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ヤスパース 世界史の四段階

『ヤスパース』より ヤスパースの歴史観 歴史の起源と目標 世界史の構造

ヤスパースは世界史全体の構造をどのように考えるのであろうか。ヤスパースの構想を簡単に図式化していえば、人類は世界史の過程において四たび新しい基盤から出発することになる。第一の出発は、先史時代における言語や道具や火の使用のはじまりで、これによって人間は他の動物と違った人間独自の生活形式を獲得した。第二の出発は、メソポタミア・エジプト・インダス・黄河を中心とする古代高度文化の創始であり、第三の出発が先に述べた基軸時代からの出発である。そして第四の出発は、われわれが今日経験している科学的技術的時代からの出発であって、人類はこの新たなプロメテウスの時代で、いわば第二の呼吸を始め、かつての古代高度文化の組織化と計画化に似た事態を経て、はるか未来の、基軸時代に似た人類の精神的創造の時代にむかうものと想定されるのである。

先史時代

 歴史は文字による記録が伝承されている限りでの過去に及ぶ。そうだとすれば、それは紀元前約三〇〇〇年以来のことで、つまり歴史は今日まで約五〇〇〇年を経過したことになる。

 だが人類の発生はそれに先だつはるか昔のことで、人骨の化石は数十万年以前にすでに人類が地球上に存在していたことを告げている。人類は数十万年にわたる先史時代を経て、ようやく五〇〇〇年の歴史をもつのであるが、この先史時代における人間の発展は人間存在の広義での自然的基質構造の生成であり、歴史のうちでの発展は獲得された精神的技術的内実の展開である。先史と歴史はこのようにして人間存在の二つの基礎をつくりだしたが、その期間の長短からもわかるように、第二の歴史的に形成された人間性は、第一の先史的な人間天性を基底層としてそれをおおう薄い表皮のようなものである。人間はこの表皮を脱ぐことはできても--あるいは脱がされることがあっても--先史時代に由来する人間天性を棄てさることはできない。歴史が崩壊すれば、人間は先史での人間にもどるであろう。いな、現代に生きるわれわれが石器時代の人間にもどるのではないかという不安にときどき駆られるのは、われわれ自身がその基底において先史時代の人間として生きているからなのである。

人類の起源

 では、この先史時代の発端において、人間は二元的な起源から生じたのであろうか、それとも多元的に発生したのであろうか。人類は全体として一つの同族なのであろうか、それともいわば独立したいくつかの家族の集まりなのであろうか。ヤスパースによると、一元的発生説に有利で多元的発生説に不利な事実がいくっもある。たとえば、あれほど広大なアメリカに古い人骨が発掘されないこと、またあらゆる人種が相互の混血においても依然として生殖能力をそなえた人間を生むこと、最高等の動物をとっても、人間を動物から引き離している距離は人種間のもっとも隔った距離よりも問題にならないほど大きいこと、これらはいずれも一元発生説に有利な事実といえよう。とはいえ、われわれは、人類の起源が」元であるか多元であるかを経験的に立証して真偽を定めることはできない。それよりむしろ重視しなければならないのは、人間相互のつながりは馬は馬ずれといった動物学的形態の相同性によるのではなく、人間が相互に他を理解しあえるという事実、つまり人間が意識や思考や精神であるという事実のゆえに成立する、ということである。ここに人間同志の最も内密な親近性があり、他方人間を人間に最も近い動物から区別する断絶性がある。人間の起源が」元的か多元的かは科学的には確証されない。だがしかし、人間は歴史のうちで人間すべてが」つの同じものに属するという同族性の信仰を獲得した。そしてこの信仰とともに、現実にも人類の統一を実現しようという意欲がうまれるめである。つまりこういってよいであろう。ヤスパースは人類が一つの起源から生じたという信仰に基づいて人類の先史をながめているのであって、その信仰はまた、人類が将来一つの目標において統合しうるという信仰でもあるのである。

古代高度文化

 人間は古代高度文化の成立とともに、その長い沈黙の先史時代を閉じた。人間は文字で書かれた記録を通じて語りあう。またわれわれがかれらの文字を解読することによって、かれらはわれわれにも語りかけてくる。ナイル・チグリス-ユーフラテス・黄河の流域では治水と灌漑の組織化が中央集権化された国家をうみ、それらは後には一連の世界帝国にまで発展した。また共通の言語や文化や神話によって一体の自覚をもった民族が発生し、馬が戦車馬や騎乗馬として登場した。こうしたできごとが人間に歴史をひらいたが、それとともに人間は内面的にも変化し、固定した先史的状態から解放された。その解放は、意識や記憶、精神的に獲得されたものの伝承による、単なる現存在の状態からの解放であり、合理化と技術による、その場限りの生存から将来の備えと保証のある生活への解放であり、支配者や賢者を鏡とする、愚昧な自意識や魔神の恐怖からの解放であった。いわゆる自然民族として今日にいたっている諸民族は、古代高度文化に全く参与しなかった諸民族であり、またメキシコやペルーのアメリカ原住民もそうで、かれらは時代的にはるか後になって初めて古代高度文明に似た文明(マヤ・インカ文明)をつくりだしたのである。

 とはいえ、ヤスパースによると、これら古代の高度文化には、後の基軸時代におけるような人間の精神革命がまだ見いだされない。いな、むしろ大規模な組織化は、すぐれた文明をそなえながらも無自覚的に生きる人間をうみ出した。「とりわけて技術的な合理化は本来の反省を欠いた無自覚性に対応する」のである。古代高度文化には、真に歴史的な動きが欠けていた。目だった最初の創造があって後、基軸時代にいたる数千年の年月は、精神的にはほとんど動きがなく、歴史的な大事件によって中断された文化の再興が不断にくり返されるだけであった。エジプトなどはそのよい例であろう。その間、確かにさまざまなできごとはあったが、しかし、それらのできごとは人間存在を精神的歴史的に決定づけたものではなかったのである。

 ヤスパースが古代高度文化をこのように特徴づけるとき、そこにはまたおそらく現代の第二の技術的時代がそのまま成長し続けるときに生ずる歴史の未来の姿がうつされているのであろう。

 現代の大規模な技術化と組織化は、古代高度文化の場合と同様に、人間精神とそれによって営まれる歴史の停滞化を招きかねないのである。
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二重の存在としての移動者

『「地元」の文化力』より 参加のパラドクスと地域社会のゆくえ

参加のパラドクスと移動者の関係である。これまでの考察から、地域社会を基盤にした、ハイブリッドな、それゆえ創作的な文化活動は、(恚地域コミュニティでの人間関係と、文化活動を企画・運営する集団(機能的集団としての特徴を持つ)とを併せ持っていること(関係の二重性)、(2)そのなかでコアの集団へと徐々に参加の深度を進めていくことで「学習卜が進むこと(正統的周辺参加)、さらには、(3)その際に参加の程度をあげていくために、境界を越えていかなければならないことを明らかにしてきた。そして、コアの集団のまとまりのよさ(社会学でいう集団の凝集性)が求められる一方で、それゆえにこそ、さらなる集団参加を求めつつ、そのコア集団への参加が難しくなるというパラドクスを見いだした。このような創作的な地域文化活動の中に、移動者はどのように位置付くのだろうか。すでに、第4章で小島が秀逸な表現を使って指摘したように、「土の人」に対する「風の人」の存在と役割である。とりわけ「風の女神たち」と表現された女性の移動者たちの役割は印象的だった。

こうしたこれまでの章での考察をふまえつつ、議論の出発点として、全国調査の結果から第7章で狭間と古川が明らかにした次の知見、すなわち、「Uターン者が活動を立ち上げ、それに興味を持ったIターン者が活動に積極的に参加し、さらに非移動者を巻き込んで活動を地に根付かせる」という発見をもとに議論を始めよう。もちろん、これは全国調査から得られた知見であり、第4びでの小島の考察のように、Iターン者が立ち上げの主人公になることもあるし、UターンもIターンも、さらに移動の距離を考慮すれば玄田の言うSターンの場合も含まれる。非移動者に対して、移動した者たちということだ。

「風の人」のたとえのように、移動してきた者たちが、新しい視点(「外からのまなざし」)や、しがらみにとらわれない自由さ、あるいは外部の世界での経験がもたらすさまざまな知識やスキル、社会関係資本などの資源を持ち込むことで、文化活動が立ち上がったり、活性化する。このような影響についてはすでに各章でいきいきと描写された。

こうした移動者の活躍の余地が生まれるのは、本書が対象としてきた文化活動の創作性がもたらす特徴と関係することはすでに本章でも述べた。それを、もう少し抽象度を上げて表現すれば、ハイブリッドで創作的な文化活動の運営に必要な機能的集団(アソシエーション)としての特徴が、地域社会というコミュニティを基盤に成立しているという二重構造をもつために可能になっていると言ってもよい。伝統的な祭りとは異なり、機能的な集団だからこそ、地域社会の外での経験やそこで得られたスキルや資源がいっそう価値を持つのである。今回対象となった文化活動のいくつかが、運営の中心を担う組織を委員会形式にしていることも、その証左のIつと言えるだろう。組織としての機能性と透明性と開放性を確保するための選択である。それゆえ、土着でなくても能力を発揮する場があるから、参加の機会が与えられ、周辺から中心への越境が可能になるのである。前述した「達成的」な評価基準の所以である。

しかもハイブリッドで創作的な文化活動は創造を続けるところに新しい伝統としての特徴がある。螺旋形モデルで言えば、文化コンテンツの頂点=中心が固定されているわけではなく、変化を常としているということである。伝統的な文化活動が、その定義からしてマンネリ化すればするほど価値を持つのとは反対に、こうした創作的文化活動の成否は、それを避けるところにある。そうした特徴も、外部からの移動者(Uターン者も含めて)に活躍の場を与えやすい。機能性と開放性が求められるからである。しかもUターン者の場合であれば、かつて地縁や学校縁で結びついていた人間関係が、婚姻や就職によって移動したIターン者であれば家族や職場を通した間接的な地縁関係が、資源となり、参加の敷居を低くする。

しかし、移動者の参加は地縁的つながりを持つとはいえ、いつもスムーズに、順調にいくとは限らない。いくつかの章でも触れられているように、運営や文化コンテンツをめぐる摩擦や緊張、葛藤を持ち込む可能性があるからだ。だが、ここでの議論にとって重要なのは、こうした緊張や葛藤が生み出す小さな亀裂が、コアグループの中に間隙を生み、それが組織のダイナミズムや開放性につながる可能性である。誰かが抜けていく代わりに、ほかの誰かが役割を担い、新たな方針がとられるという動きである。移動者が対立を持ち込むこともあるし、内部で生じた対立を調整する役割を移動者が担うこともある。地域外での経験が与える移動者の二重性(地元住民であると同時に外部者でもあった)が、葛藤の起点になったり、それを調整する冷静な観察者の目を持ち込んだりする。その意味で、移動者は関係のつなぎ手であると同時に、関係を絶つ役割も担いうる。空気を完全に読み切らないことで生まれる葛藤や摩擦であるが、「小さな地雷」を踏むことで生まれる組織のダイナミズムである。移動者が帯びる関係の二重性(地元と外部)と、地域文化の関係の二重性(地縁と趣味縁、コミュニティ的な関係とアソシエーション的な関係)とが重なり合うところで、伝統型の文化活動とは異なる動きが生じうるのである。
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雑記帳が800冊に達した

雑記帳が800冊に達した

 デジタルの雑記帳が800冊に達した。テキストのボリュームは203MBです。約1億文字ですね。約、22年9か月掛かりました。

 001冊…1992/01/03

 100冊…1995/01/12

 200冊…1999/08/01

 300冊…2003/03/31

 400冊…2006/04/17

 500冊…2009/09/08

 600冊…2012/01/15

 700冊…2013/07/16

 800冊…2014/09/26

 なお、紙ベースでは、1985/01/18からで、未唯が生まれる前からです。

スタバはコーヒーショップなのか

 当番でなかったけど、Iさんにバーをやってもらった。ラテアートの飲み口が90度であることがポイント。

 録音のホールドはしない方がいい。操作ミスで抜けてしまう。編集で抜くようにしましょう。

 スタバにしても、コーヒーショップなのか、出会いの場なのか、それによって、違います。

 「コーヒー、買って下さるんですか?」これはなかなか含みのある言葉です。Iさんとの会話に集中して、スタバがコーヒーショップであることを本当に忘れそうです。

 地下鉄が止まっていたので、ユニモールでミーティングしたそうです。かなり、開放的になったみたいです。シャツはオータム色。ハロウィンをイメージしたけど、パートナーとかぶっていたので、ひっそりしていた。

近傍系は多様化に対応

 数学におけるアイデアとは何か? 歴史的・社会的に証明する。

 座標系に対する近傍系の多様化みたいなモノでしょう。一つの点が色々なグループに属する。それによって、分化できる。それは近傍系と同じです。または多層化の考え方に近いでしょう。そういう意味では、多層的な空間論がこれに当てはまります。

ブルーオーシャン

 ブルーオーシャンを未唯空間のどこに位置づけるか。新しい競争、競争のない世界、差別化の世界。多様化の中で捉えないと、ブルーオーシャンも無理があるでしょう。

 ブルーオーシャンを入れるとしたら、一つは販売店の観点、もう一つはクラウドという観点、そこでの商売、マーケティングに絡ませます。

未唯空間からの商売のアイデア

 未唯空間から、どういう商売が考えられるかについてもまとめないといけない。それはサファイアでの人の配置も関係します。

パートナーからの問い

 「この室の役割は何でしょうか」この問い以降、接触がなくなりました。

 組織は大きくなるほど、目標が小さくなる。これを部品表で習ったことです。個人の目標、室の目標、会社の目標は包含関係は逆になります。それがパートナーからの質問に対する、私の本当の答えです。

 その図式からすると、目標を大きくするためには、小さいところの目標を大きくするしかない。

 ボルトナットでできること、エンジンでできること、クルマでできることに当てはめました。これをヘッドロジックと名付けました。もう、38年までのことです。

私はクレーマー

 薬に対する薬局へのクレーム。従来からの対応の悪さを全て、ぶっつけた。私はクレーマー
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