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エティオピア戦争と国際連盟

 『戦間期国際政治史』より

 イタリアのエティオピア侵略の報に、イタリアに抗議する国際的な運動が一挙に爆発した。とくに、アフリカ・カリブ海諸島の諸民族やアメリカ合衆国の黒人にとって、独立国エティオピアはアフリカの自由の最後の砦と見られていたので、イタリアに対する抗議は激しかった。イタリアに抗議する集会が各地に開かれ、みずから武器を執ってエティオピアのために戦う義勇兵も現われた。国際世論は圧倒的にエティオピアに同情的であった。国際連盟がその歴史の上で最初で最後の規約第十六条による制裁をイタリアに対して発動したことも、このような国際世論を背景にしていたのであった。

 イタリアのエティオピアに対する全面的な攻撃が始まると、十月七日、国際連盟理事会は、イタリアが国際連盟規約を侵犯したと認め、続いて翌十一日、連盟総会は五十カ国によって理事会の決議を承認し、連盟規約第十六条による制裁を発動することとした。国際連盟の指導国であったイギリス・フランスはアフリカでのイタリアの軍事行動に不安を感じ、イタリアを非難する国際世論や連盟加入諸国の制裁要求を無視できなかった。この決議にはスイスが参加せず、アルバニア・オーストリア・ハンガリーがその地理的位置からイタリアとの特殊な利害関係があるとして、対伊制裁に反対した。

 この対伊制裁の具体的内容については十八カ国の小委員会に委ねられ、十一月二日、(一)イタリアに対する武器の禁輸、(二)信用の停止、(三)イタリア商品の輸入禁止、(四)アルミニウム・ゴム・鉄・錫などの軍用物資のイタリアヘの禁輸が決定され、十一月十八日から実行されることになった。

 戦争に必要な多くの物資を海外に仰ぐイタリアにとって、このような経済制裁は打撃であり、これはムッソリーニも予期しないところであった。確かに、日本の満洲侵略やドイツのヴェルサイユ条約侵犯の際の国際連盟の寛大な態度と、今度のエティオピア侵略の場合の連盟の態度との間に大きな違いがあった。そこにはエティオピアに同情する国際世論の圧力や地中海におけるイギリスの利害などの諸条件が作用していた。しかし、この経済制裁の禁輸品のリストから、イタリアの戦争遂行に死活の重要性を持つ石油が除外されていた。カナダ・アルゼンティン・インド・チェコスロヴァキア・イラク・フィンランド・オランダ・ルーマニアなどの諸小国とソ連邦は石油禁輸の必要を力説したが、これに対してイギリス・フランスはこの問題を回避しようとした。ラヴァルはこの問題討議のための小委員会を二度も延期させ、結局、表向きは禁輸品目は連盟加入国によって統制し得る物資に限るという理由で、石油を禁輸品目から除外してしまった。また、イタリア軍の行動を阻止する最も効果的な方法であったのは、イタリア海軍のスエズ運河の通過を禁止することであったが、イギリスはこのような措置に反対した。

 このように、イギリス・フランスのイタリアに対する制裁政策は実は抗議と妥協の二重政策であった。とくに、エティオピアがイタリアに勝利するとすれば、反帝国主義運動が他の植民地諸地域に波及するであろうという見透しがイギリス・フランスの保守派を著しく反エティオピア的にしていたのである。

 三五年十二月八日に、ラヴァルとホーアの間にエティオピア戦争収拾案が成った。ホーア=ラヴァル案と呼ばれたこの計画は、イタリアにエティオピア領の約半分を与え、エティオピアにエリトレアの一部を与え、南部エティオピアをイタリアの「経済的発展および植民のための特別地帯」という名でイタリアの勢力範囲とするというものであった。いわば、イタリアの軍事侵略の成果を事実上容認して、エティオピアを保護国化するものであった。当然、エティオピア政府はこの案に強く反対した。イギリス国内の世論は沸騰して、労働党はホーア=ラヴァル案について政府弾劾案を十九日に提出する運びとなったが、その上程の一日前の十二月十八日にホーア外相は辞職した。ボールドウィン首相は対独伊強硬論者と見倣されていたイーデン国際連盟担当相を後任とした。

 ホーア=ラヴァル案が葬られた翌日の十二月十九日、国際連盟の十八ヵ国小委員会は、石油禁輸問題を無期延期とした。翌三六年一月二十二日、石油禁輸問題について専門委員会が設けられ、この委員会の報告書が二月十二日提出された。これが十八カ国委員会において討議されるはずの三月二日、ムッソリーニはフランスに警告を発して、石油制裁が実施されるならば、イタリアは国際連盟から脱退し、三五年一月の仏伊ローマ協定付属軍事協定を破棄すると伝えた。同日、フランスは連盟に石油禁輸問題の回避と戦争終結勧告を提案し、翌日、連盟常任委員会はイタリア・エティオピア両国に休戦交渉の開始を提案した。エティオピアは三月五日、これに同意し、三月八日イタリアが交渉開始に同意した。しかし、その前日の三月七日、ヒトラーはロカルノ条約廃止を宣言して、ラインラントにドイツ軍を進駐させた。ここにヨーロッパ政局の焦点はドイツに移ることになる。

 ホーア=ラヴァル案の失敗、石油問題の延期、ドイツ軍のラインラント進駐は、イタリアのエティオピアでの行動に拍車をかけることになった。原始的な武器に頼るエティオピア国民の抵抗は意外に強力であった。三六年に入って、イタリア軍は次第に占領地を拡大して、戦局の大勢を決していった。やがて、五月二日エティオピア皇帝ハイレ=セラシエは亡命し、首都アディス=アベバは陥落して、ムッソリーニは、九日、エティオピア併合を宣言した。

 国際連盟の対伊制裁問題は七月には撤回されるに至った。ここに国際連盟の権威は失墜して、以後の国際問題は大国の直接交渉によって処理される傾向が助長されてゆくのである。またイギリス・フランスはイタリアの侵略を容認したが、その結果はイタリアのアフリカにおける勢力を増大させ、地中海に危険を生み出した。また、ドイツは対伊制裁に参加しなかったために、フランスの意図に反してドイツとイタリアを結びつけることになった。

 エティオピアを征服したイタリアは苛酷なテロリズム支配によって住民に臨んだ。エティオピアではイタリア支配に対するゲリラ活動が続き、イタリアはエティオピアの獲得によって得るところは少なかった。しかも、エティオピア戦争の予想外の長期化によって、イタリア軍とファシスト義勇軍との対立も生まれ、次の対外侵略による成功を夢想するムッソリーニ体制にとって困難な条件を生み出していた。

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