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もはや「協調性」は時代遅れ

『「型を破る人」の時代』より この「刺激的」な働き方!--「標準化」「安定志向」から「個性」と「リスク」へ

生産性を中心に構築されてきた産業化時代だが、私たちの周囲のいたるところで、もはや衰退しつつある。

農場からの脱出、マスメディアの成長、学校、道路、市場の標準化-こういったことが起こったのは、大量生産、とり替え可能な部品、大量市場が、とんでもなく多くの利益を生み出してきたからだ。

パンですら産業化されてきた。工場で速く安くできるパンは、簡単に利益を生み出す。

その結果、小麦は精白され、流通ルートは拡大し、パンに職人の個性が反映されなくなった。

一九一九年、ハーバード大学および米国規格基準局のC・A・アダムズは、こう書いている。

「標準化」という言葉は漠然としか理解されていない。この言葉が網羅する範囲や、意味の重要性がきちんと認識されていないのだ。現代社会に不可欠な「協調性」も、「標準化」が広範囲に進まないと成り立だない。どの国においても、「標準化」の度合いは文明化の尺度だといってもいいかもしれない。

J・エドガー・フーバーはFBIを産業化した人物だ。法の執行を、人の手をかけた地方組織から、組織化、標準化された運営形態へと変化させたのだ。

ジャーナリストのジョージ・アンダースによると、フーバー(四十八年間にわたりFBIを運営した)は八千人以上の職員を抱える組織をつくり上げたのだが、職員名簿に女性は一人も含まれておらず、アフリカ系、アジア系、ラテン系アメリカ人は百五十人以下であった。

そのトップダウン方式の服従システムの驚くべき例をあげると、フーバーがFBIの訓練学校を訪れ、「問抜け(「頭の小さい人」の意味もある)は見たくない」といい出したとき、職員が、訓練生全員の帽子のサイズを測り、七以下だった三人を放校処分にしたそうだ。

一九四七年、ある家族経営の建築業者が、現代的な住宅地を郊外につくることを考えついた。それが大量生産され、産業化され、最適化された分譲地「レビットタウン」で、そこでは家を効率よく建てることができた(建築業者は、一日に三十件もの家をつくったのである)。

安価で社会的に認められた住宅の大量供給への需要は高く、二日も経たないうちに、レビットタウンを大成功へと導いた。

適合は多様性よりたやすく、安全で、安価だった時代のことだ。

履歴書を書くことは難しくはない。用紙が標準化されているからだ。

履歴書の目的は変わらないが、その処理方法は変化した。大企業では、一日に二千通以上も届く履歴書を読むのは、人間ではなくコンピュータなのだ!

コンピュータは「いいなりになる人間」の記号を探してくれる。

有名大学を出ているか。

名の通った企業に勤務していたか。

会社が求める肩書をもっているか。

世の中にはあまりにも多くの集団があり、あまりにも多くの人びとがいるんだから、システムが集団を処理するのに、ほかにいい方法なんかないでしょ?

また、教育も同様だ。

大学は標準化、産業化されるしか選択の余地がなかった。神学校と学者のたまり場から、エリートと影響力のある地位を求める人びとの最終教育機関へと変化したとたん、産業化され、わかりやすいカリキュラムを組むしかなくなったのだ。

大学は「教え合い学び合う共同体」、つまり、教師と学者のコミュニティとしてスタートしたけれど、いまでは、生涯にわたる負債と引き換えに、学位、そして「いい仕事」を得るために行く場所になってしまった。

多くの人が大学へ行くようになったために(人口比率でいうと、大学進学率は数世代まえと比べて十倍だそうだ)、嘘で飾った「一流校ランキング」やアメフトの試合によって有名校になる必要があり、試験、評価基準を標準化するほかなくなったのだ。

すべての人は天才である。しかし、木に登る能力によって魚を評価するなら、魚は自分を能なしだと信じて一生を送るだろう。

標準化なくして、産業化は不可能だった。

しかし、いまの「つながりの時代」においては、独自性とアー卜なくして、目のまえの仕事を片づけることは不可能だ。

そう、アートなくして、つながることは不可能なんだ。
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周辺部が中心部になる

『国境にて』より

一九九二年にイツハク・ラビンが首相に選ばれた翌日、労働党のヨッシ・ベイリン議員(後にオスロー合意の主要交渉者となった人物)はテレビで次のようなコメントを出した。

この選挙結果は、恐らく二度とあり得ない幸運な状況から生まれた果実だと言えます。だから、この機を逃さずに、早急に和平プロセスに入るべきだと思います。ひょっとすれば、左派にとって、自らの政策が実行できる最後の機会かもしれないからです。

先を見通したこの分析は、シオニスト左派全般の勝利に酔った発言と好対照をなしていた。左派の人たちは、労働党の政権復帰を、一五年間続いてきた変則的幕間の終了で、やっと本来の姿に戻ったと考えていた。シオニスト左派は、自分たちが抱くイメージに合わせ、自分たちの世界観に沿って国作りをしてきたものだから、自分だちとイスラエル国家を同一視する傾向があった。政権から離れていた一五年間、彼らはイスラエル社会を作り変えようとしていた社会的・政治的・文化的変化に目を向けようとしなかった。選挙で敗北するたびに、シヤス党が票を伸ばすたびに、それに驚き、こんなことは二度と起こることがない珍現象だと語るだけであった。しかし、時代の流れは着実であった。ベングリオンやキブツのイスラエル、ローマの詩人ヴェルギリウスを引用できる大佐がいたイスラエルは、もう消滅しつつあったのだ。

ペイリンの警告はすでに遅きに失するところがあった。ラビン左派政権成立はイスラエルの社会政治的現実を反映したものとは言えず、同政権が打ち出したパレスチナとの和解政策は、勢いを得てどんどん強くなっていく層の世論と衝突した。この層は、一九八〇年代初期から新しい社会政治勢力として、労働党、そこに集まるエリート層、そのイデオロギーや社会建設の青写真を否定する勢力として出現した。この勢力自体は、内部に深い社会的・文化的矛盾を抱えるものであったが、労働党拒否という点では一致し、強力なブロックを形成した。それは、イスラエル建国以来、「新しいユダヤ人像」の基準に適合せず、建設中の国家社会の隅っこに追いやられていた人々からなるブロックであった。その一つは、アラブ系ユダヤ人やオリエンタル系ユダヤ人(クルド系、ペルシア系、インド系)で、未開で後進的なために、近代的シオニズム使命を帯びた国家の旗手にはなれないとされた。もう一つはユダヤ教徒で、これは惨めなディアスポラの残骸と見られた。建国の父たちの考えでは、これらエスニック文化的特異性は、西洋的世俗的モデルヘの統合--同化--を目指した積極的な社会化過程のるつぼの中で、溶けてなくなるはずであった。たとえ親が地理的・社会的に周辺部に位置していても、その子どもはまっとうな中心部イスラエル人になるはずであった。

その後一世代が通過したが、周辺部は依然として周辺部のままであった。

旧ソ連圏の共和国から大量の移民がイスラエルヘやってきたとき、それが先行移民を社会階級の上方へ押し上げるものと期待された。しかし、新移民の波は先行移民の頭の上を通り越した。先行移民--モロッコ、クルド、イラク、イエメンからの移民--の子どもたちは、相変わらず社会的に底辺、地理的に辺境の位置のままだった。学校、軍隊、その他の「統合」機関があったにもかかわらず、「二番手イスラエル」は消滅しなかった。しかし、状況は大きく変わった。一九五〇年代から一九八〇年代までの周辺部が国家集合体から排除されていたとすれば、一九八〇年代以降の周辺部は自らの意志で中心部から距離を置き、公的思想や支配的文化を意識的に拒否したと言える。

私がこういう現実の変化に気づいたのは、私が出所後、刑務所の外でも刑務所内で始めた活動を続けようとしたときだった。識字教育(イスラエル生まれのユダヤ人やアラブ人に非識字者が多いことを刑務所の中で知った)のことで、それに加えて、アルコール中毒者や麻薬中毒者の更生センターのボランティアにも志願、そこで現代社会問題に関する討論会を組織した。その一環として、ホロコースト記念日にホロコーストに関する学習会を開くことをセンター側から依頼された。ホロコーストは絶えず私の心にひっかかっている問題で、これまでに何度も、特に若い人々を対象に学習会を行なった経験があった。更生センターを頻繁に出入りした人々は主にセファルディーで、ほとんどイスラエル生まれだった。私がホロコーストについて話し始め、ものの一五分も経たないうちに、突然参加者の一人が私の話をさえぎって、次のように言った。「ミシェル、あんたは教育があり、バカでないことは、わしらがよく知っている。それに、あんたはわしたちを大事にしてくれることも知っている。それなのに、なぜあんたは六百万人のユダヤ人虐殺というホラ話をするんだね? まさか、あんたまでがそれを本気で信じているんじゃないだろう?」と。他の参加者も彼の発言に同意して、うなずいていた。私はすっかり動転し、「じゃ、君は本当はどうだったと思っているんだ」と問いかけた。彼や参加者たちの答えは、「アシュケナージが、白分たちが犠牲者で、わしらは犠牲者じゃないことを、わしらに信じ込ませようとしているんだ。そんなものに編されないぞ」であった。こういう出来事はそれ一回だけではなく、その後も、私が彼らをホロコーストの証拠記録や恐ろしい写真を展示しているヤド・ヴァシェム記念館へ連れて行った後でも、何度もあった。

いったん支配階級が自分たちの世界観やイデオロギーを押しつけることができなくなると、被支配的位置にある周辺部は自分たちの力や特質を意識するようになり、エリート権力に立ち向かうようになる。ここで革命が起きたり、そこまでいかなくても、大きな社会的亀裂が表面化するのである。
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カーシェアリングの特徴:環境に優れた車の使い方

『成熟都市の交通空間』より シェアする時代の交通空間 交通手段をシェアする

カーシェアリングは、利用者や道路交通、また、環境や社会にどのように貢献できるのであろうか。大まかには、次のように整理することができる。

利用者にとって、

 ・車を保有、利用するのと比較してたいへん経済的である、

 ・車庫のスペースが不要になる、

 ・車を保有している場合と比較して、利用頻度、走行距離が少なくなる傾向がある。

道路交通に対して、

 ・車での走行回数と距離の減少により道路交通の混雑を軽減する。

環境に対して、

 ・走行回数と距離の減少により、エネルギー節約と排出ガスの減少をもたらす、

 ・エコカーのカーシェアリングの場合、エネルギーおよび排出ガスの減少が期待できる。

社会に対して、

 ・車利用のコスト意識を持つきっかけとなる、

 ・自動車への依存を少なくし、環境に対しての意識を高める可能性がある。

事実、これまでカーシェアリングの影響および評価に関する調査、研究が世界的にも数多く実施されているが。それらの中から、サンフランシスコを本拠に置くCity CarShareの運営団体(NPO)がまとめたカーシェアリングの影響をもとにいくつかを列挙してみよう。なお,City CarShare は、2005年時点で8,000人の会員を持ち、250台の車と130のステーション(pod)を使ってサービスを行っていた。

 ① 自動車の保有:

  ・会員の29%が、それまで所有していた少なくとも1台の車を手放した。

  ・会員の67%が、もう1台車を購入することを止めた。

  ・カーシェアリング1台で11台分の車を道路上から減少させた。

 ② 車での移動量:

  ・会員になって車での移動距離は47%減少し、バスや自転車および徒歩に変わった。

  ・会員によるトリップの多くはピーク時を避け、買い物やレクリエーションのトリップに多く使われるようになった。

 ③ ガソリン消費と排出ガス:

  ・その結果、City CarShareでは毎日2万1,000kmの移動、2.7kLのガソリン、9,000kg のCO2を減少させている。

車の保有と利用を少なくし、環境に優れたこのシステムを普及させるべく、筆者の研究室では、2001年、交通エコモ財団の助成により三鷹市の公団集合住宅においてモニター会員28名、車2台を用いて3ヶ月間にわたるカーシェアリング社会実験を行った。その後、 2003年よりレンタカー業の免許を持つ(有)移動サポートの協力を得て、同市内の戸建ての住宅地でカーシェアリング「OURCAR」の事業を行ってきている。現在、ステーション1箇所、車3台、会員20名と小規模ではあるが、継続しながら、利用のされ方等のデータの蓄積を図っている。そこから見えるカーシェアリングの利用の特徴は、概ね次のとおりである。

会員の約80%はマイカーを保有しておらず、年令は30代~50代である。会員の多くは、環境への意識が高く、利用の目的は買い物が39%と最も多く、ついで送迎(30%),レジャー(9%)となっている。これらの傾向は、他の調査結果でもほぼ同じような傾向を示している。また、1回当りの走行距離は約30 km,利用時間はおよそ2時間である。会員の走行記録をもとに試算すると、会員14~15人で平均的なマイカー1台分の利用をシェアしていることになり、米国での例を見るまでもなく、車を保有するよりも格段に少ない利用であることを示している。

このように、カーシェアリングは、車の保有と利用を減少させ、結果として環境への負担を軽減させる可能性を持つ。加えて、利用者は公共交通手段や自転車の利用を増やし、また歩行による移動を増やすことになれば、自動車に頼らない生活に大きく貢献することが期待される。さらには、車庫や駐車場のスペースが不要になり、環境に配慮した土地利用や都市空間へと変えていく可能性を持つ。

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残りの生活パターン

残りの生活パターン

 生活のパターンを少し、シンプルにします。持って行くものは本当にこれだけ。家は本を読むところ。タブレットは会社において、考えるのに使います。来週は、そのスタンスでいきます。火曜日はないけど。

 何しろ、幻想は除きます。特にネットと承認の期待は不用です。ネットは単に発信するだけです。承認は必要ない。私の思考のトレースです。スケジュールをどうするかです。紙で行いましょう。

 来週は家で読まないと、追いつかない。反映するのは会社です。

「お待ちしてました」は魔法の言葉

 「お待ちしてました」は魔法の言葉です。存在を認めることです。

ネックストラップで移動

 ネックストラップは、6個に分解できます。トランスフォーマーのように。移動する時には集めて持って行きます。

第10章の検討

 第10章は第9章とどこが違うのか。第10章は自分のスタンスです。生まれてきた理由に応えるものです。私の中の社会とか歴史を変えていくことです。

 そうなると、10.3の「新しい民主主義」は毛色が異なります。変えないといけない。なにしろ、10.7の「全てを知る」と10.8の「存在の無」につなげることです。

 あくまでも、私と歴史に関することを中心にします。第9章は「環境社会」がテーマですから、社会がどうなるかを述べるだけにします。第10章になると、歴史を変えるとこまでいきます。

 9.2と10.3はあまりにも似ているので、10.3は「サファイア革命」にしました。持続可能性をどう保障するかという観点で、革命にします。その指針の「資本論」を表します。
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