未唯への手紙
未唯への手紙
第二次世界大戦の特質
『戦間期国際政治史』より
第二次世界大戦の諸性格の中でもっとも重要なものはファシズムとの闘争であり、第二次世界大戦の終結の最大の結果は、ファシズムの崩壊であった。世界は、日本軍国主義、ナチズム、イタリアのファシズムの国際的ファシズム陣営が作り出した史上未曽有の「人工地獄」からようやく救われたのであった。一九三〇年代における激しい政治的イデオロギーの戦いは、一九四五年に至ってファシズムの敗北という形で一応の決着を見たということができる。
ファシズムの戦慄すべき実態が暴露された大戦直後の世界にあっては、ファシズムは如何なる意味でも正当化することはできなかった。ヒトラーやムッソリーニの徒党であったスペインのフランコ政権が、国際連合から厳しく排斥されたことは、第二次世界大戦直後の時期においてファシズムに対する憎悪が国際的に強かったことを示している。ニュルンベルクと東京における国際軍事裁判には、たしかに戦勝国による戦敗国に対する一方的裁判として、その進行・判決が権力政治的な利害に左右されたにもかかわらず、その戦敗国よりも戦勝国(ソ連邦・中国)の側においてこそ死傷者が圧倒的に多かった事実は、ファシズムによる「絶滅戦争」としての第二次世界大戦の性格に由来するものであった。
このような惨憺たる犠牲を払って、人類はようやく人権の尊重と侵略戦争否定の法理を実体化したといってよい。国家の犯罪を批判しうる人類的見地という国際法思想史上画期的な論理の普遍化こそが国際軍事裁判の遺産であった。戦勝国と戦敗国という単純な区分で国際軍事裁判の原理を秤量することは、ファシズムそのものを第一次世界大戦後の国際秩序に対する否定としてのみ理解することと同様に、あまりに非歴史的であろう。ファシズムを打倒するために第二次世界大戦において払われた犠牲の大きさが改めて強調されなければならない。
第二次世界大戦後の世界とは、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」を経た世界である。いうまでもなく、「アウシュヴィッツ」とはナチスによる大量虐殺であり、「ヒロシマ」とは広島・長崎における米軍の原子爆弾投下である。前者は非合理主義的ニヒリズムの行き着いた「人工地獄」であり、後者は人間の生み出した科学・技術の発達が人間自身を絶滅しうる恐るべき可能性を物語るものであった。そのような恐怖の前に、はじめて民族や階級を越えた人類そのものという意識が感得されたのであり、世界史がまさに人類史として自覚的に展開される前提が形成されたといえるであろう。
連合国にとって、ファシズムを打倒することが第二次世界大戦に課せられた課題であった。もとより、「ファシズム」をどのように理解するかについて、当時の連合国指導者の間に全き一致が得られていたわけではないが、しかし、侵略戦争の根源がナチズムや日本軍国主義の構造そのものにあること、従って戦争が枢軸国の単なる軍事的敗北にとどまらず、枢軸国の政治体制の変革を目的としなければならないという認識については、連合国の間におおよその諒解が得られていたといってよいであろう。カサブランカ会談以来の枢軸国に対する「無条件降伏」方針の提示も、このような認識に基づくものであった。
ところで、ファシズムに対抗する連合国の共通の旗幟は「民主主義」であり、資本主義国と社会主義国との体制的相違にもかかわらず、また、国家レヴェルの指導理念としても、占領下民衆の抵抗闘争の象徴としても、民主主義が唱えられていた。いわば、反ファシズムの戦列は、民主主義の名における国際的規模の統一戦線として形成されたのである。しかし、その「民主主義」もまた、「ファシズム」と同様に、連合国の間に理解の相違があった。それは大戦後には民主主義の象徴を争う対立として現われるのであった。例えば、西側諸国にあっては、民主主義は議会政治や自由企業のパターンにおいて伝統的に自明なものとして意識されており、その意味では保守的なものである。ファシズムという挑戦者を破ったことによって、そのような保守的に把えられた民主主義が、意識の上ではかえって強化されたといえるであろう。それは冷戦の一つの前提となっている。しかし、例えばヴェトナム民主共和国の独立宣言がアメリカ合衆国独立宣言やフランス革命の人権宣言に範をとっているように、市民革命期の民主主義イデオロギーが、西側の帝国主義を批判する武器となっている関係を重視すべきである。
一九四八年十二月国際連合総会において採択された「世界人権宣言」は、東西における民主主義理解の共通点を示しており、この宣言をめぐる討論において、民主主義についてのソ連側と西欧側との相違が原則的なものではなく、具体的な方法にあることが明らかにされた。しかし、東西冷戦の展開とともにこの相違点だけが強調されるのであった。
世界史的に見るならば、第二次世界大戦は、巨大な歴史的転回点であったといえるであろう。そのことは、いわゆる近代史の様相を回顧してみるだけでも感得されるはずである。ヨーロッパの、しかもその支配層が世界情勢を左右した時代、資本主義だけが生産力発展の上で圧倒的に優位に立つ生産様式であった時代、そのような優位にある国による異民族の隷属化か当然として怪しまれなかった時代、国民の意志に関係なく戦争が起こされていた時代、などの近代史の諸様相は、現在においては消滅しているか、あるいは著しい変容を示している。いわば、世界の構造に大きな転換が嗇されているのである。第二次世界大戦後の世界は、全体として、歴史の新しい段階に入ったといってよい。第二次世界大戦後三十数年の歴史をどのような立場から把握するにしても、共通に認めざるを得ない明瞭な特徴は、資本主義とともに社会主義が、さまざまな困難を内蔵しつつも、国際的規模において存在していること、植民地諸民族が政治的独立を達成し、「第三世界」として世界史の新たな要因として登場していること、そして一方において核兵器が存在し、他方において月着陸の成功を見るまでに至ったように、科学・技術の発達が加速度的であること、などである。いわば人類は自然に対する関係において最高のレヴェルに到達したといえるであろう。しかし、それが人間と人間の関係についての合理的調整に比べて不均衡に発達したことによって、人類はかつてない危機に臨んでいるこである。国際権力政治の尭絶と諸国民の福祉のための方途をわれわれは模索し続けなければならない。
第二次世界大戦の諸性格の中でもっとも重要なものはファシズムとの闘争であり、第二次世界大戦の終結の最大の結果は、ファシズムの崩壊であった。世界は、日本軍国主義、ナチズム、イタリアのファシズムの国際的ファシズム陣営が作り出した史上未曽有の「人工地獄」からようやく救われたのであった。一九三〇年代における激しい政治的イデオロギーの戦いは、一九四五年に至ってファシズムの敗北という形で一応の決着を見たということができる。
ファシズムの戦慄すべき実態が暴露された大戦直後の世界にあっては、ファシズムは如何なる意味でも正当化することはできなかった。ヒトラーやムッソリーニの徒党であったスペインのフランコ政権が、国際連合から厳しく排斥されたことは、第二次世界大戦直後の時期においてファシズムに対する憎悪が国際的に強かったことを示している。ニュルンベルクと東京における国際軍事裁判には、たしかに戦勝国による戦敗国に対する一方的裁判として、その進行・判決が権力政治的な利害に左右されたにもかかわらず、その戦敗国よりも戦勝国(ソ連邦・中国)の側においてこそ死傷者が圧倒的に多かった事実は、ファシズムによる「絶滅戦争」としての第二次世界大戦の性格に由来するものであった。
このような惨憺たる犠牲を払って、人類はようやく人権の尊重と侵略戦争否定の法理を実体化したといってよい。国家の犯罪を批判しうる人類的見地という国際法思想史上画期的な論理の普遍化こそが国際軍事裁判の遺産であった。戦勝国と戦敗国という単純な区分で国際軍事裁判の原理を秤量することは、ファシズムそのものを第一次世界大戦後の国際秩序に対する否定としてのみ理解することと同様に、あまりに非歴史的であろう。ファシズムを打倒するために第二次世界大戦において払われた犠牲の大きさが改めて強調されなければならない。
第二次世界大戦後の世界とは、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」を経た世界である。いうまでもなく、「アウシュヴィッツ」とはナチスによる大量虐殺であり、「ヒロシマ」とは広島・長崎における米軍の原子爆弾投下である。前者は非合理主義的ニヒリズムの行き着いた「人工地獄」であり、後者は人間の生み出した科学・技術の発達が人間自身を絶滅しうる恐るべき可能性を物語るものであった。そのような恐怖の前に、はじめて民族や階級を越えた人類そのものという意識が感得されたのであり、世界史がまさに人類史として自覚的に展開される前提が形成されたといえるであろう。
連合国にとって、ファシズムを打倒することが第二次世界大戦に課せられた課題であった。もとより、「ファシズム」をどのように理解するかについて、当時の連合国指導者の間に全き一致が得られていたわけではないが、しかし、侵略戦争の根源がナチズムや日本軍国主義の構造そのものにあること、従って戦争が枢軸国の単なる軍事的敗北にとどまらず、枢軸国の政治体制の変革を目的としなければならないという認識については、連合国の間におおよその諒解が得られていたといってよいであろう。カサブランカ会談以来の枢軸国に対する「無条件降伏」方針の提示も、このような認識に基づくものであった。
ところで、ファシズムに対抗する連合国の共通の旗幟は「民主主義」であり、資本主義国と社会主義国との体制的相違にもかかわらず、また、国家レヴェルの指導理念としても、占領下民衆の抵抗闘争の象徴としても、民主主義が唱えられていた。いわば、反ファシズムの戦列は、民主主義の名における国際的規模の統一戦線として形成されたのである。しかし、その「民主主義」もまた、「ファシズム」と同様に、連合国の間に理解の相違があった。それは大戦後には民主主義の象徴を争う対立として現われるのであった。例えば、西側諸国にあっては、民主主義は議会政治や自由企業のパターンにおいて伝統的に自明なものとして意識されており、その意味では保守的なものである。ファシズムという挑戦者を破ったことによって、そのような保守的に把えられた民主主義が、意識の上ではかえって強化されたといえるであろう。それは冷戦の一つの前提となっている。しかし、例えばヴェトナム民主共和国の独立宣言がアメリカ合衆国独立宣言やフランス革命の人権宣言に範をとっているように、市民革命期の民主主義イデオロギーが、西側の帝国主義を批判する武器となっている関係を重視すべきである。
一九四八年十二月国際連合総会において採択された「世界人権宣言」は、東西における民主主義理解の共通点を示しており、この宣言をめぐる討論において、民主主義についてのソ連側と西欧側との相違が原則的なものではなく、具体的な方法にあることが明らかにされた。しかし、東西冷戦の展開とともにこの相違点だけが強調されるのであった。
世界史的に見るならば、第二次世界大戦は、巨大な歴史的転回点であったといえるであろう。そのことは、いわゆる近代史の様相を回顧してみるだけでも感得されるはずである。ヨーロッパの、しかもその支配層が世界情勢を左右した時代、資本主義だけが生産力発展の上で圧倒的に優位に立つ生産様式であった時代、そのような優位にある国による異民族の隷属化か当然として怪しまれなかった時代、国民の意志に関係なく戦争が起こされていた時代、などの近代史の諸様相は、現在においては消滅しているか、あるいは著しい変容を示している。いわば、世界の構造に大きな転換が嗇されているのである。第二次世界大戦後の世界は、全体として、歴史の新しい段階に入ったといってよい。第二次世界大戦後三十数年の歴史をどのような立場から把握するにしても、共通に認めざるを得ない明瞭な特徴は、資本主義とともに社会主義が、さまざまな困難を内蔵しつつも、国際的規模において存在していること、植民地諸民族が政治的独立を達成し、「第三世界」として世界史の新たな要因として登場していること、そして一方において核兵器が存在し、他方において月着陸の成功を見るまでに至ったように、科学・技術の発達が加速度的であること、などである。いわば人類は自然に対する関係において最高のレヴェルに到達したといえるであろう。しかし、それが人間と人間の関係についての合理的調整に比べて不均衡に発達したことによって、人類はかつてない危機に臨んでいるこである。国際権力政治の尭絶と諸国民の福祉のための方途をわれわれは模索し続けなければならない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« エティオピア... | 日本の財政は... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |