わなければならない。彼の真のボスはスターリンなのだ。
モスクワの思惑の影響を受けてか、朝鮮の指導者は中国大使館に対し情報を封鎖するというやり方をとった。柴成文の証言によると、彼がピョンヤンに到着した後、金日成から厚い待遇で迎えられ、金は「今後必要な時、いつでも私を訪ねてよい」と彼に伝え、さらに人民軍総政治局副局長徐輝を指名し、毎日一回、中国の武官に戦場の情勢を説明するよう指示した。しかしまもなく、中国大使館は、徐輝か伝えた戦況の大半は朝鮮側が当日夜のラジオで放送した内容であることに気づいた。柴が朝鮮の最高指導者と何度も面会することも不可能だった。中国大使館が提案した、副武官を人民軍の部隊に派遣して見学と学習をするという打診についても、朝鮮側からずっと返事がなかった。朝鮮側のほかの幹部との接触を通じて、柴は、軍事情報の中国への説明は事実上、タブーとされていることを感じた。かつて肩を並べて戦った延安派の幹部にすら、厳しい絨口令が敷かれ、柴に対して戦場の詳しい状況を絶対語らなかった。中国軍が情勢を確かめるために朝鮮へ参謀チームを派遣したいとの打診も、断られた。
戦局は八月に入って、洛東江を挟んで膠着状態に陥り、このことで中国の指導者は参戦準備の強化に対する緊迫性を一段と認識した。八月十一日、東北に集結した第13兵団は毛沢東の指示に従って所属する各軍団、師団の幹部会議を招集した。東北軍区司令官兼政治委員高尚は会議で演説し、参戦を準備する目的と意義を詳しく説明し、積極的に朝鮮人民を支援する必要があると強調、「義勇軍の名義で出動し、朝鮮服を着用し、人民軍の番号を使い、人民軍の旗を掲げ、主要幹部は朝鮮人の名前を使う」と具体的に指示し、各方面の準備にはすべて担当責任者をつけ、厳格に検査し、期限内に完成するよう要求した。
八月十九日と二十八日、毛沢東は二度にわたって、『毛沢東選集』の編集と出版に協力するためにやってきたユーシン(後の中国駐在大使)と懇談し、その中で特に、米軍が兵力増強を続けるなら、北朝鮮だけでは対処できず、彼らは中国の直接の援助を必要とするだろう、最新情報によれば米国は在朝鮮の兵力を大幅に増強することをすでに決定した、と言及した。毛沢東はさらに、中国の指導者は朝鮮側に対し、戦争の行方について最悪の事態への準備をする必要もある、と直接注意を与えているとユーシンに説明した。毛沢東は中国の参戦について明言を避けたものの、それに関する暗示は明確なものだった。毛沢束は八月と九月の初めに、朝鮮側代表李相朝との二回にわたる会見でも戦況について討議し、人民軍の誤りは十分な予備軍を用意せず、すべての戦線に均等に兵力を分散したことと、敵の殲滅よりただ敵を撃退して領土を奪取すればよいとの考えにあると評した。毛沢東はまた特に、仁川-ソウルと、南浦-ピョンヤンというような要衝地域は敵からの襲撃を受ける可能性があり、今後の退却と兵力配備調整の問題を今から検討すべきだと提起した。劉少奇も、戦争が長引き、すぐには終わらないことがありうるという心構えを人民に持たせる必要があると指摘した。
九月初め、毛沢東の再三の督促を経て、東北辺防軍は、兵力を七十万人に拡張し、ほかに二十万人の兵員準備と武器装備の強化に関する計画を作成した。この段階で毛沢東が参戦準備に積極的に取り組んだのは、主に軍事面の配慮によるもので、すなわち米国がとりうる急襲攻撃に備えるためであった。いずれにせよ、朝鮮戦争を早く終結させることは、どのような角度から見ても、中国にとってプラスなのだ。
戦況がますます不利に転じる中、金日成は中国軍の出動要請を検討すべきだと内心では認識していたが、かといってスターリンの意に反する行動もとれない。そこでモスクワに打診することを決意し、八月二十六日、金日成は電話を通じてシトゥイコフ・ソ連大使に対し、彼らが入手した情報によれば、アメリカ人は仁川地区と水原地区で上陸作戦を実施する計画で、朝鮮側は必要な措置をとってこれらの地域の防御を強化したいと申し入れた。同日夜、金の秘書文日は事実上、金日成の依頼を受けて大使に次のように話した。目下前線にある人民軍の状況はあまりにも困難であり、我々はやはり、中国の同志が朝鮮を援助するために派兵することを要請したい、これに関するモスクワの見解を知りたい、金日成はこの問題を労働党政治委員会の討論にもかけたい考えだ、と。しかしシトゥイコフがこの話題について触れたくない様子を見て文日は慌てて、以上のことはみな自分が勝手に述べたもので、金日成からは依頼されていないと言い直した。シトゥイコフ大使はそれを受けてモスクワに対し、近頃の金日成は自分の力で戦争の勝利を勝ち取ることについてますます自信を失くしており、そのため何度もソ連大使館から、中国軍による朝鮮支援の要請に対する同意を取り付けたいというアプローチをしており、ただ文日を通じて探りを入れた後は、金日成はこの問題にこれ以上触れていない、と報告した。
スターリンの心の中では、金日成さえ頑張り通すことができれば、東アジア情勢がいっそう複雑化し、朝鮮に対する支配が弱体化することを避けるためにも、中国軍を朝鮮戦争に巻き込みたくなかった。そのため、金日成からの再三の打診を受けて、スターリンはついに、国際援助に関する朝鮮の要求を明確に拒否することにした。八月二十八日付の金日成宛の電報でスターリンはまず、「ソ連共産党中央は、外国の千渉者が早いうちに朝鮮から追い出されることにいささかも疑いをもっていない」と伝え、その上で、「外国の干渉者との戦いで連続的な勝利を収めていないからといって、不安に陥る必要はなく、勝利の中でも一部の挫折ないし局地的な敗北を伴うものだ」と慰め、電報の最後に、「必要であれば、我々はさらに朝鮮空軍に攻撃機と戦闘機を提供する用意がある」と約束した。スターリンの意見を聞いた金日成は「非常に喜び、何度も感謝の意を表し」、この書簡は非常に重要で、政治委員会委員にも伝達すべきだと語り、また、金日成は、あたかも責任逃れをするかのように、「一部の政治委員会委員がやや動揺しているが、この書簡の内容を知らせれば彼らにとってプラスになるだろう」と釈明したという。スターリンの意図を確認した金日成はそれ以後、中国からの支援を要請するなどと口にしなくなり、すべての希望をモスクワに託すことにした。
モスクワの支持と約束を得て、朝鮮の指導者はまた自信を取り戻したようだ。中国軍の支援を得られず、人民軍を北部に撤収することも事実上できないため、金日成は南部での戦争に乾坤一擲の決意をした。九月四日、柴成文は金日成との面会で、戦争は膠着局面に入ったと指摘したが、それに対し、金日成は自信満々に、釜山作戦はすでに始まっており、勇敢な突撃部隊が攻撃すれば局面は打開されるだろうと答えた。柴成文はさらに、米軍が朝鮮軍の後方で上陸作戦を実施する可能性はないかと質問したが、金日成は、「米軍は当面反攻に転じることが不可能であり、大兵力の増援がなければ、我々の後方の港で上陸することは困難だと我々は判断している」と断定的に答えた。この段階に入ると、金日成の冒険主義的傾向がいっそう強まった。柴成文はその変化を次のように分析した。朝鮮の指導者は最初は米軍の出兵を予想せず、∇刀月で戦争が終わると考えたが、米軍の参戦後、八月十五日までに問題を片付け、八月を勝利の月にしようとのスローガンを打ち出した。大量の技術者や学生を軍に入隊させ、人力と財力のおびただしい無駄遣いなどの状況から見れば、完全にばくちを打つような構えだった、という。九月十日、柴成文が一時帰国してその後ピョンヤンに戻った日、周恩来の指示に従って金日成と緊急に面会し、朝鮮軍は戦略的退却の問題を検討すべきだと申し入れたのに対し、金日成の答えは「私は一度たりとも後退を考えたことがない」というものだった。
この経緯について、筆者は機密解除されたロシア公文書中に裏付けの資料を見つけた。一九五六年十月五日、朝鮮のモスクワ駐在大使李相朝はソ連の外務次官フェドレンコを通じてソ連共産党中央に、彼個人が朝鮮労働党中央委員会宛に送った公開書簡を渡したが、書簡は次のような事実を明らかにした。朝鮮戦争が始まって間もなく、李相朝は金日成の私的代表として北京に滞在したが、八月、朝鮮人民軍が洛東江まで攻めたとき、毛沢東は彼との長時間にわたる会談の中で、人民軍は補給路が敵軍に切断される危険性があるので、朝鮮の指導者は戦略的撤退を検討するように、と提案した。李は金日成に毛沢東との会談内容を詳しく報告したが、金日成は毛沢東の提案を退け、このことは外部に漏らすなと彼に警告した。
金日成は内心では、中国からの援助が喉から手が出るほど欲しかった筈だ。しかし彼はモスクワの指揮棒に従わなければならない。彼の真のボスはスターリンなのだ。
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